フェイスブック等のSNS嫌いを友達に話をしたら、「そういうあなたもブログという不特定多数に対する大量発信をして似たような利用の仕方をしているんじゃないの?」と手厳しい指摘を受けた。
ま、確かにその1面はあるだろう。が、基本的スタンスがまるで違うので、ちょっと言い訳をしておきたい。
とにかく一番大きな違いは「出会い」や「繋がり」を求めるか否か、ということだ。
フェイスブックは基本実名で、発信した情報、受信した情報を利用して、輪を広げようとするものだ。それを利用して友達(こういう広がりを友達とは呼びたくないが便宜上こう呼ぶ)を作ろうとする。
方や、ブログは匿名であり、読みたい人に読んでもらって、特に誰かと繋がろうとするものではない。いわば世間に記事を一方的に発信しているだけで友達を増やすなんて目的はまるでない。そこが大きく違うのだ。
生死には倫理がある。私は出会いにも倫理があると思う。自分はここにいるよ、と誰でも彼でもに発信して誰かと繋がろうなんてのは、出会いの倫理を逸脱していると思うのだ。
会社で出会う。店で出会う。同窓会で出会う。町内会で出会う。音楽で出会う。出会いは動いている人と人が会ってこそ出会いというのではないか。労力を惜しまずにたまたま「繋がった」だけで、友達が増えた、なんていう人がたくさんいる。私はそんなふうにはなりたくないしなれない。
この記事を読んだ人が、「そうそうそうだよねー」とか「そうとは思わないよー」と勝手に思っていただく。繋がりなんて求めていない。それがブログである。
ま、確かにその1面はあるだろう。が、基本的スタンスがまるで違うので、ちょっと言い訳をしておきたい。
とにかく一番大きな違いは「出会い」や「繋がり」を求めるか否か、ということだ。
フェイスブックは基本実名で、発信した情報、受信した情報を利用して、輪を広げようとするものだ。それを利用して友達(こういう広がりを友達とは呼びたくないが便宜上こう呼ぶ)を作ろうとする。
方や、ブログは匿名であり、読みたい人に読んでもらって、特に誰かと繋がろうとするものではない。いわば世間に記事を一方的に発信しているだけで友達を増やすなんて目的はまるでない。そこが大きく違うのだ。
生死には倫理がある。私は出会いにも倫理があると思う。自分はここにいるよ、と誰でも彼でもに発信して誰かと繋がろうなんてのは、出会いの倫理を逸脱していると思うのだ。
会社で出会う。店で出会う。同窓会で出会う。町内会で出会う。音楽で出会う。出会いは動いている人と人が会ってこそ出会いというのではないか。労力を惜しまずにたまたま「繋がった」だけで、友達が増えた、なんていう人がたくさんいる。私はそんなふうにはなりたくないしなれない。
この記事を読んだ人が、「そうそうそうだよねー」とか「そうとは思わないよー」と勝手に思っていただく。繋がりなんて求めていない。それがブログである。