僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

茶畑と田畑

2011-05-30 | Weblog
茶畑(ちゃばたけ)と田畑(たはた)という言葉。
同じ畑なのに、茶は濁って田は濁らないのは何故か、ということについて、故井上ひさしさんが著書の中で以下のように語っている。
茶畑の場合は「茶の畑」であって、畑が主、茶が副という主従関係が成り立ち、このような場合は濁る。
田畑は「田と畑」なので同等。主従関係が成り立たないのでこういう場合は濁らない。

なるほど、と納得したが、こと人名についてはこの理屈が成り立たない場合があることに気がついた。
たとえば、荒田(あらた)さん。これは荒れた田やから主従が成り立ち、濁るはずなのに濁らない。
また、木田(きだ)さん。これは「木と田」だから同等、だから濁らないはずなのに濁る。

この著書のタイトルは「日本語教室」。
教えるということは、疑問を抱かせるということだ。
氏は、教室という日本語の意味を教えるのに、わざとこのような疑問を残したのかも知れない。

ノーサイド

2011-05-26 | Weblog
『何をゴールに決めて何を犠牲にしたの 誰も知らず
歓声よりも長く 興奮よりも速く走ろうとしていたあなたを少しでも分かりたいから』

これは尊敬する松任谷由美さんが書いた「ノーサイド」という曲の歌詞の一部だ。
ラグビー好きということもあるが、私は特に2行目の、「長く・速く」の比較に「歓声・興奮」という行動・心情を充てた、彼女にしかない感性がたまらなく好きである。

松任谷さんは著書の中でこう言っている。
感性を磨くには、人が見逃すようなことも敏感にキャッチしなければならずそれはとても苦しいこと。だから私はよく「盗み聞き」をする。例えば電車での女子高生の会話に聞き耳を立てて。

最近、それを思い出して、私も電車の中で盗み聞きをしようと試みた。
聞こえてきたのは、携帯音楽プレーヤーから漏れる機械的な激しいリズムと、隣の車両まで聞こえそうな女子高校生が騒ぐ声。

彼らは、何をゴールに決めて何を犠牲にするつもりなのだろうか。
少しでも分かろうとする心に、自らノーサイドの笛を吹いてしまった。

ミッキー総理

2011-05-24 | Weblog
「A:聞いたような気がする」「B:言ったような気がする」
これは原発の海水注入停止に関する官僚のやり取り。
どちらも前言を訂正したものだが、お互いに責任逃れをしようとしていたのが明らかになった。

「C:薬事法で禁止されているから」「D:(地域)保険法で禁止されているから」
これも同じく官僚の発言。
福島にヨウ素を送ると言ってくれた国に対して、断りを入れた理由がC。
避難所ではお湯以外沸かしてはいけないと決まっていると通達し、避難者にカップラーメンしか食べられないようにした理由がD。こちらは一応どちらも自分の責任を果たそうとしていたようだが、結局A~Dの対応は全て、被災者の方々を困らせ信用を失墜させただけになった。

かたやディズニーランドでは、震災の当日、社員が個人の判断で「お客さまのためになること」は何でもし、さらに厚い信頼を獲得している。
総理大臣にしたい人NO.1にミッキーマウスの名が挙がる日がホントにくるかも知れない。

沖縄の方言

2011-05-20 | Weblog
沖縄(琉球)の方言の最大の特徴は、基本母音が「a」「i」「u」の3母音だということだ。
12世紀~15世紀にかけて「e」は「i」へ「o」は「u」へと変化したらしい。
例えば、【e⇒i】酒(sake)⇒saki、【o⇒u】夜(yoru)⇒yuruという具合に。

たまたまホームぺージでお茶の作法を見てたらこんな言葉があった。
結構なお手前でございます【kekkounaotemaedegozaimasu】

沖縄だと、
キックウナウチマイディグザイマシ【kikkuunautimaidiguzaimasi】
うーん、まるで分からん。

作法やから、方言ってないんやろうけど、もしホントにこうなるなら、沖縄でお茶習うのが沖縄の方言を覚える一番の近道かもね。

ものさし

2011-05-18 | Weblog
私から始まり、娘2人と孫が同じカトリック系の幼稚園(以下M園)に通っている。
私は自分教なので、特定の宗教を信仰しているわけではないけれど、娘をここに通わせたのは、家から直線で30メートル、小走りなら30秒で通えるというこれ以上ない通園条件とこれまでの信頼、という理由からで、娘が孫を通わせている理由もまた同じである。

ところで、このM園、カトリック系ということで、教育の中になにかと「神さま」が登場する。「そんなことしたら神さまに叱られますよ」とか「神さまはいつも見ていてくれるから」とか。
そんな環境下で育った園児たちがやがて卒園して小学校に入った時、彼らに最初の試練が訪れる。

当然だが、彼ら以外の子供たちはカトリック教育を受けていない。そのような集団の中で何か揉め事が起こる。
M園卒の彼らは皆にこう言う。
「そんなことしてたら神さまに叱られるよ!」
しかし、他園卒の生徒たち(主に男子)にこう言い返される。
「あぁん?神さま?誰やねんそれ?!おんねやったらすぐ連れてこんかい!アホボケカス!」
ほとんどのM園卒園児たちは、アホ・ボケ・カスの3連打にバース・掛布・岡田の3連続HRなみの衝撃を受けるも、その意味さえ理解できず、自分が否定されていることも分からず、ボーゼン自失状態になるらしいが、やがてこれが大阪の子供たちの人間関係だと知り、神さまはいないのだ※と知り、少しずつ自分に目覚め成長していくことになる。
まさしく「洗礼」を受けるわけなのだが、これが卒園してからというのもまた趣のあるところで。

と、ここまでは笑い話だが、私はこれに「ものさし」を持つことの大切さ・素晴らしさを感じた。
「神さまがいる」というものさしを持って小学校という社会に出たら、「神さまなんていない」というものさしを持ってる子供達がいた。もちろんどっちが正しいなんてことはないのだが、自分のものさしを持っているからこそ、そのギャップを知ることができる。
親の教育もしかり。親からもらったものさしと自分のものさしにギャップがあるから、苦しみもすれば反発することも覚えていく。

ようするに、ギャップは「伸び代」なのだ。
聞き分けのいい子供を見ると何とも言えない気持ち悪さを感じるのは、本来子供が絶対に持っているはずのこの伸び代を感じられないからなんだろう。

人に迷惑をかけたり命を粗末したりすること以外、何が正しい間違っているなんてない。
子供に対して、「こんな考え方があるのですよ。私たちはそれを信じているからあなたたちに伝えているのです」というスタンスでしっかりとその考え方がものさしとして身につくまで教育し、そのあとのギャップをどう捉えるかは本人たちに任せる。
この緩やかさがとても大切なのであって、ゆとり教育とはまさしくこのようなことを言うのではなかろうか。

ちなみに私は、「髪はいない」というものさしでギャップを知ったが、まったくゆとりを感じられないのは何故なんでしょうか。

※信じている方の心持ちを否定するものではありません。私も神頼みをしますし。

ハロゲンかハゲロンか

2011-05-18 | Weblog
ハゲているが、かろうじて生き残った強く愛おしい髪を大切に伸ばし後ろで束ねている人がいる。
私はこれを、ハゲ+ロン毛でハゲロンと名づけている。ただのハゲはまぶしいのでハロゲン(ライト)と呼ばれるが。
このハゲロン、ミュージシャンや芸術家に多く、とてもかっこいいので、実は私も10年ちょっと前、密かにハロゲンからハゲロンへイメチェンを試みた過去があったことを誰も知らない。当然だけど。

で、試みた、ということは、その時はハゲロン完成形には至らなかったということであり、それには涙なくして語れない理由があるのだ、という話である。その内容、教えて欲しくもないだろうが教えて差し上げよう。いや教えさせてください。

それはつまり「途中」の問題なのである。ようするに、ハゲロンに至るまでにはたぶん1年くらい髪を伸ばし続ける必要がある。でもその間、中途半端に伸びた髪は、「横だけが長く、頭頂部にはないので、まるで崩れかけたピラミッドみたいでとてもみすぼらしいから」なのですよ、ああ、ツタンカーメン。
そして、特にサラリーマンにハゲロンがほとんどいないのは、この途中のみすぼらしさが大きな理由のひとつだと考えられる。
会社で、この先にはハゲロンという芸術が待っているのです、私はとてもかっこよく生まれ変わるのです、反対したらツタンカーメンに呪われても知りませんよ、と言っても、当然皆、みっともないとしか思ってくれないわけなので。

でも、一度だけでいい、ハゲロンにもなってみたい。手間ヒマかからず、シャンプー・散髪代はいらず、おまけに笑いまでとれるハロゲンには大満足しているけれど、ハゲロンにならずしてハロゲンにハゲロンは語れないし。なんのこっちゃ。

ということで私は、定年後、ハゲロンを目指します。
たぶんその頃には横の毛すら伸びなくなって、やはりハロゲンと呼ばれているだろうけど。

期待に応えられるのはいつの日か

2011-05-13 | Weblog
去る5月4日、高槻ジャズストリートで初めて演奏させてもらった。
もっともウチのバンドはパンフレットの演奏ジャンルで、JAZZではなく「ETC・・・」に分類されている、特に何かの演奏ジャンルに該当するというバンドではないので、純粋にジャズを楽しみに見にきてくださった方々にはちょい期待外れだったとは思うけれど。

ただその分、できる限り、見に来ていただいた方に楽しんでもらえるよう、特に終盤には皆がよく知ってるアップテンポの曲を用意して、最後はノリノリで終われるようにと考えていた。

で、一度でもライブを見に行った方ならお分かりだと思うが、多くの演奏者は、お客さんのノリを誘うために、頭の上で大きく手拍子を打ってお客さんにも手拍子を求めるということをよくやる。私も例にもれず、最後にノリノリでそれをし始めた瞬間のことだ。
勢いよく振った手が上にあった照明器具にバシッと当たり、照明が消えてしまった。
結果、大きく揺れる照明器具を止めるのに手拍子を打つのをやめざるを得ず、失笑を買うはめになるわ、演奏中に、この照明高いんとちゃうかなぁ、みたいな心配はせなあかんようにはなるわ、ノリを誘うどころの話ではなくなってしまったのである。

当日はその後にも演奏者が控えていたし、スタッフの方々もバタバタされていたので、翌日、そのお店に菓子折りをもって謝りにいったら、幸いなことに電球が緩んでいただけだったとのことだったので、大事にはならなかったが、今さらながらにノリだすと見境がなくなるという、自分の注意力のなさと進歩のなさにあきれてしまう。

6月19日(日)、またその店でライブをさせていただく。
次は同じ過ちを繰り返さないぞ、と心に誓った瞬間、今度は椅子に座って演奏することに気がついた。
まったく、お客さんの期待は裏切るくせに、このまぬけさだけは期待もしないのに自分を裏切らない。
果たしてそんな私にお客さんの期待を裏切らない日がやってくるのか、照明より気持ちが切れないか不安なのであります。

優しさ

2011-05-13 | Weblog
さりげなく、気づかれないように。
「優しさ」はこういう形でもらいたいし渡したいというのが私の理想である。

先日、わが社のI氏と取引先へ出かけた時のこと。彼とはよく一緒に出かけるが、私も彼も歩くのが好きなので、特別急ぎでもなく、歩いても交通機関を使ってもそう時間の変わらない所へのルートには徒歩を組み込むことが多い。
でもその日は、初めて彼が「車を用意したので車で行きましょう」と言ったので、私は、めずらしいな、と思うと同時に、ひょっとして・・・?という思いを抱いた。それは、私がギックリ腰になってしまい、朝から腰が痛い、ということを言っていたので、彼はそれを知っていてわざわざ車を用意してくれたのではないか、ということだ。

そのまま問いかけるのは間違っているとちょい照れくさいので、「今日はめずらしく車やけどこの後どっか行くの?」と聞いたら、やはりI氏、「いや、朝から腰が痛いと言ったはったので・・・」という。しかも、私が聞かなければ、車を用意した理由を説明する気もなかったらしい。これを聞いて、恥ずかしながら私は車の中でうれし泣きをしてしまった。

優しさには、冷徹な形も温かい形もあるけど、「信頼」を最も強く引き寄せてくれるのはやはり、さりげない形だと思う。

ということで、私もI氏にさりげない優しさをお返ししたいと思っているが、早速、明らかに彼にその前兆と気づかれるブログを書いてるわけで、しょせん私には「去り毛ない」てな自虐ギャグで、ほんの少し笑ってもらうことくらいしかお返しできないんでしょうね。

サプライズ

2011-05-02 | Weblog
先日、後輩夫婦の結婚25周年(銀婚式)を、娘の友達も含めた仲間たちでお祝いした。
方法は、最近に多い、いわゆる「サプライズ」というヤツで、何も知らされていなかった本人達はとても喜んでくれ、結果は良かったのだが、実は私、自分で企画しておきながら、このサプライズというのがあまり好きではない。

つまり、「驚かす」ということは、笑わせる泣かせると共に、心を動かす大切な要素だけど、「“知らなかった”から驚いた」という部分は、あまりに短絡的で、これでは驚きが武器化していると思うからだ。

だから、本当は、二人に面と向かってきちんと、「おめでとう」と言うだけにしたかった。二人からは「ありがとう」だけでよかった。その凝縮された気持ちには、サプライズなんかはるか遠く及ばないと信じているから。

なのに、悩んだにせよ、流行の無難な方法を選ぶなんて、私も年をとったのかな?
まぁ、人のことより“自分の変化”というサプライズのほうがよっぽどいいな、とは思うけれど。