事故は自己から 2012-02-29 | Weblog 自動車の衝突回避システムが実用化されてきた。 センサー類が危険を察知し、ブレーキをかけたりハンドルをきったりして、未然に事故を防いでくれるらしい。 機械に頼りすぎて危険を察知できない“自己の事故”を防ぐのが先だと思うけどね。
好き嫌い 2012-02-27 | Weblog 東京マラソンで、“市民ランナーの星”こと川内選手が惨敗した。 今回出場せず、以前の記録を選考の対象にしてもらったらロンドン五輪も有力だったようだが、彼は、それよりも敢えて自分の信念を貫くことに重きを置いて出場する、と言っていたので、厳しくなった選考に後悔はしていないだろうが、悔しかったに違いない。 方や、猫ひろし氏。日本ではとても選考基準にも満たない実力なので、カンボジア国籍を取得してまでオリンピック代表になろうとしている。 人に優越はつけられないが、好き嫌いは言っていいだろう。 私はオリンピックで頑張る(代表になれたら)猫氏より、日々さまざまな葛藤と戦いながら、仕事とマラソンに頑張る川内氏のほうが100倍好きである。
生涯最高の授業 2012-02-24 | Weblog 尊敬する上司は、決して私を褒めなかった。 教えて欲しいと言っても、いつも「勝手に覚えろ」だった。 でも、私のミスの責任はどんな時も全て被っていてくれていた。 亡くなる2日前にお見舞いに行った時、“いつもすまん”と言われた。 最初の弱音で最後の言葉だった。 ひとことでその人の全てが蘇る。 ぶれない生き様に勝る授業はない。
ドラえもんに報告 2012-02-23 | Weblog 3人の孫と一匹の犬に囲まれている。 4歳と3歳になる男の子2人と、一番下はまだ3ヶ月の女の子。犬を含め、皆全てのしぐさが愛おしく、いてくれるだけで家族が繋がり、温かくなる。 光市母子殺害事件で被告に死刑判決が下された。 人は誰も過ちを犯してしまうものだ。人には、それが許されなければならない時もあるから、裁判制度があって、刑が決定される。これらを人権というのだろう。 ただそれは「人として認められる場合の権利」である。 被害者の本村さんも、私と同じような気持ちでわが子や家族を見ていたはずだ。 その幸せをわけのわからない理由で奪われた本村さんの心中たるや、想像することすら許されないほどの苦痛であっただろう。 罰は傷を受けた人の心情が最優先されるべきで、加害者の生まれ育った環境など、二の次三の次である。 被告の行動は、鬼畜であり非道であるとしかいいようがない。人の道に非いものは、すなわち人ではないということ。死刑というあまりに当然の結果に、安堵とも怒りともつかない感情が込み上げてくるのは、私だけだろうか。 今は死刑が極刑なだけ。もっと重い罪があるなら、被告人にはそれを背負わせてもまだ足らない。 被告には、せめて死刑になる前、友達でいつも支えてくれたドラえもんにこう報告して欲しい。 「おかげで、死刑で勘弁してもらったよ」と。
エンダー 2012-02-15 | Weblog 「上手い」より「いい」の方が上なんです、僕にとっては。 これはB’Sのギタリスト松本さんがおっしゃっていた言葉で、僭越ながら私もまったく同感である。 「上手い」はもちろんそれで素晴らしいのだが、「その型通り、寸分の狂いなく」ということなんだろう。理解するにはそれなりの時間を要することが多い。それに対して「いい」は、「型からはみ出た、もしくは型など感じさせない裏切り感」とでも言おうか。理性を通り越し、感情に直接入ってくるので、長さを感じさせない。 「いい」の代表的な歌手で、私も大好きだった、ホイットニー・ヒューストンさんが死去された。数々の栄光に彩られた人生の最後は悲惨だったようだが、それも彼女の「いい」ところだろう。 ホイットニーと言えばこの曲、「ALWAYS LOVE YOU」のサビの始まりを私たちはこう歌う。 “エンダー” これだけで、映画のシーンが、彼女の歌声が、全てが蘇ってくる。 いいものはやはり短くまとまる。悲しいかな、寿命もまたしかり。
はっきりとあいまいに 2012-02-09 | Weblog はっきりとものをいうことは、日本人にはあまり好まれない。 推して知るべし、が、日本人の繊細な感覚を育んできたことは間違いないし、深く美しい表現はそこに依るところが大きいだろうから、それは仕方ないことかも知れないけれど。 作曲家の武満徹さんは『武満徹 エッセイ選』の中で、流行歌についてこんなことを書かれている。 「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき」 この歌には時代の空気が敏感に反映されていながらも、それに対しての積極的な働きかけというものは見当たらない。あくまでも現状肯定的であり、あきらめの気分に支配されている。 「君も君も人の子ならば、あの子の命かえしておくれ」(吉展くん誘拐事件という事件を扱ったものらしい。) こんないい気な歌で、作詞、作曲者、歌手たちは犯人が自首するとでも思っていただろうか。自分たちのうたう行いに確信がないから、このようなきわものじみたもので自分たちの無能を隠そうとする。そして、そこに社会的大義名分をふりかざすことは許されない。 「しあわせなら手を叩こう」という歌もまた、けしからぬ。幸福であって手を叩くしかないとは、想像力の貧困も甚だしいいが、これは現状に満足であれば手を叩けとでもいう意味であろうか 「夜明けのうた」はさらに低俗である。 ―若い希望をみたしておくれ― とは、なんと消極的な姿勢であろうか。歌ならば、この夜が永くつづいてくれとでもうたうべきだろう。健康そうにみえながら、この歌は生活と何の関わりも持っていない。 時代が古いので、題材の理解には少し困るが、ご意見には全く共感である。 低俗なものは低俗だという以外に言いようなどないし、低俗を見極める目を持つ人が、世の中に向かってそれを発信してくださることの大切さを、改めて思う。私が石原慎太郎さんや橋下徹市長を尊敬するのは、これができるからだ。 54歳にして新入社員。社に求められているリーダーとしての立場と、新人としての謙虚さを両立するには、間違っているものは間違っていると言う確固たる意志と、四角い部屋を丸く掃く(精神)力の両方が必要になる。はっきりとあいまいに、というのか。 とにかく、自分自身が“低俗”にならないようにしなければ。
おおっ! 2012-02-07 | Weblog ローザンヌバレーコンクールで、日本の高校2年生、菅井円加(すがいまどか)さんが、優勝した。 私はバレーの「バの字」も知らないが、何度か知り合いの子供さんバレー教室の発表会やテレビでのバレーを見ていて、その美しさには興味があり、ローザンヌが国際的なコンクールであることぐらいは知っていた。そこで、日本人が最優秀に輝くのはあの熊川哲也さん以来2人目だというのだから、そのすごさが分かろうというものだ。 選考に当たっていた吉田都さんの言葉が菅井さんの才能を物語る。 「特にコンテンポラリー(現代舞踊)では音楽をうまく使い、体のコントロールもダイナミックで、審査員の誰もが『おおっ』とうなりました」 『おおっ』には言葉の壁もなにもない。地球上の全人類誰もが皆、予測を超えた感動を覚えた時にはこのひとことで、十分他人に伝えられるし、また、それ以外の言葉も出てこない。 彼女の1位は、満場一致だったらしいが、世界の名だたる審査員たちが、思わず『おおっ』と唸った瞬間にそれは決まっていたのだろう。 昨日テレビで、ローザンヌ優勝の先人である熊川哲也さんが菅井さんに以下のメッセージを贈っていた。 「ローザンヌは、世界を目指す若きダンサーたちが夢から覚め現実を直視する初めての試練の場だ。アーティストとして通過点であることを心に留め、真にプロフェッショナルなダンサーとして世界に羽ばたくことを願っている」 名だたる世界的コンクールであるローザンヌ優勝を、「夢から目覚め現実を直視する場」とは、私のようなお調子者には予想もできない言葉であった。 バレリーナとしての彼女はようやく孵化した蝶にすぎないのだろう。“たかが”ローザンヌ優勝くらいで浮かれるな、という熊川氏の言葉に、思わず『おおっ』と唸ってしまったのは、私だけだろうか。
もっくんとたっくん 2012-02-02 | Weblog 小さな子供たちの行動は全てが一生懸命で、私たちを必ず笑顔にしてくれる。 昨日、娘に聞いた話では、一番上の孫のもっくん(幼稚園)が、友達のたっくんと大喧嘩をしたとのこと。それはもう、激しい取っ組み合いで、倒れながら上になり下になりお互いパンチを繰り出すというまるで格闘技のような状況だったらしい。 もちろん、子供のけんかの勝敗なんてどうでもいいのだが、結果はほぼ引き分けらしく、幼稚園一の泣き虫で、殴られても何もできなかったもっくんが、いつの間にかとてもたくましくなっていたことに驚き、また嬉しくもあった。 加えて嬉しかったことは、娘のひとこと。 「あんなにひ弱だったもっくんがこんなふうに成長したのはたっくんのおかげやなぁ。たっくんがおらんかったらもっくんあかんたれのままやで。」 子供は自己主張をぶつけ合い、その中で様々なルールを学ぶ。それは今の若者に一番欠けている「身体性」そのものである。「けんか相手」は子供にとって最高の友達であり、全うな人格形成を助けてくれる存在なのだ。 これからは英語が大切だからと既に園児を英語塾に通わせている親も多いと聞く。 「サンキュー、ユーアーウエルカム」なんて言葉を覚えさせるより、「公園で友達と遊んどいで」と送り出す親のほうが、どれほど子供の将来を思いやっていることか。 「エクスキューズミー」でことが済むならだれも苦労なんかしませんぞい。