僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

四字熟語

2011-08-31 | Weblog
最近、心に響いた四字熟語が2つある。

ひとつは、「遊戯三昧(ゆげざんまい)」
楽しいことをするのではなく、することを楽しむ、という意味で、プロテニスプレーヤーの杉山愛さんの座右の銘でもある。
もうひとつは、「逆耳払心(ぎゃくじふっしん)」
耳の痛いことを聞き、思うようにならない状態でこそ人間は磨かれる。何をするにも思いのままと言う環境ならば、知らない間に毒される、という意味で、経営者をはじめ多くの方が座右の銘にされているようだ。

どちらもすぐ覚えることができるし、なるほどなぁと感心するのだが、いざ実践しようとすると、これがそう簡単ではない。

ということで私、今、四字熟語をすぐ実践に移せる四字熟語を探しておりまする。

柔の道

2011-08-30 | Weblog
「柔よく剛を制す」
私が子供の頃知った柔道は、この言葉が表すように、小さい人でも大きい人に勝てるとする格闘技だった。
でも「体重別」というカテゴリー出来た時点で、体格の違いはいかんともしがたいのだということが明らかになり、今やこの言葉が形骸化していることは誰もが知るところである。

今回の世界柔道では、特に重量級で、誰もメダルにかすりもしなかった。
なんでも、勝てない原因は、主に力(腕力)の差にあるらしく、外国勢の圧倒的な腕力の前に、日本人は命綱とも言える引き手を自分の得意とする形で取らせてもらえないので、1本を取るどころか、投げを打つこともできないそうな。もはや「さらなる剛が剛を制す」というのが近年の柔道なのである。

でも、こうなってしまったら日本人は絶対勝てないのだろうか?昔も腕力の強い外国人はたくさんいたのに、あの山下泰裕さんはただの一度も負けなかったではないか?
私はその理由をこう考える。きっと、山下さんは腕力もそれなりにあったのだろうが、彼の強さは柔の「道」から決して外れなかったことにあったのではないかと。

日本がモスクワオリンピックをボイコットして山下さんが出場できなかった時、あるインタビュアーが山下さんに「出ておられれば間違いなく金メダルでしたね」と聞いた。その時、彼は血相を変え、「勝負はやってみなければ分かりません。モスクワのチャンピオンはその時世界一強かった。金メダリストを侮辱するような失礼なことを言うものではありません」とそのインタビュアーを一喝したのである。
ただの一度も負けていないのに、決しておごることのない、謙虚で真摯なその姿勢に、私は深く感動した。さらに彼は、このような精神の美しさだけではなく、見た目の美しさも持ち合わせていた。試合での立ち姿が凛としていて、絶対に逃げて腰を引くことなく、正々堂々相手に向かっていくその姿勢を見ていると、それだけで負ける気がしなかったし、惚れ惚れしたものである。

「道」の終着点は「美学」であり、道と名のつく競技には勝敗の前にまずそれが求められる。そしてその道を極めたものこそが、肉体的にも強さを得ることができるのだろう。
現男子監督である篠原さんはあの「世紀の大誤審」で金メダルを逃した時も「弱いから負けた」としか言わなかったし、「あそこで勝ったと思った自分自身が甘かった」とまで言っている。
山下さん同様、篠原さんにも美学がある。

このような指導者の下でも勝てないのならそれはそれで仕方がない。
間違っても、ルール改正うんぬんで勝とうとするような、逃げ“道”や抜け“道”・近“道”に走ることだけはせず、柔の道を永遠に残して欲しい、そう思うのだ。

自分を信心

2011-08-25 | Weblog
人間にとって、思考停止ほど恐ろしいものはないと思う。

学生時代、恩ある人に頼まれて仕方なくある宗教活動家の話を聞きにいったことがあった。
そこでの話は、予想通り、無宗教の私にとっては理解不能なことばかり。でも活動家はとにかくこの宗教を信じればあなたは救われるという。

救ってもらいたいと頼んだ覚えもないし、科学的根拠も証拠もないことなど、矛盾点を全てついたが、結局返ってくる答えは「外から見ているあなたには分からない。中に入ってみないと」に終始され、最後に、じゃあ私がその宗教を信じてその団体に入り自分自身が救われなかった場合はあなたどう責任を取ってくれるのですか?と尋ねたら、「その場合はあなたの信心が足らないのです」ときた。

あまりのバカバカしさに、「なるほど、信心が基本ならば、私は誰よりも自分自身を信心しています。外から見ているあなたには分からないことなのだから、あなたに救ってもらう必要はないでしょう」と言ってやったらさすがに黙ってしまったが。

このようなケースで恐ろしいのは、相手はもがけばもがくほどはまってゆくアリ地獄のようなワナを持って待ち構えていることだ。疲れ果てて思考停止に陥ったところを、パクっといってしまおう、という算段なのである。そして、世の中には、このようなこと以外にも、人を思考停止に陥らせようとする理不尽や矛盾がありとあらゆるところにある。

でも、理不尽や矛盾は精神的には成り立つことがあっても、理論的には所詮間違いなので、とにかく思考を止めなければなんとかなるものだと思う。
だから、私はどんな時も自分を信じて考え続けたい。
自分自身に「信心が足らない」なんて言われたくないから。

※勧誘活動を受けた際の個人的感想であり、特定の宗教や宗教を信じている方を非難するものではありません。

プログラム

2011-08-19 | Weblog
台所の換気扇にタイマーをつけている。
いわゆるプログラムタイマーというヤツで、例えば、12~13時ON、18~19時ON、それ以外OFFというような使い方ができる。
ただこれ、名前は高級そうだが、ホームセンターで980円で売っているシロモノ。ゼンマイ仕掛けで、説明書には24時間の内に15分位の誤差があるのは承知してください、と書いてある。もちろん、それには何の異存もないのだが、ひとつ納得できないことがある。

それはタイマーが壊れる時期のこと。とにかく不思議なくらい正確に1年で壊れるのだ。最近も1年目でまた壊れて買い換え、これで3台目。前の2台もほぼ1年で壊れた。

24時間という短期では不正確なのに、1年という長期では正確、なんて、どうも複雑な気分だが、3台目にしてようやく、プログラムタイマーには、“壊れる時期もプログラムされている”、という意味があるんじゃないか、と思い始めた。

「さすが日本のモノづくり、売るためのプログラムまで組み込まれている」なんてのは考えすぎでしょうかねぇ。

プロの世界

2011-08-17 | Weblog
8月13日、高槻のライブハウスで、その店のホストバンドの前座としてライブをさせてもらった。
私たちの演奏についてはいつも通りで、そう変わったこともなかったのだが、この日は演奏以外でビックリしたことがひとつ。

なんと、ミス・インターナショナル日本代表の方(ブログ掲載の断りを得ていないので、お名前はもちろん、選ばれた年度、世界大会の結果等も伏せています)がお客さまとして来られていたのだ!
私は、この方がホストバンドメンバーのお嬢さんであり、今日のステージに来られることを事前に主催者側から聞いていたのだが、ミスインターナショナルと言われても名前も容姿も知らなかった。
しかしこの後、私は、世界に通用する美女に事前情報など必要ないと知ることになる。

彼女が来場したのは、ちょうど私たちが演奏していた最中だった。スポットライトが自分に当たり、客席はとても見難い状況。なのに、客席に歩いていくその人のケタ外れの美しさは否応なく私の目に映り、一目で「あ、この人だ」と分かったのである。
スタイル・顔立ちのケタが違うのはもちろんだが、まさしくこれこそがオーラだというべき異次元の存在感は、ステージ慣れしたホストバンドのリーダーも、「今日はミスインターナショナルが来られているのでキンチョーする」だの「ミスインターナショナルの方にこの歌を捧げます」だの、曲が終わる度に彼女の話題に触れ、完全オヤジ化するくらいで。
また、途中でダンスタイムがあったのだが、彼女は初めてのダンスでも覚えるのが無茶苦茶に早く、しかもそれがサマになっていた。きっと外見の美しさだけではなく、自分を輝かせることができるものは全て吸収しようという姿勢が常にあるんだろう。
現在も、美しさを武器にした仕事をしておられるらしいが、やっぱりどの道の人も「プロ」はのものすごいものである。

帰り際、彼女は私たちに向かって、「素晴らしかったです」と言ってくれた。
べんちゃらに決まってはいるが、こんな方と会話できるチャンスは二度とない。とりあえず裸足だった私は一瞬石田純一になった。

「褒めていただき光栄です。あなたの美しさほどではありませんが。」

ボーッと、そんな言葉を考えている間に彼女はとうにいなくなっていた。
石田純一さんもさすがプロなのね、と、妙にプロということに感心させられた一日でありました。

終戦記念日近づく

2011-08-10 | Weblog
子供の頃、たくさん、いたずらをした。
いつも怒られてた近所のおっちゃんの家の庭に爆竹を投げ込んで逃げた。
やさしいおっちゃんの家の庭にもたまに投げ込んだ。
画鋲を嫌いな生徒の椅子に貼ったり上履きに入れたりした。
好きな子の上履きにも入れた。

こうしてみるとほんとに子供のいたずらって可愛いものだと思う。ちょっと自分の存在をアピールしてみたいだけやもん。
しかも、これって全部、実行する時にはかなり勇気がいるから、成長過程で自分なりに考えてだんだんしなくなっていくという学習効果がきちんとあるし。

最近は大人がいたずらをする。体も頭も使わず、勇気も必要ない。メールを送信したりツイッターでつぶやいたりで終わり。

毎年、終戦記念日が近づく度に思う。戦争はいけないが、こんなくだらないことを考える人が生まれないような、命懸けの日々という環境があってもいいのではないか、と。

体はもちろん、ほとんど頭も使わず、勇気も必要ないブログを書いてごめんなさい。

時々論

2011-08-04 | Weblog
「知らなかったこととは言え、うちの牛を食べた方には大変申し訳なく思います。」
とは、福島県でセシウムが検出された牛を出荷した畜産業の方の話。

「目が悪いから腕を組んで歩いてもらった。女性がマンションに泊まっても時々なら同棲とは言えない。」
これは、時の農水副大臣の話。

後者の話の真偽は分からない。が、何の罪もない酪農家の方が自身の責任でもないことを侘びているのに、副大臣ともあろう人が、「国民の皆さまに誤解を与えるような行動をして申し訳ない」とどうして言えないのか。

私のおばあちゃんは全盲だったが、火鉢に火をくべ、餅を焼き、お湯を沸かしていた。ヤケドもしたが、自分でできるまで繰り返し、それができるようになった。

少し目が悪いくらいで、女性をマンションに泊めたら、時々でも大臣とは言えない。

強運

2011-08-01 | Weblog
小学生の頃、「子供なりの男らしさ」を計るための、度胸試しみたいなことをよくやっていた。
私は特に度胸があったわけではないのだが、運の強さだけは並外れていたように思う。

例えば川で。
より高い場所から飛び込めた奴が男らしい、なおかつ頭からそれをするとなおすごい、てなことで競い合った。
皆がそれぞれに飛び込む中、意を決して頭から飛び込んだ私は、川底の石で頭をしこたまぶつけ、一瞬脳震とうを起こして、あやうく溺れかけた。平たい石だったからそれで済んだが、ちょっと角のある石だったら今ここにはいない。この時、髪が3,000本ほど減ったんだ。

例えば山で。
自転車で、下り坂でどれだけでブレーキをかけずに下りられるかを競いあった。
どう考えてもこのスピードでは曲がりきれない、というカーブで思わずブレーキをかけたら、滑った後輪がカーブの外側にあった高さ15センチくらいの石に当たって転倒寸前だった自転車が起き上がり、何事もなかったのようにカーブを曲がっていった。この石がなかったら、そのカーブの先の池で河童になっていたはずだよ。

例えば海で。
遠泳が得意だった私は、はるか先に見える島に泳いでいくことにした。
しかし、泳げど泳げと全く島は近づいてこない。「ありゃぁ思ったより遠いなぁ、もう無理やし帰ろ」と思って海岸を振り返ったら海岸が見えないほど遠くまで来ていて、帰りのことを全く考えていなかった自分に気がついた。小さい頃から海辺で育った母の、「体の力を抜いて上向きになったら海の上でも寝れる」という教えがなかったら、今頃は海の中で寝ていたんだもん。

大人になってからも強運が続いている。
例えば蛍見物で。
街灯のない川のほとりで家族皆で蛍見物をしていて、私だけが橋の上から5mほど下の川に転落したことがあった。
しばらく気を失っていたみたいだが、こんなことがあってもただの打撲と、髪の毛を追加で10,000本減らし一晩入院しただけで済んだ。しかもその時、子供二人の手を引いて歩いていたのだが、落ちる数メートル手前で、何か不吉な予感がして手を離していて、子供たちには何もなかった。あの時子供の手をつないだままだったら・・・と考えるとゾッとする。おかげで、二人の子供は蛍見物がトラウマになってしまったが。

まだまだ数えればキリがないほど、この強運はずっと続いている。
評論家の金美齢さんがこう言っていた。
「人は、運を使い果たした、と良くいいますがそうではありません。運は使えば使うほど増えてくるものなのです。」

科学的根拠のない話は全く信じない私なのに、これには、「なーるほど!!」なんて妙に共感している。
ようするに単純バカは強運なのね。