僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

諦観を抱け

2015-04-27 | Weblog
「どうすることもできないこと」これは世の中にたくさんある。
そんなことに遭遇した時、私は「結論から逆算」して判断や行動をする。分かりやすく言うと「諦め」、少しよく言うと「覚悟」である。

昨今はこの「諦め」が悪い人が異様に多いと思う。理由は色々あるだろうがそれはやはりITの進化によるところが大きいだろう。

一昔前と比べると情報や商品の入手スピードは数百倍から数千倍、あくまでも「(無)線上」でコミュニケーションが取れる人は全世界にいる。
表現の自由の元、規制のないネット社会では、未成年であっても実名や写真が公表され、その家族までが対象になり、ありとあらゆる罵詈雑言が浴びせられる。
これ以上は無理だ、これだけはしてはいけない、言ってはいけないということの限度がないというか、垣根が異常に低いので、「もうやめとこ」という諦観が育たない。

今時、「晴耕雨読」なんてことを若い人に言っても意味すら通じないのではないかも知れないが、自然に従いその時にできることをするのが人間本来の生き方なのだと思う。
どうにもできないことがあるから、どうにかできることがある。
それを理解していると「ま、ええか」「それもよし」という諦観が育つ。諦観が育つと、逆に「絶対に諦めてはいけないこと」も見えてくる。それはいずれの場合も「自分のこと」であるはずである。どこまでも他人を責めたり、うわべだけのバーチャルの情報をいつまでも求め続けることは、他人本位であり「諦める」という自主性の対象ではない。結論、それはどうすることもできないことであり、そこから自分の考えをスタートさせないといけないことが分かるはずである。

「少年よ、大志を抱け」はいつまでも不変のメッセージだろうが、昨今の若者には「若者よ、諦観を抱け」を加えたメッセージを送る必要があるのではないだろうか。




自分のこと

2015-04-20 | Weblog
私は基本的に自分好きの人なので他人にはあまり興味がない。
なので、人の話は“自然”に取捨選択して聞いていて、興味のない話は右の耳から左の耳へ一直線である。私の音楽仲間はそれを「ちくわ」みたいな耳だとものの見事に言い表していたが。

それはそれで個人的に全く困ることはない(他人は困っているのかな?)のでいいのだが、先日、恐らくこの自分好きを原因とするトラブルがひとつ発生したので、ちょいとそれを考えてみたいと思う。

ギターのことである。あるメーカーのピックアップをつけていて、それにはトーンコントロールのつまみがついている。右に回せばブライト、左に回せばウォームになる。ところが、つまみを動かしても音質に変化がない。これは故障に違いない。それであればすぐ楽器屋さんに持っていかないといけない。今週末はでかける用事があるので、早く持っていかないと、2~3週後でないと修理ができなくなってしまう。

ということで、めんどくさいのに仕事が終ってから一度家に帰り、また梅田までギターを持っていったのだが。
いつも懇意にしてくださっている店員さん曰く。「何ともないっすよ」
私「うそぉ、そんなはずないよ」 店員「でもほら、ちゃんと効いてます」

確かにちゃんと調整できている。
なんでだろう、と、店員さんの調整を見ていたら、私が回していた方向と逆の方向につまみを回している。
原因は私の頭の中で、つまみの操作が「右に回すとウォーム、左に回すとブライト」というふうに入れ替わってしまっていたことだった。
当然のことながらうまく調整できない。ブライトの端からウォームの端まで回せば逆に回していることに気が付いたのだろうが、そのつまみは大きく動かすものではないので、結局自分の中では「故障」と決めつけてしまっていたのだ。

歳を取ると共に勘違いや物忘れがひどくなるのは仕方ないことだと思う。でもそれを仕方ないと気付いている自分がいるうちに対応を考えておかないと、仕方ないことさえ忘れてしまうようになってからでは、どうしようもない。

大切なギターが教えてくれている。
ブライトな自分とウォームな自分までは見失うなうなよ、と。

動物園の臭い

2015-04-10 | Weblog
最近は「嫌なこと回避」をする商品だとか、コンテンツとかが流行っている。そこではとにかく、快適性とか利便性とか効率であるとかが最優先される。

私の尊敬するアマチュアミュージシャン「天満の哲」さんがこのようなある種のブームに対して痛烈なメッセージソングを唄っている。
それは、汗の臭いやトイレの臭いを消すスプレーにより、今日の日本には臭いが失われつつある。ハムスターを買ったら、懐かしい臭いがした。それは動物園の臭いだ。本当に大切なものは何なのか、それを忘れてはいけない、と。

一昨日の夜、自宅の契約プロバイダーのサーバーがダウンし、パソコンが繋がらなくなった。
私は今すぐパソコンがなくなろうが携帯がなくなろうが、何も困らない。もちろん不便だが、本来直接繋がるべき人と人とが時間をかけて繋がればそれで済むことだから。

二人の娘と三人の孫がいる。予定通りなら、この4月に孫は四人になる。
ミルクの甘い匂いがあれば臭いウンチの臭いがある。可愛い笑顔を見せてくれたら夜中でも大声で鳴く。

全ての喜びは苦しさと表裏一体である。便利さは苦しさを助けてくれるように見えて、実はその喜びも奪っているのだ。

娘たちよ、孫たちよ、便利さを享受するなとは言わない。ただ、とてつもない便利さの裏にはとてつもない落とし穴がある。どうかこれだけは忘れずにいて欲しい。

もちろん、4月に生まれる孫を最初に連れていく場所は動物園である。