僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

裏表

2010-04-30 | Weblog
よくあの人は裏表のない人だから信用できる、という話を聞く。
でもそれは単に「心の底で何も(悪事を)企てていない」という点のみにおいての話で、
誰だって他人には見せない裏の一面がある、というか、一面しか見せていない。
それは、人はまだまだ自分自身に気がついていなくて、気づいていない自分だから
見せようもないからである。

何故こんなことを書くかというと、なんか最近、「こんな自分がいたのか」というような
ことが多くなってきたからで。

思うにそれは環境の変化がとても大きいように思う。会社を変わり一日のほとんどを
過ごす環境が変わった。当然新しい人との出会いがあり、新しい刺激がある。幸い、
自分の考えを理解し共感してくれ認めてくれる人も多くいてくださる。
そのようなことが全て自分の心の深層部分を刺激し、また新しい自分が芽生えてくる。

「新しい自分」というのがどういうものなのか、書くには漠然としていて難しい。
ただ、生きててよかった(死のうを思ったことは一度もないが(笑))と思えるほど、自分
の根が広がって地球中の水を吸っている感じ、とでも言おうか。

なぜ毛髪に届かないのかは不明であるが。

子供の日近し

2010-04-28 | Weblog
二人の孫が超いたずらである。
いたずらざかりの2歳と1歳の男の子なので当たり前ではあるが、女の子二人の親だった
俺から見るとそのいたずらぶりは自分の子供の比ではない。
俺が仕事から帰ってからもかなりのいたずらぶりだが、娘の話だと、会社に行ってる間
はもっとすごいとのこと。特に下の孫がすごくて、ちょっと目を離したすきに洗面所の
洗面台の中に「風呂の」ように入り込み水遊びをしていたり、器用に椅子を伝ってテー
ブルの上に登りテーブルを駆け回ってはあげく転落したり。テーブルから落ちるとかな
り危険でもあるが本人は全く堪えることもなくそれでも平然と遊び続けているという。
なんかまるで三浦雄一郎氏の子供時代を見るようで、楽しみやら恐ろしいやら…。
上の孫は下ほどではないが「口」がすごい。俺が帰ってからももちろん、寝てる時以外
はずっとしゃべってる、といっても過言ではない。この間は熱を出して寝込んでたのに
口だけは元気だったという。おまけに寝言まで言っていたというのだから、こやつのし
ゃべりもまた半端やない。中途半端なさんまみたいになるような気がしてこれもまた楽
しみやら恐ろしいやら…

まぁそんな目に入れても痛くない孫たちであるが、この二人の関係が全く二人の娘とイ
コールなのにホントにびっくりしてしまう。長女はベラベラと一日しゃべってたし、次
女は黙っていつもいたずらをしていた。度合いは違うけど行動の種類は全く同じだし、
声の質まで上は長女に、下は次女に似ているときてるからもうDNAとはかくもものすごい
ものか、とあきれるほどである。

で、昨日娘にその話をした。「オマエに似てるんやからそれ相当の覚悟をしとけよ」と
笑って言うと、「うん、男の子やしなぁ、それどころとちゃうわなぁ」と笑いながら答
えていた。

今に笑っていられなくなるぞ、とは言えなかったが、是非アホほど苦労して、立派じゃ
なくても「子供のため」になると自分が信じたことを貫き通して欲しいものである。

連休、この孫たちが超いたずらができる楽しい休みでありますように。

良否と好嫌

2010-04-27 | Weblog
中国でまもなく万博が開かれる。
リハーサルでは列への割り込みはもちろん、警備員の話を聞かない、等「日本をはじめ、
自由主義国には」理解しがたい行動が数多く見られた。
これを見て「だから中国はバカだ」という人がいるがそうじゃないだろう。ホントにバカな
国に万博ができるわけがないし世界から金の流れ込む経済大国になれるわけがない。

このような言動・行動は国民の文化である。私たちの文化と違うからバカだというなら、
アフリカの原住民は皆バカになってしまうし、極論をいうなら動物達だってバカだ。
だからこういう絶対的な価値観については単に「好きか嫌いか」で済まされるべきこと
であって、良否を決定する必要などないしましてや権利などない。

郷に入れば郷に従え。とても嫌いな国だけど、それでも中国に万博を見に行きたいのな
ら割り込みくらいは平気でこなせる度胸をつけてからいかないと、門の前から一歩も中
に入れないなんてことにもなりかねない。

そんな目にあってから、中国人にバカな日本人だと呼ばれたらその人は正真正銘のバ
カである。

考えさせられる問題

2010-04-23 | Weblog
昨日のテレビで考えさせられる問題です。という切り出しで伝えられたニュース。
何でも自殺未遂をした40歳(位だったかな?)の息子さんを殺めてしまった母親に対する
裁判結果が出た、とか。基本的に自殺は保険適用外らしく、運良く?死に切れなかった
息子さんの治療費は月額500万にもなるとのこと。息子さんにはお嫁さんも小さい子供
さんもいたとのことで、教育費等、今後の生活を考えたらその方法しか残っていなかっ
たらしい。お嫁さんは弁護に立ち、お母さんがやっていなければ私がやっていました、
と話したらしく、その苦悩は非常によく理解できるところである。

裁判結果は執行猶予5年の実刑判決。あくまでもニュースで聞いたところでは、この母
親はご近所でも評判のとてもしっかりした人で、「あの人がそんなことをしたのは、考
えて考えて考え抜いた末のことでしょう」というご近所の方の話も流れていた。

しかしここで、考えさせられる問題とは何か。
「この母親はとてもしっかりした人で、やむを得ない環境に苦しんだ末とった行動は仕
方なかった。でも殺人はやっぱりいけない。難しい問題ですねぇ」ということなのか?

そんなことは誰でも考えるのである。
これは民放のニュースだが、NHKと違い、ニュースキャスターが独自の考え・視点を伝え
るのが民放のスタイルなら、もっと別の視点を伝えて欲しかった。

また誤解を恐れずに言うと、例えば、俺は自殺未遂をしなければいけないような精神状
態に陥った40歳になった息子さんとこの母親との関係をもっと掘り下げるべきじゃなかっ
たかと思う。
このお母さんは考えて考えて考え抜いて行動する人だったようだ。とすると想像するに
子供の育て方もそうだったんじゃないだろうか。考えて…はとても大切である。しかし、
その考えは、「非常に良くできたバランスの良い栄養剤」化してしまう可能性が大であ
る。その栄養剤では健全に育っているように見えるが、抵抗力がまるでつかない。
子供には「生きた餌」が必要なのだ。生きた餌には毒もある。たまにはおなかを壊すこ
ともあるだろう。吐き出すこともあるだろう。でもその餌で育った子供は少々のことで
は参らない。餌の味を知り、自分で餌を探す力もついてくる。

わずか数分のニュースである。このコメントの根拠が間違っている可能性は大である。
がしかし、民放のニュースキャスターが視聴者の代弁者なら意味がない。このように誰
も触れない、言いにくくても誰もが知らなかった、という新しい視点を提供してこそ、
その真価が問われるのだと思う。

プロレスのように大げさに伝えればいい、というもんじゃない。
ホントに考えさせれらる問題である。

(注)
この記事はあくまでも個人的な感想であり、亡くなられた方、また加害者の方を愚弄す
るものではありません。









当たり前を実践するには

2010-04-22 | Weblog
「当たり前」のことを当たり前にこなすことの難しさは誰しもが理解しているところで。
腹が減ったら飯を食うのは当たり前。食うのは簡単だが、食い扶持を稼ぐのは大変で
あるように。

「老い」ということでも同じことが言える。
例えば親がどんどん赤ちゃんに帰っていき、訳の分からないことを言いはじめるのは
「当たり前」のことだが、自分を育ててくれた親なのに、これからの成長が期待できる
訳ではないから自分自身の免罪符が見つけられない。だから当たり前を簡単に受け
入れられない。もちろん、何をしても足りないくらい感謝し、自分が親に対してとるべき
行動は理解してるが、どうしても当たり前にこなせない。

当たり前は100%であるから、1%でもその範疇から外れると当たり前失格である。
ではどうしたら、当たり前を当たり前に受け入れこなせるようになるのか。
俺はその“1%を一時借り”ればいいんじゃないかと思う。
「当たり前やけど今はどうしてもできへん。そのうちするからちょい待ってて」と。
でないと息がつまり、自分が苦しくなるので、尚更当たり前が当たり前でなくなってき
てしまう。

人は弱いのだ。強くなるためには“正常な判断ができる時に”「自分を許す」という判断
を下すことが大切なんじゃないだろうか。

さて、早速それだが、今日は早く退社することを許してもらおう。

五体満足に思う

2010-04-21 | Weblog
十数年ぶりに“ねんざ”してしまった。歩いている時足首を外向きにグニッとやる例の
ヤツである。痛いのなんの、しばらくうめいた後歩けるようにはなったが、翌日も痛く
て歩くのが辛かった。そうすると無意識に痛めた右足をかばうらしく、今度は古傷の
左足のひざが痛み出した。どっちも痛くて歩くのが辛くなると今度は気持ちまで滅入っ
てくる。気持ちが滅入ると仕事に差し支え…みたいに、風が吹けば桶やが儲かる的な負
の連鎖が起きるのである。

このことで思ったのは、やはり体のほんの一部分でも正常に動かなければ、全体に影響
を及ぼすということ。五体満足であることの幸せさを痛感している。

とはいえ、痛いものは痛い。でもそんなこと言ってられない。この自問自答を繰り返し
ているうちに物理的にも怪我は癒えてくるし、精神的にもなんとなくそれが当たり前み
たいになってくる。万全じゃなくても満足できるようになる。

このようなところで例に出して全くもって恐縮だが“五体不満足”の乙武さんもきっと
この境地に辿り着かれたんじゃないだろうか。たかだかねんざと比べるな、と怒られそ
うだが、気の持ちようはきっとそうだと思う。

人が前へ進む時は必ず自分自身を納得(=満足といっても過言ではない)させる必要があ
る。

“不満足という形で満足する”という心得の大切さを、改めて右足首と抜けた毛髪が教
えてくれた。

頑固万歳

2010-04-20 | Weblog
歳をとると頑固になって柔軟性がなくなる、と言われるけど俺はそうじゃないと思う。
「頑固になる」というのは「頑固になろうとする」ことで、色々なことを柔軟に考え
た結果、価値を図る自分のものさしとすべき目安を作りだすことやと思うから。
その結果、ものさしでは図りきれない物事が増えてきて、知らず知らずのうちにそれ
を取捨選択している。捨てられた部分が「頑固」と呼ばれるが、そんなことは知った
こっちゃない。それは、円周率のように、どうしても割り切れなかった自分の意思・
考え=アイデンティティの叫びなのであるから。

人にはその時にしか持てない「特権」がある。中年の頑固さも経験しなければ得るこ
とのできないいわば特権だ。中年の人が若い人の柔軟さを羨ましいと思うように、本
来頑固さも若者から羨ましがられるものでなければいけない。若い人に、まったくあ
なたは頑固で話にならない、なんて言われたら、くやしかったら頑固になってみろ、
と言い返してやればいいのである。

「柔軟さとは刀にヤキを入れている状態」「頑固さとは出来上がった刀」だろうか。
ほとばしる熱と冷ややかさ、相反しているがどちらも美しい。

春なのに

2010-04-19 | Weblog
我が阪神の金本アニキが更新中だった連続イニング出場世界記録がついに途切れてしま
った。まぁいつかは途切れるものだし、怪我で満足にプレーできないのでは、金本の性
格からして自ら出場を辞退したというのは、当然のことだろう。
でもその記録の裏にある、あまりのプロ根性を知っている(マスコミで)俺は、やはり
彼が自ら決断した、ということを聞いたとたん、涙してしまった。

彼は鉄人と呼ばれているが、その自己管理努力は人並みを外れたものだし、それ以上に
「かなりの大怪我を怪我と思わない」という精神力が尋常ではない。
例えば、肉離れというと普通は大怪我で、試合出場はおろか、練習すら満足にできない
状態になるものだが、彼は「肉離れなんか怪我じゃない」と平然と言ってのける。
また、「一切の言い訳をしない」のも彼のものすごさだ。成績が悪くても出場する以上
は、それを絶対怪我のせいにしたりしない。横綱の貴乃花(今の理事)が大怪我をしなが
らも場所を勤めて負けた時、怪我との関係を聞くリポーターに「弱いから負けた、それ
だけです」と言ったことに感動したが、金本も全く同じである。
後輩に暖かく、新井が広島から阪神に来るとき涙したことに対して、「演技がうまなっ
た」と言ってやれる男の優しさがある。審判に絶対文句を言わない。
こんな選手はもう二度と現れない。阪神を超え、プロ野球会はもちろん、プロスポーツ
の、そして人間の見本となるべき人が我がアニキ金本なのである。
そんな彼の決断だから涙してしまう。

話は変わるが、製作者の心得としてよく例に出される話がある。
目の見えない乞食(今この言葉使ったらあかんのかも)がお金を無心するために、春の桜
の下で、「私は目が見えません」という看板を立てていた。しかし、一向にお金をもら
えない。それをみたコピーライターがその看板にひとこと加えてあげたらみるみるお金
がもらえるようになった。彼は何と書いたのか?

答えは「春なのに」である。この一言でその看板を見た人の“春の素晴らしさ”がさら
に呼び起こされ、その反動でその素晴らしい景色を見ることのできない乞食の哀れさが
浮き彫りになり、人々は思わずお金をいれてしまうのである。

「(プロ野球シーズンの)春なのに、金本がいない」

眠いのを春のせいにする俺には涙する以外彼に感謝する言葉がない。

人生がプレゼント

2010-04-16 | Weblog
一昨日いつものごとく何気にテレビを見ていたら、亡くなられた著名人の特集?みたい
なことをやっていた。
その中でとても感動した話があったので今日はそれを書こうと思います。

ある著名な地震学者の先生がいた。その先生は地震の知識を広く伝えるために昼夜を問
わず働き続け、家族のための時間などほとんどとれず、奥さん曰く、ありがとう、ごめ
んなさい、など一度も聞いたことがない、という人だったらしい。

その先生が亡くなられる前、奥さんに最後に残した言葉が「many many many many many
many many many many many(数は定かではないが)Thanks」だったらしく、俺はそれを
聞いただけでも感動してたのに、次の奥さんの言葉を聞いてもう恐ろしいまでに感動し
てしまった。それは、

「私は主人から今の若い方のようなプレゼントは何ももらわなかったけれど彼の人生
そのものが最大のプレゼントです」という言葉。

なんと深い言葉なんだろう。人生は“上手く”やったり、器用に立ち回ったりするもん
じゃない。自分が最も輝く場所で心のままにわがままに、でも人に感謝して手を抜くこ
となく生きるものだ。そしてそれを理解してくれるパートナーは世の中に必ずいる」と
証明してくれたような気がする。

谷川俊太郎さんは「自分の人生が自分の墓石になってくれることを願っている」と言っ
たが、どちらも同義で、人生の達人達が放つ言葉のなんと密度の濃いことか。

日本人、とかく男性は特に女性への愛情を言葉にしないし態度にも出さない、と言われ
る。逆に欧米では言葉も態度も大げさなほど表現する。文化の違いだからどっちがいい
とかいう問題ではないが、「失われつつある日本人の素晴らしさ」を感じたこの「人生
がプレゼント」という生き様は、俺の人生のプレゼントにもなった。

たいしたことはしていないが、なんとか毎日頑張っていれば、どこからともなくプレゼ
ントをもらえるものでありまする。

「わざと」はキライ

2010-04-14 | Weblog
昨日の夜なにげについてるテレビを見てたら“世界一のプロポーズ”みたいなことを
やってた。野球グランドでプロポーズして金網越しにキスしたり、ディズニーランド
で、ミュージカル演出でプロポーズしたり、実際の例や、スタジオの女性ゲストが自
分の理想のプロポーズを演じさせてもらう、という趣向のこともしてたな。

俺は基本的に自分のこと以外興味がないので、人のプロポーズには全くして興味がな
いわけやけど、女性はこういうの好きな人が多いのかねぇ。スタジオも女性ばっかり
やったもんね。

まぁそのあたりはほんとにどうでもいいんやけど、どうもしっくりこんのは、やはり
「わざとらしさ」。結果はどうあれ演出や他人の力を借りてなんとか、ってことやろ?
娘の結婚式で、娘に「式場の策略に乗せられて、親への手紙なんて読んでお涙頂戴
みたいなくだらないことはしなくていい」と言った俺やけど、それと同じようなことやね。
(あくまでも自分の娘で自分が親だから。招待された結婚式でそんなことを考えたこと
はありません。読んでる方に俺を式に招待してくださった方がいればご理解を)

大切な思いを伝えるのに言葉は絶対欠かせない。でも、ほとんどの場合ホントに伝え
たいことは言葉だけじゃ足りない。それを伝えるためにどうするかを必死で考えるか
ら人は豊かになる。

その方策のひとつにこの番組のプロポーズがあるのは分かる部分もあるが、結局自分
の思いは「自分自身の言葉と行動」でしか絶対に伝えられない。

こんな色々なプロポーズを考える時間があるのなら、その時間分「大好きだ」と言い
続けるほうが俺はよっぽど素敵だと思うけどね。

2010-04-13 | Weblog
雨が好きである。
子供の頃、縁側で庭に降る雨を眺めているのが好きだった。
軒が出ているので雨に濡れず、窓ガラスや障子もないので、遮るものがない。
だから雨の匂い、草花の濡れる様子、虫たちや池の鯉達の動き、いつの間にか出来
てゆく小さな川の流れを手にとって感じることができた。気分が高じれば当然長靴を
履いて庭にでることになんの障害もない。

今も雨の風景はとても好きだが、長靴を履いて濡れたい放題濡れる、というわけには
いかないので、通勤時の大雨はあまり歓迎しないが。

そんな折昨日大雨に会い、傘を差して帰っていたらふと友だちが雨の音が好きだと言
っていたことを思い出した。傘を叩くボツボツやバチバチや色んな音がいいらしい。
それを意識してみると確かににそうだった。通勤路30分位の間の雨音を全部集めたら
きっといい音楽ができるだろうな、というくらい音符があり強弱がありリズムがある。

雨の景色も同じだ。
光る路面、車のライト、かすむネオン、足早に歩く人たちの足元が複雑に交差する。
そして何よりあざやかなのは傘の花だ。様々な模様に大きさ、さし方。左手右手、持
つ高さ、何もかもが人によって違い、その人たちの生活が見えてくるような気がする。

景色も音も同じ。雨から感じるものだけでも人は豊かで幸せな気持ちになれる。
同じ雨の下、なつかしいこの友だちは俺と同じことを考えていたのだろうか。

子供らしさ大人らしさ

2010-04-12 | Weblog
朝のテレビで、番組の企画の大縄跳びに参加する小学生にインタビューしていた。
で、意気込みを尋ねられた小学生だが、「自分の大切な時間を削って指導してくださる
先生のために頑張りたい」てなことを言ってたわ。
正直俺は「可愛くない」と思ったね。もちろんこの子になんの罪もないことは説明する
までもないけど、小学生がこんなもの分かりのいいことを言うなんてどうかしてる。
小学生は大人の気持ちなんてまだまだ分からんでええねん。あの先生怖いから嫌い、
とか、やさしいから好き、とかそんな真っ直ぐで正直な心根が子供達をイキイキと元気
にしてくれる。ほんで、先生の親の思いは、大人になった時に知ったらええ。あの時大
人たちはこんなことを思って自分達に厳しく接してきたんや、と知るそのギャップが人
に感動を与え、人を豊かに育てるんやから。

だから、今回のことでとにかくひどい、と思ったのは、
子供達に「俺はお前達のために自分の時間も削って頑張ってるんだぞ、だからお前達
も頑張れ」と言った大人がいた、しかもそれが教職にある先生だった、ということや。
そやないと子供がそんなこと言う訳ないもんね。

何やと思ってるんやろね。子供達をそして自分を。
先生の苦労話なんて子供達は聞きたくないって。説明は一見理解に一番近いように
思うけど、マラソンでいうならゴール地点に車で連れて行ったようなもんで、何の力にも
ならない。

へドを吐いて倒れてしまった子供たちに影で涙しながら、鬼となり蛇となりゴールまで
辿り着かせてやる。そこで達成感を味わうものもいれば、ただ怒りだけを覚えるものも
あるやろう。でもそれが人間の個性であり全てが思い通りになるわけではない。
そういう覚悟をもった人が教師と呼ばれ、大人と呼ばれる資格があるんやと思う。

テレビ局ももう少し考えて編集したほうがええと思うなぁ。
まぁ、中におると以外とそんなこと見えないもんで、自分もよう似たことしてるんやと
は思う。

子供以下やとよく言われる自分、自戒の念を忘れんようにせんとね。


杖の力

2010-04-08 | Weblog
「たちあがれ日本」新党なるものができたそうな。
何でも平均年齢約70歳。いくら元気な老人が多いといっても、ちょい歳取り過ぎてない?
という懸念は誰もが抱くと思う。
で、新党がどうだの、にはあまり興味はないが、ネーミングがいいなぁ、と思っていたら
名づけは石原都知事だと聞いて、なるほどと納得してしまった。
分かりやすくてインパクトがあり趣旨も良く分かる。さすがだと思っていたのだが、街の
反応は思ったより冷ややかやったね。
「あの歳では立ち上がれんでしょ」「えっ立ち枯れ?」等から、一番スルドイな、と思っ
たのは、「たちあがろう」ならまだ分かるが、「たちあがれ」なんて政治家のくせに他人
任せに聞こえる、といった意見。
きっとこういうことも凌駕するであろうと、とことん考え抜かれたネーミングなんやろけ
ど、いざ世の中に出てみると作り手の意図とは反した方向に流れてしまう。ホントに製作
とはかように難しいものか、とつくづく感じさせられる。

ネーミングに加えてやはりこの人たちの歳の問題も否応なしについてくる。
歳をとったからといって全てがいけないわけではないのはもちろんである。経験からくる
力量はものすごいものがあるに決まっている。でも歳に勝てない部分があるのも事実であ
る。それは例えば全国民との相互理解。日本の70歳だけを相手にしているのなら、理解で
きるだろうが、20歳そこそこのようやく選挙権を得た人たちの気持ちが果たしてこの人た
ちに分かるのかは甚だ疑問であるし、それに加えて年齢など問題ではない、という若々し
い気持ちを持ってるのだとしたら、その考えかたからして問題だ(若い人の理解という点
のみにおいて)。

俺が政治プロデューサーなら、
「私達は歳をとってるが豊富な経験と若者には負けない気力で少しでも日本国民の役に
立つために12時間位は寝てから働きます。若者方の気持ちは理解しかねるところもあり
ますが、それは歳に免じて許していただきたい」と杖を振り上げてアピールさせるけどね。


戦争と平和

2010-04-07 | Weblog
戦争をなくそう、と声高に叫ばれている。
当然この努力は絶対に必要であるが、戦争は絶対なくならないし、なくなってはいけない。
それは何故か?
「争うのが人間」だからである。自己主張をルールに則った競争の中で利益に変えてゆく
のが社会経済の基本だと思うが、この中でルールを守らないもの、というのは絶対にいな
くならない。ルールを破ったものには罰則が科せられるが、その範疇で収まらないことが
最終的に戦争になるのだから。
いわば戦争は“健全な精神(ルール破りも必要悪としてある意味健全)の人間”が息づく限
りないとおかしいし、逆説的に言えば、戦争をしない人間はその前に滅びていると言える。

平和とは殺戮に至るまでの小さな戦争があちこちである状態のことではないのか。
人に向上心がある限り競争は必ずある。だから小さな戦争である競争は絶対なくしてはい
けない。

運動会で順位をつけない教育など、殺戮戦争よりももっとひどい行為だということにこの
国はなぜ気づかないのだろうか。

サクラ咲く

2010-04-06 | Weblog
感心したのである。わが娘に。
娘自慢は嫌だし、そのつもりもないが、ひとりの人間として感心したので、今日の記事に
したいと思う。
昨晩、家に帰るとものすごい量のおにぎりや卵焼き等が台所に並んでいた。今日から友
達たちと岬公園に一泊旅行に行くと聞いていたので、弁当を作っているのはすぐに分か
ったが、あまりにも量が多い。俺が、「皆の分作ったのか?」と聞くと、娘は「うん、
いつも皆が家に来てくれるから」という。この瞬間に俺はなんとこの子は謙虚なんだろ
う、と感心してしまったのである。
確かに人が集まってくれることはとてもありがたく、それが大切な友達なら尚更である
ことは俺も全く同感なのでよくわかる。
しかし、友達関係は基本的に対等―役割はあるが―であるので、特に娘が作る必然性が
あるわけではない。客観的事実だけをみれば独身の友だちとかもいるわけで時間だけを
みればその子たちのほうが弁当を作る余裕がありそうなものだ。ただそのあたりは友達
関係の中で料理が得意な人、等の役割分担もあるだろうから、そないに単純なものでは
ないが。

いずれにしても娘はいつも自分を一歩引いた所から客観視して友だちに感謝の念を忘れ
ず、形に出している。謙虚さが娘の一番いい所だとは思っていたが、分かりやすい形で
伝わってくると、それが特別嬉しいものに感じてしまう。

本当に子供は親を育ててくれる。そんな親がどんどん子供化しているのを娘は果たして
知っているのだろうか?
娘に「何してるの!ちゃんとしなさい!」と怒られる日もそう遠くないかも知れない。