僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

物と生物

2014-08-29 | Weblog
盲導犬が刺されるという事件が起こった。
その犬は、鳴かないように訓練されていたたため、たぶん刺された痛みに耐えて、鳴き声も上げなかったらしい。
生き物に対する冒涜、犬の健気さを思うと、ただでさえ怒りに震えるような事件だが、全盲のおばあちゃんがいて(もう亡くなったが)、犬を飼っている私としては、もうこれは筆舌に尽くし難い事件である。

飼い主の方は、犬は自分の分身であるとおっしゃっていた。
でも、もし犯人が捕まっても彼は「器物破損」罪で裁かれることになるようだ。これは明らかな故意だから保険は出ないが、保険の担保項目も「対物」になる。

人間以外は「物」。ルールとはどこかで線引きをすることだから、これは仕方がないのかも知れない。
ただ、これではあまりに味気ないし情けない。

「物」と「生物」との線引きを進めていけば、少しでも救われる事件もあるのではあるまいか。

弔い

2014-08-18 | Weblog
去る8月13日、友達の奥さんが亡くなられた。白血病だった。
30年前にも同じ病を患い、その時は奇跡的に回復を遂げた彼女だったが、
今回は病気に勝てなかった。
辛い辛い治療を続けてきて、この結果にはただただ、気の毒で残念でならない。

健気に奥さんだけを愛し続け、奥さんだけが生きがいだった私の友人は、
亡くなったあとの雑務の多さにある意味助けられて、ここ数日かろうじて平静を保ってはいるが、
この先はどうなるか分からない。
奥さんの生きがいだった孫の世話をすることが残された自分の努めとは言っていたので、
しばらくはそれに一生懸命になってくれることがとりあえずの逃げ場だろうか。

人生には限りがあり、終わりがいつくるか分からない。
後悔のないように生きるべきとは思うが、それが叶う人などきっといないだろう。
彼女にも悔いはいっぱいあったはずだ。
ただ、彼女の最後の瞬間には、彼女を愛し、彼女が愛した人たちがたくさんいた。
彼女は一人じゃなかった。看取った人たちも一人じゃなかった。

だから、私はせめてこの瞬間だけでも、世界中の人を愛していたい。
最後の瞬間にも誰かを愛していたい。
こんなことで彼女の弔いになるのか分からないが、自分のこれからの生き方を必死に考える
以外に道はない。

ただひたすら、ご冥福と残された家族の幸せを祈るのみである。