僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

やめなさい!

2013-03-27 | Weblog
とある飲食店での話。
春休みで小さい子供さんを連れたお母さんグループが食事をしていた。
「やめなさい!」やっぱりいたずら盛りの子供たちが多いせいか、お母さんが発する言葉はこれが圧倒的に多い。

子供は好奇心の塊だ。何にでも興味はあるし、何でもしたいと思う。そしてそれができることが何よりも幸せなことだし、それが当然で、子供のアイデンティティーでもある。でも、してはいけないことがあるし、怪我に繋がるようなこともあるだろうから、親としてはなんでもかんでもさせる訳にはいかないのも、また当然である。

色々なことができる年齢なのに、病気でそれができない子供たちや親御さんは自分の子供に「やめなさい」という言葉をかけることすらできない。ようするに、「やめなさい!」が聞こえてくる環境というのは理想的なのだと思う。

「もう!やめなさい!」言葉は同じでも、嫁に言われるのとはずいぶん違うねぇ。

愚か者の自信

2013-03-08 | Weblog
「正しさではなく愚かしさで愛されるひとであってほしいし、強さではなく熱さで我が子を愛し抜くひとであってほしい」

これは重松清さんの小説「とんび」のあとがきに書かれた、主人公に持たせたかったキャラクターについてのご本人の言葉である。

行きつけの音楽バーを出入り禁止になり、行く先々の店全てでまた出入り禁止になっているらしい、昔一世を風靡したミュージシャンがいる。彼は確かに、「常識はない、人の嫌がることを平気で言う、昔俺はすごかったし今もすごいんだと言わんばかりの態度を取る、酒ぐせが悪い…」等、正しくないことオンパレードの人である。だから進んでお付き合いをしたいとか、一緒に音楽をしたい、などという気には全くなれないのだが、ただ、不思議と「また会ってみたい」と思ってしまう何かがあると感じてはいた。

重松さんの言葉を借りると、それはまさしく「愚かさ」が生み出す人間の悲哀であるとか、人間らしさ、というものなのだろう。
彼が一世を風靡したのはその愚かさのおかげ。でも、今どこにも受け入れられず放浪を続けているのはその愚かさのせい。しかし、その現実が彼をまた愚かにし、その愚かさがまた一世を風靡するアイデアを生み出すかも知れないし、アイデアなんてなくても、彼はその愚かさゆえに記憶に残る人として生き続けることができるだろう。

皆表裏一体で生きている。皆正しいし皆愚かである。
「愚かさも正しい」それが理解できるようになったのは、ほんのつい最近のこと。
でも、なんかそれが分かったとたん、また愚かになってしまった気がする。
うーん、こういう場合は、愚か者として自信を持っていいのでしょうか。