僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

こんな人が好き〈VOL10〉

2006-04-30 | Weblog
「自転車で電車に乗る人」
これ、またホンマにおったのよ。お馴染みの阪急電車京都線に。(お馴染みでない方はVOL2を)
時間はほぼ終電に近い時間帯。電車は高槻駅に着き、降りようとふと反対側のホームを見ると自転車にまたがった老紳士が。そんな時間まで仕事してたもんやからもうクタクタで、最初は車椅子に座ったはるのかな、と思ったんやけど、それにしては背が高すぎるし・・・なんて思いながらよーく見てみるとやっぱりそれは自転車。
改札もあのまま通ったんかな、とか乗ったまま電車に乗る気やろか、とかいろいろ考えたりはしてたんやけど、とにかく疲れてたので、その後の行動が気になりつつも、確認せずに帰ってしもた。
でも、俺が思うにあの老人、あのまま電車に乗り込んで、何気なくつり革をつかみ、新聞か何かを広げてたと思うな。
だって阪急電車京都線ってそういう人がいても不思議のない玉手箱みたいな路線やねんもん。

産業輪廻

2006-04-29 | Weblog
医療の進歩はめざましい。
でもこれはほとんどが医者よりも医療“器具”の進歩やんな。何もそれが悪いと言ってる訳じゃなく。
器具というのは様々な技術の集大成や。コンピューター、電池、ベッド、ビス、照明、手袋、その他・・・つまり産業の集大成。つまり、産業の進歩→器具の進歩→医療の進歩ということ。
ということは、医療に関わる人たちだけで医療は進歩しない。世界中の産業に関わる人が、医療を進歩させてるということ。そして、その先進医療に助けられている人がどんどん増えて、人生を仕切り直し、その結果がまたフィードバックされ、産業が進歩する。いやー、人間ってホンマすごい生き物やねぇ。

果たして俺もこの産業輪廻とも言える輪の中のどこかに位置しているのだろうか?と探してみた。

あ、いましたいました。なんかおいしそうにほうばっておりますが・・・なるほど、“消費”に位置されているようです。

頑張れ頑張りやさん

2006-04-28 | Weblog
頑張るのはしんどいからイヤやねん、といった友人がいる。それには俺も賛成。
頑張る人と言われる人の中には、100メートル競走に出るのにマラソンの練習を欠かさず続けてるような人がいる。また、それも感心するくらい頑張る。何もしないよりはマシやろうけどでもやっぱり当然のごとく結果はでない。
俺はずっとこういう人に、人間的には好感を持っても、こと仕事においては、「要領が悪くて生産性の低い人」としてしか認めてこなかったし、そういう人が「頑張りやさん」というだけで高い評価をされたりすると、「頑張らなくても成果を残す人」の方がよっぽど評価されるべきやと思っていた。
でも最近は少し考え方が変わってきたな。頑張れない人の代表みたいな俺が、「頑張り続ける」ことのすごさをやっと分かり始めたっていうか。たとえ100m競争での結果がでなくても頑張りやさんが頑張る過程で周りに与える「効果」は頑張らない人の「結果」よりよっぽど大切やということがあるねんもんな。

こんなことは、頑張ってきた人には当たり前のことなんかもわからん。でも頑張らない人は意外とこうことに気付かないもんなんよね。ま、せっかく気付いたんやから、「頑張らなくても頑張っているように見える方法」でも頑張って考えよかな。

もう

2006-04-27 | Weblog
今朝、駅の改札口を通ろうとしてたら大慌てのおばちゃんが俺の前に割り込んできて、先に通ろうとしたんやけど、おばちゃんのまだその前の人が改札機になんぞ入れ間違ったみたいでゲートが閉まってしもた。
そこでおばちゃん、「もう!」と一言。
その声に、なんとも情けないなぁ、と思いながらどうして情けないと思うのか考えてみた。

勝手に情けない人の三要素を定義すると、
1.バカであること
2.バカだと分かっていないこと
3.お幸せであること
この三つに尽きると思うねんな。

そこから考えると、この「も」と「う」の刹那には見事にこの三要素があった訳よ。

<ひとつめ・・・バカ>
人間誰にでもイライラする時はあるし、「もう」と思う時もある。程度には個人差があるやろから、「この程度のことで」とは言わんけど、その気持ちを抑えるべきか吐き出すべきかを理性で判断して、他人様と日常生活を送ってるわけや。何をどれだけ急いでいたのかは知らんけど、わざと邪魔したわけでもない人に「もう」は出したらあかんことくらい、判断できんでどうするねん。

<二つ目・・・バカだと分かっていない>
その「もう」の声は、半径1m四方くらいにだけ聞こえるようなビミョーな大きさで、しかも無声音。相手に聞こえるように、でも、それ以外の人には聞こえないように、調節されたB♭くらいの音。たぶん、自分では考えて一番うまいこと文句を言ったつもり。そんな器用な調節ができるのなら先に自分の気持ちを調節せえ、ちゅうねん。

<三つ目・・・お幸せ>
大股で人を蹴散らしながら会談を駆け登り、無事急行電車に飛び乗られました。そのあと、わずか半人分くらい空いた椅子におしりをねじ込まれたのだと思います。

とまぁ、色々情けない話はあるけれど、結局こういうことを書いてる自分が情けない訳で・・・ということでここらで「もう」やめときます。

神さま

2006-04-26 | Weblog
俺は無信教なんやけど、たまたま近いからというだけでカトリック系の幼稚園に通っていた。その歴史を受け継ぎ、ウチの二人の娘も同じ理由でその幼稚園に通わせた。
長女がその幼稚園を卒園して小学生になったある日、学校の男の子が悪いことをしているのを見つけて、幼稚園でいつも教えられた通りこう注意したらしい。

「そんなことしとったら神さまに怒られるで」

そこでその男の子から返ってきた言葉。
「なんやねん、それ。何もんやねん!  そんなヤツおるかいボケ!」
そこで娘が胸で十字を切ったかどうかは知らんけど、「神様を知らん人がおる」というのはもう晴天の霹靂やったみたいで、かなりの放心状態に陥っていたらしい。

まぁ、俺達両親はそれを聞いて大笑いしてんやけど、今考えると、「反対意見の存在」というのを、娘が早めに知ったというのは、ものすごくええことやったと思うな。
また、その男の子の物言いがええがな。そらおるんかもしれんけど・・俺は知らん、みたいな言い方じゃあ、幼少から神様がいると教えられ、信じてきた子の考えを変えることはできん。「おるかい、ボケ!」やからこそ、相手の口がアングリと開くほどのインパクトを与えることができたんや。外務省もちいとはマネせなあかんで。

ということで神様、僕はお願いにインパクトを与えてみました。

「大金持ちにしてくれ、ボケ!」

(あの、もし読んで下さった方の中にカトリックの方がおられましたらお許しくださいね。ネタですからネタ!)

エンスト

2006-04-25 | Weblog
今日の昼下がり、久しぶりに「エンスト」なるものを目撃した。
自動車販売店の話によると、最近売れる車は95%がオートマチック車らしく、そもそもクラッチ操作のミスでエンストする車が走ってない訳やから、長い間エンストを見る機会がなかったのもうなづける話やねんけど。
で、その車が真っ赤な、じゃなく白のポルシェのオープンカー。そこに、みんな私達を見てよ、みたいに乗っていたのは、最近流行のちょいワルおやじ(風)と明らかに愛人でーす(風)のちょっとバカってつきそうな30歳くらいの女性。
二人は信号待ちで楽しそうに話してた。やがて信号が変わり、おやじが、さぁお楽しみへ、と発進しようとしたその時。「ガク!プスン」というなんともポルシェにあらざる音が。
その時のおやじの顔。なんじゃこりゃー!みたいな顔をしてこのポルシェ野郎め、何してけつかんねん!とでもいいたげに、女性にはそっぽを向いて、ちょいカッコつけながら再始動。女性はその一挙手一投足をじっとみながら、ったくこれだからセックスもダメなのよね、みたいな表情を浮かべて薄笑い。これ、あくまでも俺の主観やけど。
でもその時思ったんや。エンジンが「ストップ」したその瞬間、逆に時間がものすごくイキイキと豊かに色々な方向へスタートした、って。
まさかそれが原因で二人が別れたてなことはないと思うけど、エンストは、少なくとも話の種、うまくいけば喧嘩の種にまでなったかも知れへん。おかげでおやじの下手なセックスが直るきっかけになったかも分からんで。そのまま俺に見てもらえずにスムーズな走行を続けてたら、おやじは自分勝手なセックスを続けることになって、手元に残るのは、エンストはするわ、雨降ったら乗られへん天王寺の青テントより役に立たへんポルシェだけ、てな最悪の結末が待ってたかも分からんねんから。

毎日恐ろしいほどの速さで過ぎる時間。24時間では全く足らない1日。
そんな中、少し立ち止まることの大切さを教えてくれたのがスピードでも技術でも時代の最先端をいく白いポルシェというのは皮肉やけど。

ま、頭がエンスト気味の俺にはそんな高級な教材で学ぶ必要もないんやけどね。

こんな人が好き〈VOL9〉

2006-04-24 | Weblog
最近、「がんこ」っていう人が妙に好きや。
がんこといえば“おやじ”とか“じじい”とかがぴったりくる訳やけど、それって資格を表わしてんやなと最近気がついた。おやじやじじいは人生の大先輩。多くが苦労を重ねて日本を支えてきてくれた人たちや。そんな人たちは他人の話に流される必要なんかないねん。そこらの若僧とは人生の重みが違うねんから。そんな尊ぶべき人生を生きてきた人だけがつけてもいい「冠」。それががんこやねん。ということで、今日のこんな人が好きは

「がんこギャル」

もう、最近のギャルっていうのは俺も中年の例にもれず見てられへんねんけど、駅に座り込んでても、ものごっつがんこそうなギャルがおったら面白いで。ピアスとかそんなんしてないで。なんといわれようが鉢巻と腹巻がトレンドやと言い張りよんねん。そうなると、ガングロってのが一時期流行ったけど、またそれが復活する。でも今度は「頑<固で苦労人」って意味やねん。
そんなギャルがおったら尊敬するけど・・ありえへんわなぁ・・・。

絶滅した豪傑

2006-04-22 | Weblog
ふと思い出したけど、約1ヶ月前の3月20日は、いかりや長介さんの命日やった。
この人は僕の尊敬する人の一人で、特にあの個性派集団のドリフターズを何十年にも亘ってまとめあげてきた指導力・統率力は特筆ものやと思てる。きっと笑いに対する探究心もすごかったんやろうね。単純なドタバタやねんけど、セリフをよく聞いていると結構練ってあるし、小学生から大人までが笑える笑いを実現したというのはたぶんドリフ以外に覚えがない。まぁ、偉大な人やったね。
ところで、命日と偉大な人で思い出した人がいる。それは、前の会社でお世話になった上司のK氏。命日で思いだす訳やから当然亡くなられているんやけど、社会人として赤子だった俺を一人前に育ててくれた、まさに恩師。
その人のことを、一言ではもちろん言い表せないし、かと言って、多くを話すとかすれてしまうから、どう言おうかとすごく悩んでるんやけど、とりあえず一言でいうと、「豪傑」これ以外に思い浮かばんな。

あんまり大きな声ではいえんけど、仕事中でも机の下に酒を隠して飲んでいるような酒好きで、―でも飲むときは机が完全に飲み屋のカウンターと化しているので、隠してる意味がないんやけど―「酒を飲めるヤツが一番エライ」というごっつ明快な哲学を持ったはった。明快な哲学はいとも簡単に善悪を超越するもんや。
よう、仕事中に酒を買いに行かされた。特に夏。おい!と呼ぶから何を怒られるのかと思ったら、「暑いからビール買うてこい!」やもん。続けて、「酒も買いにいけんようなヤツがまともに仕事なんかできるかい!」ってアンタ。
そんな躾、ヤクザでもせんやろうと思うようなことを当たり前に言うたはったなぁ。でも、その頃は何が何だかようわからんかったけど、今は分かる。その「酒も買いにいけんような・・・」という意味が。それは、サラリーマンは「理不尽をいかに生きるか」が基本やということやったんやなって。
ある日、そのK氏の上司にこっぴどく叱られたことがある。でもその内容は、建屋に雨漏れしてる箇所があって、それは俺が直なさいのが悪いというようなもんやった。どこからどう考えても納得できなかったので、俺は完全に切れてしまって、「そんなものは専門業者に言ってくれ」というような文句を言ってしまった。思いもかけず、俺が反発したもんやから、その人は俺の直属の上司であるK氏に、君の管理が悪いからこんな部下が育ってしまう、という八つ当たりをした。そこでK氏はその人にひとこと。

「ガタガタ騒いでる間があったらアンタがやりなはれ」

これでまず俺は溜飲を下げたんやけど、その後のK氏の行動がまた俺の胸を打った。しばらくしてK氏がいないのを知った俺は、何処へ行ったのかなと思ってたんやけど、ふと屋根を上を見るとそこにK氏がいて、「ったく、お前がろくでもないこと言うから俺がこんなことせなあかんやないかい!」と笑いながら雨漏れを直してくれていた。
任せるだけ部下に任せ、責任は自分がとるという理想の上司やった。男はこう生きるべきという背中を見せてくれた理想の男やった。理不尽でも組織は前に進まなあかんねやということを俺はこの時に覚えたんやと思う。

最後の時が近づいてきていたある日、俺が病院に見舞いに行ったら、「もうすぐ友達がくるから帰れ!」と言われた。普通に聞くと腹の立つ所なんやけど、俺はそれが嬉しくて、K氏らしさに安心して帰った。
それからまた1~2週間してまた見舞いに行った。でも、その時にK氏の言った言葉は俺の予想に反して「おう、すまんの」やった。その時初めてこの人から「すまん」という言葉を聞いた。一度も褒めてもらったことなんかないし、人に謝らせても自分が謝るなんてところを一度も見たことがなかった。また、「帰れ」と言ってくれると思ったのに。悪くもないのに叱ってくれると思ったのに。帰り道に涙があふれて止まらんかった。この人の口からは絶対に聞きたくない言葉やった。その1週間後、K氏は逝った。

K氏が生前していたことには、正しくないことが恐ろしいほどあった。でも、その“決して正しくはない”言動・行動こそが人を惹き付け、人に真っ直ぐさ”を教え、今なおその頃の仲間が集まれば必ず話題に上るほどの影響を残したんや。そういう人を「豪傑」というのなら、俺はその人以外に豪傑に会ったことがない。
毎年5月になると、その人にお世話になった仲間が集まってバーベキューパーティーをする。K氏の話で盛り上がってる俺達に、K氏はきっとこう言ってくれるやろう。

「いつまでたってもあかんのう、お前らは」

備えあれば憂いもある

2006-04-20 | Weblog
「無防備」
さっき、風呂に入っててそう思った。でも、だからといって不安な訳もなく。考えると俺は常に無防備。特に地震に備えるなんてことはまったく興味すらない。
阪神大震災のようなあんな大きな地震が俺の生きてるうちに俺の住んでる場所にもう一回来る確率なんて宝くじが当たる確率より低い。そんなことに備えるくらいなら、他にやりたいことが山のようにある。
それじゃあ、最後に泣く事になる、と言う人がいるけど、それで結構。最後に笑う必要があるって誰が決めたのか?最後に泣いてもそれまで笑っていればそれでええやんか。

備えあれば憂いなし。
それは“憂いのカタチ”を持っている人には有効やろう。でも俺みたいに“憂いはその時に決める”ヤツには、備えることそのものが憂いになってしまう。つまり「備えるくらいなら憂いたい」のだ。
でも、そこはさすがに俺は小人。明日の仕事に備えて早く寝ようと思っているのあります。

わりと軽めの尊敬

2006-04-20 | Weblog
明日(もう今日)の天気は大荒れらしい。俺は、雨が激しく降っているのを見るのは大好きなんやけど、その中を歩いたり、濡れた傘同士がくっつき合う満員電車等は極端に嫌いなのだ。
仕事柄、満員電車を避けた遅い時間に出勤できるので、いつもそうしているんやけど、明日に限って、普通の会社並の出勤時間に行かなあかんのよね。
ということは、満員電車で傘のくっつけ合いをせなあかんってことや。もう、考えただけでも嫌になる。でも、大多数のサラリーマンはこれを年に何回となくしてるんやもんな・・・
それだけでも、皆偉いなぁ、と思います。

こんな人が好き〈VOL8〉

2006-04-18 | Weblog
「食あたりを食べて直す人」

これ、俺のこと。我ながらこれは大したもんやな。でもどうしても風邪は直せん。とりあえずにんにくを食べて早く寝る。これが今一番の対処法かな。

良薬は他人に臭し、とでもいうのか。

風邪に落ちたら

2006-04-17 | Weblog
ひさりぶりに風邪を引いてしまった。熱に喉の痛み、寒気と体のだるさ。いつも風邪を引かないようにと、手洗いとうがいは頻繁にしてるんやけど、それでもどこからか風邪はやってくる。
風邪を引くの「引く」は自分の体の中に取り入れるという意味らしいが、俺はまったく取り入れた覚えがないのに勝手に入ってきよる。
司馬遼太郎さんがこう言うたはった。風邪は引いてしまったら、直す手段はどれも似たり寄ったりで、結局のところ引かない以外に風邪の辛さから逃れる方法はないって。
でも、引いてしまった。もうどうしようもない。なんか気持ちだけでも楽にしたいので、「引く」ではなく、恋のように「落ちる」にしたらどうかな、なんて思った。

「風邪に落ちた」

よけいしんどなってきたのでもう寝ます。

裏通りの晴れ舞台

2006-04-16 | Weblog
ある有名人のドキュメンタリー番組を見てたら、その人の裏方さんの苦労を取り上げて、結構長い時間を割いて放映してた。
それってどうなのかね。俺はそんなこと教えて欲しくないし、裏方さんだってわざわざ取材されたくもないやろうと思うねんけどな。
だって皆、人生で必ず、誰かの裏方になり、誰かに裏方になってもらっている。いちいち教えられなくても裏方さんの苦労は知ってるはずやんか。
裏方さんの晴れ舞台は暗い裏通りにある。それを表に引っ張り出して、いかにも「光を当ててあげた」みたいなのは、裏方さんの目がくらむだけ。
誰もが表舞台が晴れ舞台やとは限らへんねやから。

よく遊び・よく学べ

2006-04-14 | Weblog
最近、「ゆとり教育がもたらした弊害」の話をよく耳にする。なんでも、子供たちの学力がどんどん落ちていくのは、それが主な要因だという論調。
そやけど、それが事実でちょっとくらい学力が落ちたからいうてなんなのかね。何も学力が必要ないなんて言うてる訳やなく、「思考」するための最低限度の学力は絶対に必要やと思うし、小学生の頃は頭も柔軟で記憶能力にも優れているから、学力をつける時期として最も適しているという意見もなるほどやと思う。

そやけど、体力、気力、忍耐力、判断力・・・およそ考えられる“人間力”のほとんどが欠如してる最近の子供達に、学力だけを求めてどうすんの、ちゅう話。大体からして、この「学力」って言葉の使い方も問題やで。「学ぶ力」やねんから、机上の勉強だけを指してる訳やないやん。遊びや、けんかや、TVゲームの中からでも「学」ぶことはできるんやし、「主要5教科の成績」かなんかに言い換えて欲しいね。ということで、ここからは学力=主要5教科の成績(勉強)という意味で書きます。

ようするに、俺が思うに、学力ばかりつけても人間力がつくとは限らんということ。ほなどうするか?人にもよると思うけど、やっぱり子供時代は思いっきり「遊ばせる」ことに尽きると思うな。
勉強は大人になってからでもできる。記憶力の低下は避けられへんから効率悪いし、第一仕事に追われてそれどころじゃないやろう。でもやろうと思えばできる。けど、朝早くから日が暮れるまで外で走ってどろどろになって遊ぶなんてことは大人になってからは絶対にできない訳で、もしそんなことしてる大人がおったら、近所のやさしい人がすぐ通報してくれはる。そやし、子供にとって遊びっていうのは「旬」の食べ物。しかも、食べ物の旬は一年に一度くるけど、遊びの旬はこの時期を逃すと二度とこない。だから俺は、至極単純に、その時にしか味わえないものはその時に味わうべきや、と思うねん。

で、何で勉強ばっかりするより遊ぶほうがええかというと、遊びの中から“学ぶ”ことは、実際の仕事に役立つ実践的な能力に直結してるから。仕事において「論理的な正解」を示す力はそれほど重要やない。というか、それはできて当たり前で、社内での人間関係や商談では、それよりもコミュニケーション能力を始めとした総合的な人間力が求められる。当然これには論理的正解などなく、正解だろうが間違いだろうが、自分の持てる能力を全て出し切って、自分の考え方をきちんと“魅力的に”示せることが正解なんや。つまり「非論理的でも説得力のある考え」を示す力が大切やってこと。

遊びはこれを自然と教えてくれる。草野球をする、サッカーをする、友達をいじめる、いじめられる、けんかをする、女風呂を覗く、ときには盗みもする・・・そこにあるルールや上下関係、嫌いなヤツ、好きなヤツ、目上の人、年下との接し方。やってはいけないこと。そして自分の活かし方。これを理屈ではなく体で覚えていくから、ほとんど意識せずに、どうすれば他人とうまくやっていけるのか、自分が活かせるのかが判断できるようになる。

例えば、自分の活かし方で言えば、男の子の代表選手が「はったり」。これは絶対に授業では教えてくれへんわな。今の時代の教師がこんなこと教えたら、そら親に“はったおされる”わ。そやけど、「はったり」というのは実社会で自分を活かす時の大切なスキル。これは社会人になっても教えてはもらえないし、教えてもらったからと言って身につくもんやない。でも遊びでは時に、かっこつけたり、“カマ”したりしながら、自分をアピールせんと全然自分の居場所がなくなってしまうことがあるから自然と「はったり力」がついてくるんやね。一般的に、はったりというと、自分の実力以上に自分をよくみせて、相手を呑んでしまおうとすることやから、それは見栄とも嘘ともとれるかも知れんけど、少なくとも自分を最大限に発揮しようとする姿勢ではあるし、自分以上のものを見せた以上、それに近づけなければ責任がとれなくなるから、必然的に努力することになる訳で、結果的に見栄と実力が近くなる。もちろん、だたの見栄っ張りで終わる可能性もあるけど、そらまぁしゃあないわな。

オーディオに例えると、頭脳がアンプだとすると、はったりはスピーカー。いくらアンプが良くてもいいスピーカーがないといい音はでない。逆にスピーカーがよければ、悪いアンプでもその性能を全てを引き出すことができる。当然どちらも大切に決まってて、このバランスのいいのが「頭のいい人」やと思うけど、能力を出し切るという意味で、俺は「スピーカー優先」やと思うんやけどね。
まぁ、色々言うたけど、現実問題として、親が自分の子供を外で元気に遊ばせようとしても、他に同じ考えの親がいないと無理な訳で、今の社会のように、学校へ行かせるのにも防犯ベルを持たせる必要がある状況や、格差が広がり「学歴」がますます重要なものになろうとしている状況ではますます「学力」は求められるものになっていくやろう。
幼稚園から英語を習い、小学生時代からディナーのような給食を食べ、株の動きを勉強し、殺人のテレビゲームに熱中し、中・高校と徹底的に勉強。セックスのノウハウはインターネットのノーカットAVで覚え、晴れて一流大学に入ってやっとこさできた彼女に変態プレイを強要。そんな人が増えていくのは目に見えているけど、それにあわせて常識も変わっていくから、けっこうそれが当たり前になっていくのかも知れない。

そう考えるとしょせん、俺の言ってることなんて夢物語でしかないと思う。でも、ひとりで部屋にこもって、こんなことを言っていたらそれは夢物語から永遠に進むことはなかったやろうけど、今はインターネットを通じて自分の考えを不特定多数に配信することができる。同じ考えの人と少しでも交流を持てれば、夢物語が現実の話に変わることがあるかも知れない。でも待てよ、皮肉にも、そんなかすかな期待を抱かせてくれるこのIT社会は、まぎれもなく「学力」が作り上げたものやん・・・。

うーん、「よく遊び・よく学べ」この言葉のなんと偉大なことか。以上、大学を中退して、あの時もっと勉強しておけばよかったと思っている私です。