孟子はこう言った。
「為さざるあり、しかる後、以て為すあるべし」
「自分はこれこれこういうことは絶対にしない、という自制心があってこそ、初めて本当に自分のなすべきことが見えてくる」という意味である。
57年間、私はそうしてきたつもりだった。冗談めいたことは別にして、人の悪口は言ってこなかった。武士は食わねど高楊枝、男はやせ我慢だと突っ張ってきた。自制心を持っているつもり―だった。けれどそれは違っていた。この間、しょせん私は「やせ我慢できる程度のこと」にしか遭遇してこなかっただけだったのである。
ちょっとブログには書けないが、最近、自分自身初めて経験する精神的な苦痛に襲われた。結果、私は、矜持をなくし、常識をなくし、例えはまずいが、犯罪を起こす人の気持ちが痛いほど分かるようになるまで自分を抑制できなくなっていた。人の悪口をいい、我慢などまるでできず、男などと呼べる部分はどこかに捨て去り、女々しく、口だけは一人前の最低な人間になっていた。
私は酒が飲めない。宗教を信じている訳でもない。が、一人酒を飲みに行って飲めない酒を一気飲みした。何度も教会に駆け込もうかと思った。酒も宗教もダメなことを恨みさえした。それでもなんとか首の皮一枚残った「やせ我慢」がかろうじてギリギリのところでそれを抑えていた。
あまりの辛さにフラフラになりながらも、今はやっとの思いで、一旦、不安定な精神状態を脱することができたが、それはやはり「生涯の友二人※」の力なくしてはあり得なかった。※7/15ブログ「生涯の友二人」参照
道を示し、方向を示し、叱り、本来(という言葉が適切かどうかは難しいが)の私の姿を示し、自分の経験を語り、女々しい私を肯定し、いつも離れずにいて、見守っていてくれた。最後は自分自身の力で解決するしかない、という当たり前のことをあえて口にせず、とにかく私を信じて側にいてくれた。
私はとにかく自分中心でしか物事を考えない人間である。それは、他人のことは絶対に分からないからだし、自分を見つめることなくして人を見つめることなどできないからである。しかし、今回、「自分自身を見つめられないところまで追い込まれる」ということを経験して、自分自身に分からない部分を見てくれる人の大切さを痛感した。人は一人では生きていけないことを痛感した。自分中心の考え方が間違っているとは思わないが、人が私を見てくれていることをありがたさを知らずにいては絶対にいけないと思った。
こんな私が、二人の友の相談に乗ったこともあることを思い出すと、申し訳ないやら恥ずかしいやらで赤面してしまうが、二人の友にも、自身で分からない部分があり、それを見つけられるのは、私しかいないのかも知れない、と思うと、なんとか申し訳が立つ。
友たちよ、あなた達が私にしてくれたように、私も同じように生涯離れずあなた達の側にいます。
60歳を前に、お互い、知らなかった自分を教え合えるなんてことができたら、最高に素敵だね。