僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

占い師という職業

2007-11-28 | Weblog

ある人に、ナントカ占いによると俺の来年はものすごくいい年になる、ということを言われた。
まぁ今、何を信じないかと言われたら、占いと守屋前防衛事務次官ほど信じられへんものは
ないわけやけど、いい年になる、と言われて悪い気はせえへんわな。
でも実はこの「悪い気がせえへん」というのが占いのミソというかカラクリ。つまり、悪い気が
せんとちょっとでも気分がよくなり、いいことが起こる確率はほんの少しでも上がることになり、
ほんの少しだけの“いいこと”でも、占いで言われた通りや!みたいな安直な喜びにつながり
…と「風が吹けば桶屋が儲かる」風に連鎖していくわけ。逆に悪いことを言われると嫌な気が
する、ということでも原理は同じや。

俺はこういう「心理操作」というものが大嫌いなので、操作されることもすることもしない。
でも、そんな俺が一度だけ自ら進んで占いをしてもらったことがある。それは、今の会社に転
職する時のこと。
さすがに40歳を越えての転職ということでやっぱり勇気がいったし、ものすごく悩んだ。で、
結局転職しようと決断したんやけど、さすがに人生の一大事やから、その後に、なんか転職
へ向けての“勢いづけ”みたいなもんが欲しかったのよね。そこで俺はふと思った。「とんでも
なく当たる」という噂の占い師の所へ行って、是非「あなたの転職は失敗します」なんてこと
を言ってもらい、それをものの見事に外してやろう、と。
我ながらなんといじけてるというか、こういう「まやかし」を徹底的にやっつけてやりたい、と
いう思いに駈られた時の俺のエネルギーはものすごいもんがあるので、きっと勢いがつくは
ずやし、逆に「成功します」といわれりゃあ、それは始めに言った通り悪い気はせえへん訳や
しそれはそれでええから。

で、俺の今。とりあえず転職は成功してるみたい。
ところが、その時占いの人がどう言ったのかを全く覚えてない。たぶん行ったはええけど、
端から何も聞いてなかったんやろね。

結局いじけてようがまっすぐだろうが、前進するエネルギーさえあればできないことなんか
何もない。そういう意味では俺の場合、占いと言われただけで、それを否定しようとするエネ
ルギーが湧いてくるのでちーとはその存在意義があるのかも知れない。

もし、こういうところまで考えて占い師という職業を選んだ人はとても利口。
でも自分では絶対に占いを信じない人やろけどね。

※来年はいい年になる、と言ってくれた人にはもちろん何の罪もなく、感謝しています。


全てを自分の糧に

2007-11-20 | Weblog

今朝ニュースを見てたら、自宅の3階で火事に合った5ヶ月の赤ちゃんが近所に人に
助けられ、奇跡的に無事だったと言っていた。
その助けた人のインタビューや助かった赤ちゃん、両親のコメントなどを目にすると、
本当に助かってよかったなぁと思う。

でもその中でちょっと気になったことがあった。それは助け出した方法。助けた人の
話を聞いていると一刻を争う中、両親に「とにかく赤ちゃんだけを投げろ、俺が受け
取るから」ということで7mの高さから投げられた赤ちゃんを見事にキャッチしたらしい。
確かに色々考えてる猶予なんかなかったやろうしそれが成功したから、それが最善
の方法やったんやろう。投げる方も受け取る方も勇気を振り絞った訳やし。

けど、その後の状況を聞いてると少し?ということを感じた。そのあと両親は近所の
人が引いた毛布や布団類の上に飛び降りて助かったらしい。とすると近所に人が
そこそこいたらしいことが分かる。とすると、いくら体力に自信があって受け取る自信
があったからって、たった1人で7mの高さから落ちてくる赤ちゃんを受け取ろうなん
て行動はちょっと無茶すぎやせんのかなぁ?何人かを集めて色々な協力態勢(布団
をひく、数人で受ける等)を整えてから救助に当たったほうがよかったんやないの?

結果はとにかく素晴らしい。猛火の中両親も赤ちゃんも無事やった訳やから。
赤ちゃんのおじいさんもインタビューに答えて言うたはった。「助けてくれた〇〇さん
には足を向けて寝れません」と。その通りやと思うし、助け出したこの方は賞賛に
値すると思う。

でもこれを自分の教訓にするためにはただ素晴らしいと思うだけでは意味がない。
その素晴らしさを認めつつも、もっといい方法はなかったのか?と考えることこそが
自分を高めることに繋がる。

この方には失礼やけど、俺は以下の考え方で自分の糧にさせてもらった。

火事だけに「ボー」とニュースを見てたらアカン。


悲しい光景

2007-11-07 | Weblog

先週のこと。
仕事の終わりが遅くなり9:30頃に梅田発の快速急行に乗った。
出発して約3分後に最初の停車駅十三に着くんやけど、そこで4~5名の小学(5~6年?)生が
乗り込んできた。その時は車内はいっぱいで空いてる席もなかったので、彼(女)らはその辺に
立ってたんやけど、次の淡路で向かい合わせ4人掛けの椅子に座っていた俺の前の席が2人
分空き、2人の男の子がそこに座った。

で、座るやいなや。向かって左側の子供がカバンからノートと教科書を引っ張り出し、せっせと
勉強を始めよった。見てると勉強慣れしてるのがよく分かる見事なペン捌き。揺れる電車の中
でもそれを全く苦にする様子もなく、ものすごいスピードでノートに字が埋まっていく。
もう1人の子はあまりそんな気がないのか、やたらその子の勉強を茶化してばかりいる。でも
その子も肝心の答えの部分になると、急に顔つきが変わり「それはこうじゃないの?」みたいな
ことを言っていた。

そうして電車は走り時間は夜の10時前。そのペン捌きの素晴らしい子は俺と同じ高槻で降り
たけど、もう1人はまだ乗ったままやった。いずれの2人もそこからまた家まで帰ってたら間違い
なく10時は回るやろう。飯を食べたのか風呂に入ったのか知らんけど、帰ってから遊ぶ時間な
んてまずないと思う。

まぁ、どっか"いい"中学へ入るために親が必死で勉強させてるんやろう。確かに実力主義が唱
えられる今も学歴がモノをいうことには変わりない世の中やから、それも子供の事を思う親心の
ひとつなのかも知れんけど、やっぱり俺にはどうにも理解できんねぇ。

初孫を見てて思う。赤ちゃんは「絶対に」泣き、おっぱいを欲しがり、お母さんに抱かれたがる。
それと同じように"子供"にも「絶対に」その時に欲するものがあると思う。それは冒険心であった
り遊びであったり、いたずらであったりすることは人間である以上「絶対に」変わりないはずや。

まだ小学生の子供にそんな時間まで勉強させるなんて、俺は赤ちゃんからにおっぱいを取り上
げて、栄養ドリンクを与えてるのと同じやと思う。

欲する時は欲する理由があり、理由がなければ本能がそうさせている。全て本能のままに生き
てたら、世の中で通用せんけど、本能を殺されたら人として通用せん。

願わくばあの小学生達が今度は電車内で大はしゃぎしている所を見たいと思うのであります。