僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

ジョーク

2012-04-25 | Weblog
さっき犬に吼えられた。1km先でまた犬に吼えられた。
ジョークの世界ではこれを「長い犬だな」と表現する。
つまりデジタルをアナログに変換するのだ。

昼前一度睡魔に襲われた。昼ごはんを食べたらまた睡魔に襲われる。
1時間寝た気になれればいいのに。

礼儀をわきまえた泥棒

2012-04-13 | Weblog
とあるセミナーに出席した。

講演者の話は、「くだらないにもほどがある」というような内容だった。
おっしゃることは全て真実だったろう。嘘があるとはとても思えなかった。
けれど、私には何も伝わらず、こんな人は大嫌いだし絶対付き合いたくない人だとだけ思った。

絶対にやってはいけないことがある。
例えば泥棒がそうだ。人のモノを勝手に盗んではいけない。
しかし、ルパン3世みたいな泥棒なら人はそれを許してしまう。それは、ルパンが誰にでもある「邪心・下心」を盗んでくれるからである。人はそこに痛快感や反面的な正義を感じるのだ。

誰も反論できない事実を盾に、ごく普通に生きている一般市民に突進してくる人は強盗と同じで、非道で礼儀知らずな人である。そんな人の話を聞くくらいなら、ある種の礼儀をわきまえた泥棒に話に聞いたほうが100万倍マシだと思った。

デジタルが生き血を吸う

2012-04-12 | Weblog
「ホンモノのクラゲよりきれいだった」

先進のエレクトロニクス技術を使って作られた人工クラゲがスクリーンに映し出される。
スクリーンに近づくとクラゲはそれを感知し、人に近づいてくる。

文頭に紹介したのは、それを体験した小学生高学年くらいの少女が発した言葉である。

小学生の感想としてはごく当たり前だろう。価値観に個人差があるとしても本物のクラゲを「美しい」と思う人は少ないようが気がするし、確かにスクリーンのクラゲはきれいだったから。

恥ずかしながら私こと、「美しさ」ということをかろうじて理解できるようになってきたのはつい最近である。クラゲで言えば、見た目の気味悪さ、刺された時の痛さ、生態、そのようなもの全てがクラゲの美しさだと思うが、このようなことを、彼女と同じ小学生の頃の私が考えられたかと言うと、答えはNOである。
長年の経験から、地球上の全ての人・事象が表裏一体であり、美しさを表と仮定するなら、汚れた裏面を知ることなく美しさが分かるはずがない、ということをようやく知ったのだから。

それでも、だ。
所詮はイリュージョンである。「恐かった」「ホンモノと全然違う」「触れなかった」みたいな言葉なら分かるが、「ホンモノよりキレイ」という言葉には、全くもってメカなくせに、象徴的に人の生き血を吸うデジタル技術の限りない恐ろしさを感じてしまう。

孫たちが大人になる頃、このような技術はもっともっと発展していることだろう。

「生きてるじいじより生きてるみたい」
どうぞ、孫たちにこんなことを言わせるような遺影技術などできていませんように。

負けてこそ

2012-04-10 | Weblog
「人生の金メダルへ40キロ地点」

最近、最もいいコピーだなぁ、と思ったのが、高橋直子さんのこの言葉。

彼女のマラソン選手としてのこれまでの歩みと、女性としての未来への歩みが、ものの見事に分かりやすく表現されている。

言葉の造りだけを見れば、別に大したレトリックがあるわけでも、発見があるわけでもないが、なんたってこれは、彼女にしか当てはまらない言葉だからこそ強い。彼女の今の心境を表すのに、どんな一流ライターがさまざまな言葉を並べても、彼女が発したこの言葉を上回るものはきっと書けない。

ラグビーではまず負けることを教える。つまり、習う方は、タックルで倒されることから覚える。それは、ラグビーが、ONE FOR ALL ALL FOR ONEに表されるように、自分自身を犠牲にしてボールを守り、チームとして勝つことが目的のスポーツであるからだ。
言葉もまた同じ。生きざまには勝てないが、言葉の対象が輝くことが言葉の勝利である。

まず負けがあってこそ勝ちがある。「勝ち誇る」などというのは、最も軽蔑されるべき行為だろう。

54歳。負けてばかりの人生だが、その生きざまを活かした言葉を書いてこそ、自分がある。
もっともっと精進しなければ。

最近の自分は

2012-04-04 | Weblog
最近の子供はまったく…なんてことをよく思う。と同時に、最近の親はまったく…というのもよく思う。

なんでも、娘を騙した(であろう)占い師に、「許せない」なんてことを言ってる親がいるようだが私は筋が違うと思う。

親なら、誰が聞いても馬鹿じゃないのかと思うような話にやすやすと引っかかる娘を責め、またそのような娘を育てた自分を責めるべきだろう。

私はもちろん立派な親でもないし、間違いだらけの親である。しかし、私は少なくとも子供にいっぱい大切なものを教えてもらったことで、なんとか世間で生きている。娘に学び、親としての自分を戒めることにこそ、親子の愛情と成長がある、ということには確信が持てる。

てなことを偉そうに言いつつも、最近の自分はまったく…ということが一番多いのが困ったもんだけれど。