僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

飽きるからこそ

2020-08-26 | Weblog
オーディオマニアの先輩がいる。そのマニア度は半端ではなく有名オーディオ雑誌の特集ページに掲載されるほどだ。
何度がご自宅に寄せていただいてその自慢のオーディオの音を聴かせていただいたことがあるのだが、最初に聴かせてもらったジャズボーカルでは、「そこに歌手がいる」と思うほどリアルで濡れた音で、度肝を抜かれた。
当然オーディオルームがあり、そこにほぼ手作りのスピーカーやアンプ類がセットされ、座る位置も決まっている。低音と高音では人の耳に届く速さが違うため、低音と高音で別々のアンプとスピーカーがあり、低音が高音よりわずかに早く発音するようにしてある。低音側のスピーカーは自転車の車輪ほどあり、高音側のスピーカーは鼻息がかかっても破れてしまうほどのデリケートな素材で作ってある。
これほど凝って作り出した音はもちろん私の中では別世界の素晴らしさであり、こんな音を毎日聴けたらそれは幸せだろうな、と思って先輩にそう言ったら、「この音は3日したら飽きるからまた手を加える」なんて想像もしない言葉が返ってきた。
とにかくその時どんなに素晴らしい音だと思っても3日もすれば飽きてしまうのがオーディオの難しさでもあり魅力でもあるらしい。
でもこの話を聞いて思った。実は私たち人間も数日前の自分に飽きているんじゃないか、と。
毎日同じ音を出してる自分って考えたらつまらない。飽きるからこそ前へ行けるんやね。

勇気

2020-08-24 | Weblog
デッドボールを食らう(野球:バッター)
打球が当たる(野球:ピッチャー)
タックルで怪我をする(ラグビー)

これは野球やラグビーの一場面だ。これらのスポーツでは死ぬかも知れないという恐怖に打ち勝てないと一流選手になれない。私は少しラグビー経験があるが、一度左の鎖骨を骨折してからというもの、その後は怖くて左肩でタックル出来なくなった。当然、その後ラグビーも辞めた。私のような臆病者は論外であるが、この恐怖心に打ち勝つということは並大抵ではない。

野球では、あの長嶋茂雄はデッドボールを食らったら次の打席で当てられるものならもう一回当ててこいと思ったという。
最近頭に打球が当たった田中将大はこれくらいでラッキーだったと言っている。
ラグビーでは、選手名を忘れてしまったが日本代表のある選手は、脳震とうを起こすほどの強烈なタックルを食らったら、そう来るかならこっちもそれで行こうと思うらしい。

恐怖に打ち勝てずそのスポーツでは成功しなかった人も数多い中、とにかく一流になる選手は技術面が一流であることは当たり前で、精神面にも一流のタフさを備えている。それはすなわち恐怖や辛さに打ち勝つ勇気に他ならない。

スポーツを例に取ったが、どんな仕事でも同じだと思う。一流と呼ばれる人はミュージシャンであっても棋士であってもサラリーマンであっても皆人よりも数段上の勇気を持っている。

何も皆が数段上の勇気を持って世間で一流になる必要はない。ただ、少しでも自分を乗り越える勇気を持てた時、わずかでも一流に近づけているのは確かである。

実力の差

2020-08-21 | Weblog
将棋界で、藤井聡太さんが2冠を獲得した。最年少記録をどんどん塗り替えてゆく類稀な天才はこの先もどんどん高みに昇っていくだろう。中年の星と呼ばれる木村一基元王位になんとか頑張って欲しかったが実力の差はいかんともし難い。

勝負の世界は実力が全てと言われる。だが、勝負の世界に限らず、どんな世界でも実力が全てだろう。毎日はっきりとした勝ち負けをつける必要がないだけであり、のらりくらりとその日をやり過ごすのも、うまくベンチャラを使って人を取り込むのも生きる実力に他ならない。やり手でエリートで社会の成功者と呼ばれた人だけが実力を持っているわけじゃない。
つまり実力とは「自分を認め、また明日を生きるために絶対に諦めず自分にできる限りのありとあらゆることをやり続けること」に他ならない。

木村元王位の敗者の弁がなんとも素晴らしいではないか。

「一から出直します。」

25歳~35歳位までがピークと言われる将棋界で、47歳にして発した言葉がこれである。
将棋の実力では負けた。ただ、人生の実力ではまだまだ藤井さんのそれとは天地ほどの差がある。

理不尽を生きる

2020-08-18 | Weblog
ギターが趣味である。
昔はエレキギターも弾いたが、今はバンドでアコースティックギターを弾いている。

このアコースティックギター、家などで生音を楽しむ場合はもちろんそのまま弾けばいいのだが、ライブで使う場合場合は音をスピーカーから出力する必要があり、対策が必要になる。一番いいのはギターの前にマイクを立てて音を拾うことだが、バンドで演奏する場合、これではほとんどの場合ハウリングが起きてしまうことや、少しでもギターとマイクの距離や位置が変わると音が大きくなったり小さくなってしまうことがありほぼ使えない。そこでピックアップというものをギターに仕込んで音を出力する必要があるのだがこれが簡単ではない。単に音を出力するだけならギターとミキサーをシールドで繋げばいいだけなのだが、これではギター本来の生の音を再現することが難しく、色々な機器を使う必要がある。その機器のほとんどはデジタル機器で、詳しい説明は省くがアマチュアの私が使っているだけでも、プリアンプ、リバーブ、ディレイ、ブースター、エンハンサーの5つ。要するに「生音」を再現するために多くの「デジタル機器」を使うというなんとも矛盾したことが必要になるのだ。

それで思ったことがある。今の私たちの生活も同じような矛盾ばかりじゃないのかと。
最も「生」である必要があるコミュニケーションには携帯やパソコン等のIT環境が欠かせない。山を切り開き家を建て、そこに植樹して自然豊かな住宅地だと触れ込む。CO2を排出しない電気自動車は充電のための原子力発電所が必要だ。
サラリーマンを続けてきて、仕事とは理不尽を生きることだと分かったのが多分10年ほど前。人生も理不尽を生きることだと分かったのが数年前。分かったからと言って何も分からないと分かったのがつい最近。
ようするに健康が一番ということですね。

次の作品

2020-08-12 | Weblog
映画監督の黒澤明氏が「あなたの最高傑作は?」と質問されて「次の作品だ」と答えたというのは有名な話。

「人生に確かなことなんてない、それだけが確かなことなんだ」

これは2001年のアメリカ映画、ビューティフルマインドの名セリフとされている。

好奇心・向上心を持ち続けることの大切さは何もクリエーターやプロだけに限ったものではない。
今日ほど不確かな時代を乗り切るには、皆が次の作品、すなわち明日の自分を最高傑作にしてやるという気持ちでいることだと思うのである。
もちろん、人と比べずにね。



心構え

2020-08-11 | Weblog
「這えば立て、立てば歩め」

とは親心を表す言葉としてあまりにも有名だ。

子供が歳を重ねるごとに「元気ならそれでいい」はずが、元気だけでは世の中で通用しなくなるから色々なことを教えなければいけないし身に付けさせなければいけなくなる。でも子供が怪我をしたり病気をしたりしたらやっぱり元の元気ならそれでいいに戻って「歩めなくても立て、立てなくても這え」になる。

結局は健康に勝るものは何もないのだが、生き抜くための術もそれはそれで必要な訳で、子供だけじゃなく私たちは皆、這えば立て立てば歩めと、歩めなくても立て立てなくても這え、を行ったり来たりして生きている。まったく人間というのはややこしいし生きていくのは難しい。

それでも今のコロナ渦で私たち自身に言える確かなことは、「立てなくても這え」に違いない。
とにかく後数年は歩けなくてもよしとしないとね。




終戦記念日に思う

2020-08-10 | Weblog
『可笑記(かしょうき)』の武士道論に、次の一節がある(とネットの記事に書いてあった)。

「武士道の吟味と云(いう)は、嘘(うそ)をつかず、軽薄をせず、佞人(ねいじん、こびへつらう人)ならず、表裏を言はず、胴欲ならず、不礼ならず、物毎自慢せず、驕(おご)らず、人を譏(そし)らず、不奉公(ぶほうこう、主人に忠実でないこと)ならず、朋輩(ほうばい)の中よく、大かたの事をば気にかけず、互ひに念比(ねんごろ)にして人を取たて、慈悲ふかく、義理つよきを肝要と心得べし、命をしまぬ計(ばかり)をよき侍とはいはず」
【訳】武士道とは何かを考究するに、それは嘘をつかず、軽薄ではなく、主人に対するおべっか使いでなく、二枚舌でなく、胴欲でなく、驕慢でなく、人を誹謗中傷することなく、主人への奉公が疎かでなく、朋輩との仲もよく、些細なことにはとらわれず、人との間柄の仲睦まじく他人を称揚し、慈悲深く、義理がたいことを肝要と心得るような精神的態度とされる。単に命を惜しまぬ勇猛一辺倒では、良い侍とは言わない。

今日のコロナ渦では、我先にとマスクを買い占め、トイレットペーパーを買い占め、今度はうがい薬を買い占める。姿や顔の見えないネット社会で人を誹謗中傷する。一体このみっともなさはなんなのだろう。

現代が武士道精神に支えられている時代だったら、こんな人たちは「恥を知れ」と斬り捨てられただろう。

もうすぐ終戦記念日である。もちろん戦争はいけないし今は戦国時代ではない。ただ恥を恥と思わず、卑怯を卑怯と思わない人が普通に闊歩する時代は、武士道の矜持を持てないたちが「正当に間引き※」されたその当時よりひどくはないか。恥ずかしいこと、みっともないことは命に懸けてもしてはいけない。でないと、戦争がなくても人が滅び、やがて国が滅びてしまう。

私の終戦記念日とは、ことあるごとに命をかけて道を貫き生きてきた先人たちを思い倣うことである。

※戦争で理不尽に命を落とされた方を指すものではなくあくまでも武士道の精神を持てなかった、守れなかった人のみを指します。

古い水夫

2020-08-08 | Weblog
古い船には新しい水夫が 乗り込んでいくだろう
古い船を今動かせるのは 古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も新しい船のように 新しい海へでる
古い水夫は知っているのさ 新しい海のこわさを

これは吉田拓郎の「イメージの詩」の一節だ。
将棋界では18歳の藤井聡太棋聖が47歳の木村一基王位に3連勝し、もう古い水夫の出番はないよ、とばかりに躍進している。
でも、藤井棋聖は先人の偉大さを知り尊敬を忘れず至って謙虚だから、古い水夫の出番はないよなんて思っていないだろうし、だからこそよけいに強くなってゆく。今、新しい海の怖さを木村王位は感じていることだろう。
時代は変わるのが当然だ。ならば新しい水夫がまだ知らない海の怖さを教えてやればいい。ひとつ間違えば簡単に船を飲み込んでしまう木村というとんでもなく恐ろしい海域があることを。
62歳の私には、47歳の遅咲きの王位を応援せずにはいられないのである。

忘れもの

2020-08-06 | Weblog
大阪人と言えばボケとツッコミが出来て当たり前である。出来ないと大阪人とは認めてもらえない。
徳之島に行った時、大阪で50年以上暮らしていた友が、車でカーブする時に、実際にはハンドルを回さず、手だけを5~6回素早く空回しして急ハンドルと見せるというボケをやってきた。
友は私に、一緒に乗っていた千葉出身の奥さんに確認するように、「大阪やったらこんなん当たり前やんなぁ」と言うので、「もちろんや」と答えたのだが、今になってとんでもなく大切なことを忘れていたことを思い出した。
急ハンドルを切ったのだから、「うわぁ、危ない!」と叫びながら「体がドアに押し付けられるう!」というツッコミを入れるのが当然だったのに、奥さんに大阪では当たり前と説明することが先に立ってそれを忘れていたのである。
もう数か月が経ったというのにこれを思い出してしまい悔しくて仕方ない。ブログに書いてもまだ悔しい。次に行ったら絶対にこのツッコミを忘れないぞ、と心に誓っている。
アホの極みであるが、大阪人は当然アホでないとこれも大阪人と認めてもらえないことを知っておいていただけるとアホはちょっと満足なのである。


他人の家の植木

2020-08-04 | Weblog
夏になり、特に猛暑の日が増えると家の外構の植木が一気に伸びる。
放っておくと不細工だし人も通りにくくなるのでこれの手入れが必要になるのだが、暑さが苦手な私にはどうにもこの作業が苦痛で仕方ない。いつも切りながら、誰か「たとえ、他人の家の庭の木であってもとにかく植木を切るのが大好き。タダでもぜひ切りたい」という人が現れないものかとやけくそ気味に考えてしまう。
でもそんなバカなことを考えていてふと思った。こういう人が理想の結婚相手じゃないのかと。

「木を切って縁が繋がりました」なんてね。

もちろんある訳ないけど。

まさかの坂

2020-08-03 | Weblog
人生には、まさかの坂があるものだと誰ともなしに聞かされてはいたけれど。
まさかコロナなんて伝染病が流行するなんてことは全く想像だにしなかったという人がほとんどだろう。なにも分からなかった今年の初めに比べると少しは正体らしきものが見え、治療法や対処法も少しは進んだようには見えるがもちろんとても安心できたものではない。
趣味や遊びの話はもちろんできないからと言って生活に困るものではないので我慢するしかないのだが、その間にできることをして遊んでもとにかく何をしてもなんか喉に骨が引っかかっているようでスッキリと楽しめない。人生の坂というと苦しい登り坂を想像してしまうが、今回は一歩間違えると転落してしまう下り坂だし。
まさかの坂が下り坂だったなんてまさかの坂にまたまさかの坂があったみたいでホントに人生は分からない。
ただ、この坂にも花が咲き鳥が鳴いているはずだ。
まさかの坂も力に変える以外に進む道はない。