僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

力の抜けた強い人(再会)

2008-12-22 | Weblog

先週の土曜日、17日のブログに書いたO君と再会した。
結局O君関係で声を掛けていた人達4人は全員仕事の都合がつかず、
俺達夫婦といつもバンドを一緒にしている友達夫婦(Oh)、それにO君という
5人での再会。

結論から先に言うと、ひさしぶりに見るOくんは10年前と何ひとつ変わって
いなくて、俺達は皆、なんとも嬉し泣きに近いような笑顔になった。
ボサボサ髪の外見、話し方、考え方。そして何より肩の力の抜け具合も。

もう数十年前になるが俺達夫婦とOh夫妻、そしてO君とY子の6人でバンド
をしていた時期があった。もちろんその時は皆夫婦じゃなかったんやけど、
その6人の中の4人が2組の夫婦となり、OくんとY子はそれぞれ別の人と
結婚した。そんな関係で、バンド内で結婚した夫婦はそれからも家庭ぐる
みの付き合いが続いたが、Oくん、Y子とは疎遠になっていた。

そんな中での再会やから、自然と、近況のことよりもその当時のバンド活
動のことに話の花が咲く。
当時そのバンドは結構精力的に活動していて、ライブハウスには毎週出て
たし、ラジオにも出て、その番組の月間優秀賞をもらい豪華クルーズでの
船上パーティーに呼んでもらってプロと競演(もちろん前座やけど)したこと
もあった。O君はベース担当だったが、その柳に風のような飄飄とした性格
が沈着冷静を求められるベーシストにはまさにぴったりだったように思う。

そんな昔のことを中心に話は進み、やがて、久しぶりにその頃作ったオリ
ジナル曲を皆で演奏してみようということになった。オリジナルメンバーの
Y子がいないのでピアノがないのと、家にベースがなかったのでO君には
代わりに何十年も触ったことがない、というギターを持ってもらうことになり、
その頃とは少し違う環境ではあるけれど。

演奏が始まるとO君は指は思い通りには動かないものの、その頃弾いて
いたギターフレーズをおよそ弾きこなしていて、皆それには驚いた。
でも何より驚いたのはOくんが、「そうそう、このハーモニー、このギター、
あの頃のままやなぁ。俺はこの曲が大好きやったんや」と言ってくれたこと。

俺は極端に過ぎたことにには拘らない人なので、昔作った曲はおおよそ覚
えてはいるものの、よっぽど自信のあった曲以外はそれに執着もなければ、
ましてや忘れられない思い出になる、というようなこともない。
もし昔の曲をやるのなら、成長の証として、その頃を凌駕するギターアレン
ジやコーラスアレンジを加えるなりしないと、その頃のまんま、というのには
とても我慢できない人である。
どちらかというと、Oくんの性格は俺に近い、と思っていたので、昔のままや
なぁ…という喜び方をしてくれたOくんの反応にはホントにビックリしてしまっ
た。
最後には「このCDあるのなら絶対に頂戴な、絶対やで!」とまで言ってくれ、
最近リメイクしたCDを喜んで持って帰ってくれた。どうやら着メロにまでする
気らしい。

まぁ良く考えると、「全く変わってない」ということはそういうことや、でええん
やけど、Oくんの場合は「変わってない=成長していない」と感じないのが不
思議。それは、彼の中で、変化だの不変だのということを全く意識していな
いという、(不変の)確立された自我があるからだと思う。

モンスターペアレンツ他、現代の学校には想像を絶する問題がある。現役
高校教師のあるOくんの学校も例にもれず様々な生徒、親がいるらしい。
そんな激務の中でも彼は何も昔と変わらず肩の力を抜いて生きていた。
逆にそうでなければ、いちいち論外の話に過敏に反応していたのでは体が
持たないだろう。
教師というこだわりの職業には、こだわりを持たない部分をいかにうまく持て
るか、ということが問われているような気がした。

Oくん、生徒に時代遅れだと言われようがなんだろうが、この先10年、20年、
ずっと「力の抜けた強い教師」を貫いてください。

また再会できる日を楽しみにしています。






再会(予定)

2008-12-17 | Weblog
先日、一緒に音楽をしている友達夫妻が遊びに来てた時のこと。
ふと、昔の友達のことが話題になった。
その友達は昔の俺達が組んでいたバンドのベースであり、今は数学の教師を
しているOくん。お互いの忙しさやその他事情で、10年以上前からほとんど会
うことがなくなり、彼の(いい意味での)めんどくさがりの性格から、年賀状の
やり取りも数年前になくなっていた。

そのOくんは今どうしてるんやろう?、と誰彼なしに口にしたのがきっかけで、
じゃあ、忘年会シーズンでもあるし、Oくんを中心に、その頃よく集まっていたの
にここ10年位顔を会わせられていない友達も呼んで、急やけど、もう暮れも押し
迫ってきているので、今週の土曜日(20日)に集まろうよ、という話がまとまった。

で、10年以上前に聞いていたOくんの携帯に電話してみた。番号はまだ存在し
ているようで、呼び出し音が鳴る。でも10年以上、声も聞いていない友達。
出ても違う人かも分からないし、その呼び出し音がやたら長く感じられ、その間、
なんか恋の告白のようなドキドキ感に襲われる。
5回程度呼び出し音が鳴った後、名前は名乗らず、「もしもし」という声が聞こえ
た。その瞬間は、昔のOくんの声じゃないような気がしたが、「Oさんでしょうか
?」と聞くと「そうです」と言う。俺は嬉しくなって、「ひさしぶり、俺々、Sです。」
と少し高揚した声で言った。と、その後のOくんの対応。
「うんうん、どうしたん?」とまるで昨日会って話したかのような口ぶりで、10年
以上会ってなかった懐かしさがまるで感じられない。でも俺はこの瞬間、「ああ、
Oくんやっぱりええわぁ、何年経ってもOくんの最大の魅力である肩の力の抜け
た振る舞いが全然変わらんやん」と痛く感動して嬉しくなってしまった。

そこから先はトントン拍子に話が進み、良く一緒にマージャンをしたK兄弟や、T
くん、バンドのキーボードを担当していたY子にも声を掛けて集まってもらおう、
ということになり、今連絡の途中ではあるけれど、そのほとんどが集まってくれ
そうな感じや。

人の成長とは何か、ということを考えた時、「変化」は絶対に必要な要素である。
でもそれと同じ位「不変」ということがどれだけ大切なことであるかを、Oくんは
電話のやりとりだけで教えてくれた。皆50歳を超えた友達ばかりが再会する今
週の土曜日、誰がどう変わり、成長、あるいは退化しているのかがとても楽しみ
である。

嫁にはこう言われた。
「外観が一番退化してるのはあんたに間違いないけどな。」 ナットクである。

至福の音

2008-12-09 | Weblog

先日、今までで最高の音や、と思ったオーディオを聴かせてもらった。
それは、会社関係の上司でオーディオマニアのH氏のオーディオルーム
にあるもの。
以前からH氏のオーディオ狂い(失礼やけどこの言い方が一番ハマる)
は有名で、特にその話題に触れなくても誰からともなく噂が聞こえてく
るほどで、H氏は、一度その音を聞かせて欲しいとお願いした俺の、あ
つかましい頼みを快く引き受けてくださって、それが実現したというわけ。

まぁ、その音というや、それはもうどんな表現を使っても当てはまらない
ほど素晴らしいもので、チープな言葉やけど「ぶっとんだ」というのが、
まだ一番近いかな、という感じ。
ウチから持っていったCDとH氏の趣味であるジャズやクラッシックを織り
交ぜて聴かせてもらったんやけど、持っていったCDのほうは、こんな音
が入ってたんや、とか、ここの音は実はこんなに音符が長かったんや、
とか、このドラマーこんなにうまかったんや、とか、家のオーディオでは
全く分からなかった細部の音が聞こえてきて、その再現力にとにかく驚
嘆。
次にH氏のオススメのジャズやクラッシックを聴かせてもらったんやけど、
これはもうオススメだけあってまさしく「ブッ飛び」。好きなジャンルだけ
あって、主にその音楽に合わせてイコライジングしてあることがかなりの
効果を発揮してるんやろうけど、ボーカルはそこに人の顔があるくらいの
リアルさやし、他の楽器も強弱の棲み分けはもちろん、左右・上下の定
位もビシっと決まっていて、まさしく音楽に酔いしれるとはことことか、と
思うくらいの素晴らしさやった。

システム的にいうと、まずスピーカーは左右各4つづつの計8個+サラウ
ンド時は後ろ2つが加わるようになっているのだが、驚くなかれ、そのス
ピーカーはそれぞれひとつづつのアンプで鳴らすようになっているのだ!
内ひとつだけは左右を共通で鳴らすようになっているため、すなわちこの
システムにはアンプが7個存在している!しかもそのアンプ全てはオー
ダーメイド。工学部出身のH氏はアンプはもちろん、オーディオルームか
らスピーカーキャビネットに至るまで全て自分で図面を書き、それを発注
もしくは、自作されているのだ。これだけでももう俺達の理解をはるかに
越えるマニアぶりなのだが、驚くことはまだある。なんとスピーカー毎に
音の伝達スピードが違うため、それぞれのスピーカーからの発音タイミン
グを少しづつずらしてあるらしいのだ!たとえば低音は速度が遅いので
少し早めに発音するように、等。だからその音の素晴らしさを体感するに
はヒアリングポイントがとても重要である。オーディオルームには椅子が
ひとつだけ置いてあるのだが、その椅子から少し外れただけで、
定位は
完全にずれ、ボーカル等が中央から聞こえなくなってしまう。最高の音を
体感するには、最高のポジションもまた外せない絶対条件になってくると
いうことで、このシステムはHがいなければ最良の状態で聴く事はもちろ
ん、音を鳴らすこともできないという、超オリジナルな逸品なのである。

ということで、そんな素晴らしい音を作り上げるには、やはりどれだけの
まねーがかかったか、というのが俺達一般市民の気になるところ。
H氏には下種な質問で申し訳ありませんが、という前置きをして、勇気を
だし、ウン千万単位ですか?と聞いてみた。
その答えは…H氏はニヤっと笑っただけで、お答えにはならなかったが、
どうもその限りではなさそうな感じがした。俺の予想ではおそらく“オク”
を超えてるような気がしたな。
まぁ、超一流会社の部長というポジションからして年収ウン千万やろし、
それはそういう人のみが楽しめる究極の音づくりなんやろうけど、趣味と
はいえ、音楽が大好きな俺としては、“いつかはクラウン”のようなあこ
がれを抱かせてくれた素晴らしい出来事でした。

H氏、本当にありがとうございました。たぶん呼ばれなくてもまた伺いま
すのでよろしくお願いします。


確率重視論

2008-12-04 | Weblog

先月末、仕事で車を運転中、事故にあってしまった。
相手のわき見による不注意でこちらに非はなかったんやけど、同乗者と
俺が軽い怪我をする、というまぁまぁ大きな事故やった。それでも怪我は
大したことないし、相手は誠意のある人できちんとしておられるので、な
んとか人身扱いにはせず物損事故で済ませてあげることができそうな感
じや。

まぁ、それはそれでええんやけど、今回俺が書きたいのは事故直後の
被害者心理について。
その時運転していたのは俺。自分でいうのもおこがましいが、自他共に
認める運転上手なので、基本的に俺が安心してまかせられる、と思う運
転者がいない限り、俺が運転することが多い。
その時は他に3名の同乗者がいたが、1名は外部スタッフで、あと2名は
俺がまかせられない、と判断した2人やった。
ところが、その事故で俺は右腕を強打したため腕が痛く、仕方なく残った
2人に運転を代わってくれ(事故代車)、と頼んだんやけど、その時の2人
の反応がこうや。

「いやいや、こんな事故にあった後怖くて車なんかよう運転しません」

俺は例によって、「ふーん」やったね。気持ちは分からんことないし、何も
責めるつもりもないけど、俺は極端な確率重視論者なので、今まで免許
をとって30年以上、こんな大きな事故に合ったことがなかった訳やから、
今日こんなことがあったら、もう2度と起こらんやろう、というふうに考える
から。
結局安心してまかせられない彼らにそんな不安な気持ちで運転させるぐ
らいなら、腕が痛くても俺が運転したほうがよっぽどマシや、と思ってまた
続けて代車を運転して帰ることになった訳やけど、俺はその確率重視論か
ら、恐怖心なんていうのは全くと言っていいほどなく、いつも通りに運転し
ていた。

同じ考え方では、阪神大震災の後もそう。あんな大地震、俺が生きてる間
にもう一度くる確率なんて、ほとんどないやろうと考えるので、逆に地震は
もうこない、という安心感を持ぅている。ただ、これは俺1人の問題やないの
で、最小限の家の防災対策はしてるけどね。

転ばぬ先の杖、というが、俺は1度転んだことがあっても、2度転ぶ確率の
低いところでは、杖をつこうという気になれない。もしそれで転んだら、それ
はその時。起こり得る確率が極端に低いことに用心したり怯えたりして、
無事な時間を楽しく過ごせない、というのでは、人生豊かでないと思うのだ
が、どんなもんなんでしょうねぇ。