僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

見てるだけ~なワケない

2010-08-25 | Weblog
毎週末にいくライブバーの話。
俺たちは主に自分でギターを弾き・唄い、そして他の人の歌“も”聞くのが楽しみで行ってるわけやけど、ものすごく少数ながら、ただただお酒を飲みながら人の演奏を聞いている“だけ”の人もいる。
聞くということでは、オーディオなんかはそうで、音楽の楽しみ方のひとつやけど、それは大好きなプロの磨きぬかれた音楽を聴くのが主な目的であって、基本的に酔っ払って、楽しくはあるけどグダグダな音楽をただ聞くのは、普通に考えると大して価値がないように思うよね。
とはいえ、人の音楽の楽しみ方は全くもって自由なので、そら好きにしてもらったらいいんやけど、俺には全く想像ができないこのスタイルでの楽しみ方の理由が何なのかえらく気になってしまうわけで。で、例によって勝手に理由を想像してみようと思う。
まず決まりきっているのは、「酒が好き」で「音楽が好き」だということ。
これなしで来てる人がいたら、それはそれは珍しい人。是非お話を伺ってみたい。きっと一度だけになるやろけど。

とすると、当たり前のこの二つの理由の中で、酒はきっと飲みたいものを飲んでるんやからいいとして、音楽については、「どういう音楽が好きなのか」ということがポイントになってくる。現状で考えると、
「酔っ払いが楽しそうに好き勝手に演奏していて、リクエストにも応えてくれなければ、黙って飲んでいたいのに、たまにはステージ側の演奏してるほうから話しかけれらたりして、時には一人の弾き語りに6人も7人も勝手に参加してくる音楽」が好きやとしか考えられない。これはまぁなんと変わった(とても素敵とも言える)人がおられるもんやなぁ、と思っていたら…この間その答えが分かったのであーる。

どうもその人は、この店の常連カップルの女性の方が好きでその人を目当てに来てるということらしいのだ。しかもそのカップルとこの人がガッチンコするとよく揉め事が起こり、時には結構エスカレートするらしい。
なーるほど、これで何故いつも店の片隅で面白くなさそうにただただ飲んでいるのかの理由は分かった。やはり酒も音楽もなくただの珍しい人だったのだ。しかし、俺をこれほど悩ませた罪は重く、是非にも償ってもらわなければいけない。

じゃあ俺はどうして欲しいか。
とことん徹底的にどうでもいい話ほど遊べるものはない。
これほどまったくどうでもよくて、イヒヒヒゲヘヘヘクックククと笑える話を持ってるのなら、次に店に行った時には是非とも「修羅場」というヤツを見せて欲しいのだ!!
なんとささやかな願いではないか。

イヒヒヒ、店にいく楽しみがまた増えた。

人間を休む間はない

2010-08-24 | Weblog
先日(8/22(日))ライブが無事終わった。
今回はフォーク・ポップス、ロック、ボサノバ、カントリーと違ったジャンルの4バンドによる合同ライブだったが、演奏はもちろん、その後の打ち上げで、ジャンルは関係なく音楽好き同士の交流を深めたい、という思いが叶い、これ以上ない結果になった。
初めて出会って早速連絡先を交換する人、バンドメンバーの友達というだけで2次会についてくる人もいたし、各バンドのライブ情報やメンバーの生い立ち等にも話の花が咲き、また世界が広がったような気がする。

ただ、ここまではごく普通で、単に打ち上げで知り合いになったというだけのこと。世界を広げるというのは、ここで得たことを自分にどう生かすかである。
単にここで知り合いになったこの人たちとの縁が切れても、「実際に何かを生かした」という経験が残ればそれはそれでよいと思うが、やはりせっかく知り合いになった素晴らしい方々との付き合いはもっと広げたいし続けていきたいと思うのが普通なわけで。
でも、これはそう思うほど簡単なことではない。
新しい人たちと付き合いを始めるというのはそれなりに気を遣うことでもあり、エネルギーを必要とするからだ。知り合った後どう広げるか。荒っぽい広げ方では、かえって逆効果になるし、気を遣い過ぎても打ち解けられない。

音楽は素晴らしい。そこに音楽があればタブーはほぼなく、皆笑顔で話しコミュニケーションを深めることができる。だがその後は「音楽が大好きな“人間”」としてのコミュニケーション能力が必要になり、音楽だけではコミュニケーションを深めることができない。「人間として付き合いを続けていい人であるか」を問われることになる。

学校には長い夏休みがある。仕事にも短いながらも夏休みはあり、週末の休みもある。
でも、人間を休んでいるヒマなどないのだ。

体験入学

2010-08-20 | Weblog
ジャズギターを習おうと思い、先日ギター教室の体験に行ってきた。
体験といっても人がレッスンしているのを横から見るだけなので、「ふーん」程度のことしか感じようがないのだが、その中で感じたのは先生の技量のものすごさ。
受講していたのは高校生で、ロック少年らしいのだが、その時は、長くテンポも速く、フレーズもそこそこ難しいそうな曲を練習していた。でも先生はひたすらその生徒の手元を見ながら、自分の手元は一切見ることなく、いとも簡単にその曲を弾きこなし、たまに生徒が間違えると、一旦止めて、「ここはそうじゃない」みたいなアドバイスをしていた。
さすがプロは違うなぁ、と感心しながら練習後に少し話をさせてもらったが、ギター教師はあくまでもアルバイトで生計は別の仕事で立てているとのこと。「これで食べていきたかったけど、そんな甘い世界やないですわ」と言うたはった。
それを聞いて、ホンマに超一流のプロっていうのはどんなにすごい演奏をするのか目の前でそれを見てみたいという気持ちがますます強くなったね。

ま、それはそれとして、この先生についてギターを習うかどうかを検討中。
雰囲気のいい先生だし、技量も確かそう。「あ、ピック持ってくるの忘れた」てなことを言うのんびりさ、「何をやらないといけないと言う事はないし、何からやらないといけないということもない。難しいそうやと思ったら他の楽しいことをすればいいんです」といういいかげんさも好みである。場所は自宅から5分の距離だし、時間はPM9:00から、月2回のレッスンということで、会社が忙しくても、なんとかそれくらいならやりくりできそうだ。

ほな何が引っかかってるの?ということやけど、ようするに自分がどこまで練習できるか、ということだ。
練習時間はわずか45分。その間には音楽理論の話と実技の両方が含まれる。だから、次には理論を理解し課題曲を練習していかなかればその45分は何の意味ももたないということになる。
ギターは3度の飯より好きである。だから、大好きである以上できると思う。だが、ジャズはどうかと言われると何とも言えないというのが正直なところにある。ようするにジャズを勉強して演奏の幅を広げたいというのが目的だからだ。

とはいうものの、ようするにギターを弾くのでである。弾いて弾いて弾きまくるのである。きっとやめろといわれても弾きまくるのだ。
ということで、99%この先生に習うことになると思うのだが、ギターといえどちーとは悩むことがあってもよいではないかいさ。

楽しいとは何なのか

2010-08-18 | Weblog
8月22日のライブが近づいてきた。
ほとんど知ってる人たちばかりの4バンドが集まるので、ホームティーみたいなものだが、お客さんは入場料を払って来て下さるのでそれなりの演奏をしないと申し訳ない。
ということで、そこそこの練習をしてはきたが、やはり一番考えなくてはいけないのはお客さんに「いかに楽しんでもらうか」だ。

ほぼ毎週末行っているライブバーには、人を楽しませるのがとても上手い人がいる。その人はいつも長渕剛を歌い、必ず「高槻最高だぜ!高槻にきて良かったぜ!」のワンパターンを絶叫するのだが、何度も繰り返されても笑ってしまう吉本のギャグのように、店にいる人は皆、必ずそのフォーマンスに惹き込まれてしまう。
同じようなパフォーマンスをする人を違うライブバーで見たことがあるが、この人の場合はなんか背中が寒くなるようなしらじらしさが漂ってきて、もうその場から去りたくなってしまうほどだった。他のお客さんも同じみたいで皆しらけた顔をして楽しいなんて雰囲気は全くなかったから、前者と比べると天と地の差である。

この違いは一体何なんだろう?
人を楽しませるためには自分が楽しまなければいけない。これは間違いないが、その理屈だけだと後者も楽しくなければおかしい。
ということは、結局のところ、楽しませる側からすると、「人の心をほぐせる楽しみ方ができるかどうか」に尽きるんだろう。
人をとことん楽しませてくれる前者は、実に気持ちのいい人だ。いつも酔ってはいるが、歌い終わるとバックで演奏していた人ひとりひとりと握手し(これもパフォーマンスに含まれてるんやろうけど)、なんともご機嫌な顔で席へと戻り、また静かに酒を飲んでいる。その様子からは素直さと、実直さがあふれていて、人柄のよさが伝わってくる。

心をほぐすといえば笑いが思い浮かぶが、それはガハハハ的な笑いでなくてもいいし、口元がふと緩むような柔らかい笑いでもいい。もっと言えば笑いが楽しみの全てでもなく、きっと辛い話をしてても人を感動させることができればそれは楽しみを与えたことになるだろうし、泣かせても同じことだ。
そういう意味でこの人の場合は、酒の力を借りながらもさらけ出す自分の全てが他人の心をとことんほぐす、ということになるんだろう。

次のライブで俺達はこのような何らかの方法で人を楽しませることができるんだろうか?
今更人柄はどうにもならないので、詰めの練習は、ギターよりもネタの仕込みに時間を使ったほうが良さそうである。

機械までおせっかい

2010-08-10 | Weblog
なんや今日のネットニュースを見ると、日本車の機能の切り札として「自動衝突回避システム」なるものがもてはやされているらしい。
でもどうなんやろね、俺のような“おせっかい大キライ派”からすると、もうええかげんにせえよ、というシステムのような気がするけどね。
とにかく最近は、何でも機械がサポートしてくれる。「人の能力を伸ばす」「失った機能を補填する」のようなサポートは確かに科学の進歩の有意義な部分かも知れないけど、今回のように「本来人が注意すべきことを肩代わりする」なんて機能は、ますます運転者のレベルを落とすだけで、よけいなお世話でしょ?下手したらこれで飲酒運転しても大丈夫や、なんてバカが現れたってなんの不思議もないし。

事故は車同士がぶつかることだけを言うんじゃない。
人が谷底に落ちていくという、人類の存亡に関わる事故を防がなくてどうするのよ?
「おせっかいして儲ける」なんてふざけた考えを持った時点で谷底に落ちてる人がそれに気がついてないのが何よりも問題。
『オマエはもう死んでいる』ときちんと教えてあげるシステムを作るほうがよっぽど国益になると思うけどいかがなもんざんしょ?

天は円を授けたもう

2010-08-09 | Weblog
天は人の上に人を作らず、人の下に…とは、人間には身分や階級などなく公平なものだ、という意味だと理解してきた。もちろん、それは間違ってはいないだろうが、最近、これを大切な人や物の捉え方として、他の意味でも考えてみるようになった。

例えば、ギターを弾くことは自分の趣味の中では最も大切なことだ。でも、ギターを弾くために、ツールとしては指を大切にしなければいけないし、ハートとしては常々音楽はもちろん、様々な刺激を受けていなければいけない。となると、ツールやハートをきちんとケアできる精神状態や経済状態を保つことを大切にしなければいけない。とすると仕事を大切にしなければいけない、自分を支えてくれる家族や友達を大切にしなければいけない…となる。

そうすると、これは円である。
つまりこの流れのどの位置のことも全て一番大切なものになり得るのだ。一番大切な人も、一番大切なことも、“その直下にある、それを大切にするために大切なこと”を怠っては成り立たないはずやから。だから俺は、天は…をこう考える。

『一番大切なものをきちんと守っている人は、何かひとつを守っているように見えない。天は、上・下ではなく、全てを円として授けてくれているのだから。』

福沢諭吉さんに、このような捉え方は間違っていますか?と問いかけてみたい。
黙って1万円札を出してくれたら正解ということでどないやろね。

自然と天然

2010-08-05 | Weblog
ここ数年の夏の暑さはものすごく、生態系にも様々な変化(あえて異常とは言うまい)が起きている。
このことでは様々な意見がある。中でも「これは“本来の”自然の姿ではない」という話は良く聞くが、俺にはその“本来の”自然との比較、という考え方が良く分からない。

例えば、昔の夏はもっと涼しく、夕涼みもできた。夏の始めからクマゼミが鳴くようなことはなかったし、子供達は暗くなるまで外で元気に遊んでいた…。
でも、これは“本来の”自然ではなく“その時の”自然で、俺たちが若い頃はこうだった、と言ってるのと同じこと。
自然とはその時の“流れそのもの”であるはずだ。
氷河期だって、その時を知らない人から見れば異常な気象だったのだろうが、その時を生きた生物にとっては、それが最も自然であったはずだし、今生まれた子供達は夏の始めにクマゼミが鳴かなければ、最近は自然がおかしい、ということになるはずだから。

だから、今地球全体が異常気象だと言われるているが、別にそれはそれで当たり前のことである。つまり、俺たちが、海を埋め立て山を切り拓き文明の名の下に繰り返されてきた開発のしっぺ返しを受けてることはごく“自然”なことだ。

それに対して、自然を守ろう、昔を取り戻そうという行動をするのはそれはそれでいいと思う。ただ、その行動そのものも自然の一部だということを理解しておかないと、ただの“天然”になってしまうぞよ。

夏の草ぬき

2010-08-03 | Weblog
また、児童虐待で2人の幼い子供の命が奪われた。
色々嫌なニュースがあるが、やはり一番聞きたくないのはこういうニュースである。
それに加え、この事件での市の対応に苦情が殺到している、という記事を見て、俺はまたもうひとつ嫌になっている。
苦情の内容は、大阪市こども相談センター(児童相談所)に対して、「何でもっと踏み込めなかったのか」、という内容がほとんどらしいけど、これってどうなのよ?と思うよな。

夫婦喧嘩は犬も食わないという。なら、家族喧嘩(家族乖離や児童虐待も含め)だって同じことだろう。基本的にそんなとこへ立ち入ろうとするほうがおかしいんじゃないのか。
でも、子供に限っていえば、「子供は天からの授かりもので、人類皆が大切に守るべきもの。しかもその子達が命の危機にさられているのだから立ち入ってもいいんです!」なんて号令の元に立ち入ろうとするのなら、その号令をかけた人が子供達の面倒をみるべきや。

子供は、一人前に物事が判断できるようになるまでは「親の所有物」である。子供の人権なんてのはこの前提下の話であり、子育てに関しては全て親の責任なのだ。
だったら、なぜこんなにもおかしくなってしまう親が多いのか。それを考えて親を直していく、つまりそれは社会全体を、教育を直していく、ということが何よりも優先されるべきで、子供相談センターに使う税金があるなら、ひとりでもマシな教育者を増やすことに使うべきだと思う。

夏に雑草をいくら抜いてもきりがない。
今回のことで、苦言を呈しているひとは、夏場、こども相談センターに「何をしているんだ、もっと草を抜け」と言っているようなものだ。

そんなヒマがあったらせめていい除草剤でも調べて教えてあげなさい、ちゅうの。