「どうすることもできないこと」これは世の中にたくさんある。
そんなことに遭遇した時、私は「結論から逆算」して判断や行動をする。分かりやすく言うと「諦め」、少しよく言うと「覚悟」である。
昨今はこの「諦め」が悪い人が異様に多いと思う。理由は色々あるだろうがそれはやはりITの進化によるところが大きいだろう。
一昔前と比べると情報や商品の入手スピードは数百倍から数千倍、あくまでも「(無)線上」でコミュニケーションが取れる人は全世界にいる。
表現の自由の元、規制のないネット社会では、未成年であっても実名や写真が公表され、その家族までが対象になり、ありとあらゆる罵詈雑言が浴びせられる。
これ以上は無理だ、これだけはしてはいけない、言ってはいけないということの限度がないというか、垣根が異常に低いので、「もうやめとこ」という諦観が育たない。
今時、「晴耕雨読」なんてことを若い人に言っても意味すら通じないのではないかも知れないが、自然に従いその時にできることをするのが人間本来の生き方なのだと思う。
どうにもできないことがあるから、どうにかできることがある。
それを理解していると「ま、ええか」「それもよし」という諦観が育つ。諦観が育つと、逆に「絶対に諦めてはいけないこと」も見えてくる。それはいずれの場合も「自分のこと」であるはずである。どこまでも他人を責めたり、うわべだけのバーチャルの情報をいつまでも求め続けることは、他人本位であり「諦める」という自主性の対象ではない。結論、それはどうすることもできないことであり、そこから自分の考えをスタートさせないといけないことが分かるはずである。
「少年よ、大志を抱け」はいつまでも不変のメッセージだろうが、昨今の若者には「若者よ、諦観を抱け」を加えたメッセージを送る必要があるのではないだろうか。
そんなことに遭遇した時、私は「結論から逆算」して判断や行動をする。分かりやすく言うと「諦め」、少しよく言うと「覚悟」である。
昨今はこの「諦め」が悪い人が異様に多いと思う。理由は色々あるだろうがそれはやはりITの進化によるところが大きいだろう。
一昔前と比べると情報や商品の入手スピードは数百倍から数千倍、あくまでも「(無)線上」でコミュニケーションが取れる人は全世界にいる。
表現の自由の元、規制のないネット社会では、未成年であっても実名や写真が公表され、その家族までが対象になり、ありとあらゆる罵詈雑言が浴びせられる。
これ以上は無理だ、これだけはしてはいけない、言ってはいけないということの限度がないというか、垣根が異常に低いので、「もうやめとこ」という諦観が育たない。
今時、「晴耕雨読」なんてことを若い人に言っても意味すら通じないのではないかも知れないが、自然に従いその時にできることをするのが人間本来の生き方なのだと思う。
どうにもできないことがあるから、どうにかできることがある。
それを理解していると「ま、ええか」「それもよし」という諦観が育つ。諦観が育つと、逆に「絶対に諦めてはいけないこと」も見えてくる。それはいずれの場合も「自分のこと」であるはずである。どこまでも他人を責めたり、うわべだけのバーチャルの情報をいつまでも求め続けることは、他人本位であり「諦める」という自主性の対象ではない。結論、それはどうすることもできないことであり、そこから自分の考えをスタートさせないといけないことが分かるはずである。
「少年よ、大志を抱け」はいつまでも不変のメッセージだろうが、昨今の若者には「若者よ、諦観を抱け」を加えたメッセージを送る必要があるのではないだろうか。