僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

泣き止むことから

2015-08-12 | Weblog
「マジメも休み休み言え」
「ためになる話とやらの食べ過ぎで肥満になったら大変だ」
尊敬する心理学者、河合隼雄さんの言葉である。どちらも遊び心がないことが精神によくないことをコントラストをつけて面白く見事に表現されている。

私自身も先生と同じく、マジメな話はとにかくオモシロクないので、苦手だし嫌いだし、ためになる話も偽善臭さがプンプンしているから嫌いである。だから私は、これまでずっと私は結構精神的には健全で余裕のあるほうなのかな、と思っていた。が・・・違った。

このように考えられるのは、そもそも“元になる”余裕があって始めてできることなのである。そしてその余裕は少々のことではなくならない容量と強度を持っていなければならない。一朝一夕でできるものではなく何年、何十年と貯めてきた余裕という貯金が必要なのである。たぶん私は、余裕を持ってはそれをすぐ使い、貯めてこなかったのだと思う。57年間“かろうじてなんとかなる”ことだけをその場その場で耐えてきただけなのだ。

今、人生で初めて、“今現在の手持ちの余裕”をを完全にオーバーした精神的な苦痛に襲われている。その苦痛は肉体にまで影響を及ぼし、アリとキリギリスではないが、コツコツと余裕を貯めていなかったことに痛烈なしっぺ返しを受けている。とても一人では耐えられない。かと言って一人で耐えるしか生きる道はない。やはりここは意地と根性しか道はない。

「男は男に生まれるんじゃない。男になるのだ」
57歳にして私はまだ、男どころか男の子にもなれていなかった。でも今日から男の子として一歩ずつ歩き始めるしか男になる方法はない。
さて、まずは泣き止むことから始めてみるとしよう。


説明嫌い

2015-08-05 | Weblog
説明ほどつまらないものはない。
説明しないと分からないような物事は全くつまらない。

私は今、人に誤解されている。それも一対一ではなく、第三者から発信された誤った情報によって。説明すれば場合によってはそれが解決するかも知れないがつまらないからしたくない。しかもめんどくさい。

誤解は当人の思いと受けとる人の思いが違うということだ。当然当人の思いが真実だが、受けとる人には伝わったことが真実だ。説明しなければそれが受けとる人の真実になるというだけのことで、私の真実はいささかも揺るぐものではない。仕事では健全な会社経営に影響すので誤解は解かなければいけないが、私生活ではそれよりも「誤解が生み出したもの」の意義を考えることが大切なのではないか。
面白くもない説明をして面白くもないことをそこにまた誤解を生みつつ説明するか。それとも黙って誤解を遊ばせるか。
とりあえず後者のほうが面白いが、誤解が堂々と独り歩きする様を見てるのはあまり面白いものでもない。

また難題だが、とりあえず自分を誤解したり、説明したりすることだけはないようにしないとね。

自分考

2015-08-04 | Weblog
他人のことは500万パーセント分からない。いくらその人を知っていようが何だろうが絶対に分からない。これは真実だ。でも自分のことなら100%分かる。これも真実だ―と、思っていた。ところが、である。自分のことでも分からないことがあるんだね。57年間そんなことを思ったことがなかったのに。

それは、人生で初めての苦しみや辛さに遭遇した時に起こった。
60年近くも生きてきたら、生死も恋愛も自然災害も育児も尊敬も憎悪も喜びも苦労もほとんどのことは経験しているから、各々の事象に対する対処には経験が何がしか役に立っていて、未然に苦しさや辛さを予想してそれを迂回する。加えて、もう経験していないことはないであろうという確信めいたものも持ってしまっている。
だから、全く初めての事象に出会うと、まず自分がよく理解できない。どうなるか予想ができない。やがて少し理解し始めたはいいが、それが自分が絶対に我慢できないことだった場合はもうどうにもならない。極めて犯罪者の心理に近くなり、紙一重のところで良識人に留まっているのがやっとという状態になる。自分を理解しようということよりも目の前の事象からどうやって逃げようかということばかりに注力してしまう。

こんな状態が長く続いた(今もまだ少し続いている)。ようやく、事象から逃げることよりも事象に向かう気持ちを奮い起こすことができるようにまではなったが、いつ何時元のもくあみに戻っても不思議ではない状態だ。

歳を取る毎に体力も気力も衰えていく。そこへ持ってきて、初めての辛い経験というのは、倒れた相手を、これでもか、と殴りつけてくる。それでもやっぱり自分以上に自分を理解できる人は絶対にいないことは間違いない。少なくとも次に同じ種類の苦しみが襲ってきた時には、今回の経験を生かすことだけは、忘れてはいけないと思う。

これからは、「自分のことでも分からないことがあるということを分かっている」ということまで含めて、自分のことなら100%分かると言わんとあかんね。