僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

ナイショ話

2007-09-25 | Weblog

孫が生まれて、早や2週間近く。泣いても笑っても、寝ても起きても、全ての行動が愛おしく、
その小さな命は世界中の嵐を合わせたような猛威で家族の愛情をかき集めていく。
特にひ孫を授かった俺の母や、嫁のご両親は、その顔を見るだけで元気になっていくのが目
に見えて分かるほどで、同居するという昔からの家族のあり方の素晴らしさも今ひしひしと実
感している。

先週末、千葉に行っている長女が甥との初対面を果たすために2日間だけ帰ってきた。まぁ、
当然のごとく他の皆と同じように可愛い可愛いを連発してた訳やけど、留学先で生後2ヶ月
の赤ちゃんの世話を1年間してたこともあり、抱き方なんかは子供を生んだ次女よりも上手な
くらいで感心したな。

で、そういう訳で長女が帰ってきていて、家族で色々と話をしてたら、その中にとても微笑ま
しい話があった。それはまだ姉妹が幼稚園か小学生になったばかりの頃。

当時、頭を洗うのが嫌いだった長女は頭を洗わず、次女に「今日頭洗わへんかったことお父
さんとおかあさんにはナイショやで、その代わりこのあいだの“こと”はナイショにしたげるから」
と、いい、頭を洗わずにいたことが何度もあったらしい。
そして、次女にとってのその“こと”というのは、「庭にあった芝生の一部を剥がしてしまったこ
と」らしく、その時一緒にいた長女に、「お父さんとお母さんにはナイショやで」ということで、
秘密同盟のようなものを結んでいたらしい。

もう15年くらい前の話になるんやろうけど、その話を聞いた時にはなんとも言えない愛おしさ
というか、なんといい姉妹でいてくれたんや、という感動があって、孫の誕生以上に嬉しい思
いをさせてもらった。

俺達夫婦、両親、子供達、孫、犬の優。この家族が生み出すものは、いかなるものにも勝る。
この話はナイショにしておかなくてもいいような気がした。


はちじいのDNAは、ガンジーへ

2007-09-18 | Weblog

先週の9月13日(木)、孫が生まれた。五体満足の男の子。

先輩方から孫はとてつもなく可愛いと聞いてはいたが、ホンマにその通りやったね。
で、なんでこんなに可愛いのかと色々考えてみてたら、理由はこの3つやと思った。

1.まず単に、「新生児」であること。
  長い間生まれたての赤ちゃんというのをマジマジと見たことがなかったので、その200%無垢な
  可愛らしさにまず頬が緩んでしまう。20数年ぶりに嗅いだあのなんともいえない独特のミルクの
  ような匂いもまたたまらなく愛おしい。

2.生まれた時の娘とダブって見えること。
  男と女の違いはあれど、生まれた時の娘はこうやったなぁ、と思い出す。それがまた「1.新生児の
  可愛らしさ」を倍増させる。

3.娘が母親になったこと。
  とにかくやんちゃで俺達をよく困らせた次女が、ついに母親になった。まともな親になるかどうかは、
  これからやけど、とにかく母親としてのスタートラインについてくれた、ということが、誇らしくもあり、
  嬉しくもあり、それがとても嬉しい。

こういうことに加えて、俺達の両親をはじめ、娘夫婦の友達や俺達の友達が毎日のように病院にきて
くれて、孫の誕生と娘の出産を祝ってくれた。それがまた、新しい命の大切さ、素晴らしさを改めて教
えてくれて、また喜びが増してくる。そして、この時期の赤ちゃんにはなんの「躾」も必要なく、ただひ
たすらに可愛がってやればいいだけ。
ようするにこういう感情全てが「孫の可愛さ」というものに集約されるということなんやろね。

まぁ、それはそれとして、かくして、40代でおじいちゃんになった俺やけど、どうも実感がない。娘が
赤ちゃんに、「ほら、おじいちゃんよ」と言ってた時も誰のことや?と一瞬気づかず、しばらくして、「あ
あ、俺かい!?」みたいなことになってたし。
それは、先に書いたように孫は確かにとてつもなく可愛らしいのは事実やけど、だからといって俺にと
って孫のことは今の興味の順からいくと「五の次」くらいやからやろう。もちろん自分が一番可愛いの
に変わりはないしね。嫁や嫁のご両親、娘婿のご両親達がすぐに携帯の待ち受け画面を孫の写真に
してたけど、俺はそんなこと全くする気になれんし。大体、待ち受けに何か設定するのがめんどくさい
人やねんけど、もしするにしても、自分のギター弾いてるとこをするやろなと思うくらいで。

そんな俺やけど、じいさんになったのは事実なので、一応目指す理想の「おじいさん像」みたいなもん
を持ってる。それは一言でいうと、「頑固じじい」。誰がなんと言おうと自分の信念を押し通す。もちろん
孫だからといって甘やかしたりはしない、という嫌われじじいになりたい。
それには理由がある。

俺にはじいさんがいた。名を「八郎」といい、大正か明治の生まれ。家族は皆「はちじい」と呼んでいる。
それはとてつもなく怖い人で、俺の記憶には怖い、ということ以外何もないくらいの人。とにかくなにか
いたずらをすると、"竹ぼうきの柄の部分"で脳天をバシーンと一撃された。今のように暴力はいけない
とか、頭を叩いたらいけない、なんてそんな甘っちょろい考えがその時代の人にある訳もなく、その痛い
ことといったらそれはとんでもない。そのせいで俺はハゲたに違いないくらいの痛さなのだ。
そのはちじいは俺が小学生の頃他界した。こんなことを言うとふしだらではあるけれど、その時俺は当
然悲しかったものの、一方では、「ああ、もうこれであの竹ぼうきで叩かれなくてもすむ」と、安堵してた
くらいやったもん。
でも俺は今、はちじいにものすごく感謝してる。それは50歳を前にして未だにだらしない俺が、はちじい
がおらんかったら、もっとだらしなくなっていたのは間違いないから。誰がなんと言おうと、正しいと思っ
たことを押し通してくれたはちじいがいてくれたからこそ、俺は今なんとか社会で生きてられるんやから。
ということで、俺の目指すは"はちじい"。誰が反対されようが俺はそれを貫くのだ。

その考え方と、孫に俺をどう呼ばせるか、なんてことを友達に話していたら、友達がいい呼び名を言って
くれた。ほんなら頑固じじいを縮めて「ガンジイ」でどやねん?と。

気に入った。はちじいの躾のDNAと呼び名の一部を引き継ぐにはもってこいの呼び名や。
早速家族や娘にもこれからガンジーと呼ぶように言って、かくしておれのじいさんライフは始まったので
あります。

これからはじじいとしての記事もちょくちょく書いていきますので、皆様よろしゅうに・・・


大股で歩く男

2007-09-11 | Weblog

作詞家の阿久悠さんが亡くなって、昨日「忍ぶ会」のようなものが行われたとニュースで言っていた。

まぁ、作詞家としては超有名な人やから、この人のことは当然知ってはいたんやけど、いつもこの
人の詩の何がええねん?と思ってた。ピンクレディーの詩なんかその極地やし、それ以外の、名曲
と言われた唄の詩もまったく深みが感じられへんし、売れる理由がさっぱり分からんかった。
でも、こないだからのメディアへの露出で、ひとつだけ分かったような気がすることがある。
それはこの人の詩に対するコンセプト、というか、突き詰めると生き様のようなもの。

亡くなる直近に阿久さんが、「今、詩を書くとしたらどんな詩を書きたいですか」というインタビューに
「"大股で歩く男"を書きたい」と答えた、その言葉がものすごく印象に残ってる。
何が今の時代に足らないのか、ということをものすごく真摯に見つめ、正確に分析して、それをとって
も分かりやすい言葉で表現できる人なんやと思ったね。それに阿久悠とペンネームは悪友からつけた、
というのもまたいい。ホンマにものすごく生き様のいい人やったんやわ。
だからといって俺には、なんでその素晴らしい生き様があんな詩になるの?という疑問が解けへん
訳やけど、こういう素晴らしい考え方が詩を通じて、多くの人の心を打ったんやとするなら、まぁそうい
うことなんやろうなと納得せなしゃあない。

これほどに時代をきちんと分析してそこに足らないものを言葉にできる(しようとする、と言いたい所
やけど)人でも、どんな詩が売れるのか、なんてことは絶対に分からなかったらしく、「だからこそ、
自分がいい、と思ったものを信じてやる以外に何もないんです」と言っておられた言葉にもまた深く
感銘を受けた。

50年近く自分を信じて、自分の可能性こそが生きがいだと言い続けてている俺。
結構大股でも歩くんやけど、こんな俺はどうなるのでしょう?
阿久さんが生きてるうちに聞いてみたかった気がするのであります。


愚者は人を語る

2007-09-03 | Weblog
誰の言葉だったかは忘れたけど、
「偉人は思想を語り、凡人は事象を語り、愚人は人を語る」というのがある。

これってほんまその通りやと思うねぇ。
だって、ものすごく単純に考えたら、思想以外は自分の力でどうしようもないことばっかり
なのは子供にでも分かる。なのに思想以外のことでぐちゃぐちゃ言ってたって仕方ないに
決まってるもんね。なのに、俺には、やれあの人はどうだのこうだのと言ってる人の気が
全く分からない。

大体からして、人のことばっかり気にしてる人は例外なく、親切を押し付けるおせっかい
ばっかり(知ってる人の中では100%)。それと、誰かが亡くなったといえば、亡くなった
人のことを思い出しては涙にくれ、生きてる人よりも亡くなった人のことばかり考えてるよ
うな人が多い(同90%)。

こういう人はとにかく見境なく他人にそれを投げつけるので、それを蒙る人は、「絶対に
あんたなんかに分かりっこない自分のこと」であれこれ言われる訳で、それはもうとんで
もない迷惑や。「親切で言ってるんやから」とか「悪気はないのよ」みたいな解説をされて
も、他人に依存しておいてそんな所に勝手に免罪符を作るなよ!といいたくなる。

俺は基本的に自分の事以外に興味がないから、他人にああしたらとかこうしたら、なんて
ことを口出ししようなんて全く思わない。それが少なからず自分勝手ということに繋がる可
能性があるのかも知れないけど、「自分の力でどうにもならないこと」に一生懸命になって
る人よりは、自分のことだけ考えてるほうが間違いなく自分を高める可能性がある訳で、
どうにもならんことをウジャウジャいうてるより、よっぽどマシなような気がするのよね。

人に依存する自分勝手と、自分だけで解決しようとする自分勝手は違う。
極論やけど、俺は、後者の「自分はやりたいようにやる、人のことなんか知らん」というほ
うが「絶対に分からない他人の心に入ろうとする行為」や「全く進歩のない行為」がない分
だけ、はるかに健全やと思うねんなぁ。

自分が偉人だと言ってるわけじゃない。
最近、事情があって、投げつけられたおせっかいの球を避けきれず、ほんとにおせっかい
だけはもううんざりやとまいっている俺なのでありました。