感動あり、失望あり、怒りあり、涙あり。なんだかんだをいっぱい振りまいて
終わった北京オリンピック。
俺は基本的に「オリンピックは参加することに意義がある」という理念に賛成で、
目標にするのはいいとしても、金メダル(勝利)至上主義にはどうも賛同しかね
ていたので、メダル数に特に興味はなく、その周辺のことに興味があった。
なぜ、金メダル至上主義が嫌いかというと、それは「日本人が生まれ育った環
境や国民性」からして金メダルを取ってこい、必ず勝て、などというのは酷なス
ポーツが多すぎるから。
たとえば、サッカー。
以前にも書いたことがあったけど、ほんとに強い国の選手は技術・体力・テクニ
ックはもちろんのこと、「何をしてでも勝ってやろう」という勝負に対する貪欲さが
まるで違う。それは、時間稼ぎのために怪我をしたふりするジェスチャーであった
り、審判の目を盗んでの反則だったり。
彼ら―主にヨーロッパ・南米―は、いいプレーをすれば英雄だが、ちょっとでも
下手なプレーをするとそれこそ家族共々国賊扱いされるような厳しい条件化で
いつもプレーしている。もちろん、金銭的にも恵まれていない。
だから当然名誉のため、お金のため、そして自分のために、決定力はもちろん、
前述した全ての能力が鍛えられてくるわけや。
そんな相手に対して、小さな頃から恵まれた環境で育ち、順位のつかない運動
会なんかをさせられ、プロになってからも、大きなミスをしても「ドンマイ」なんかで
済まされるようなリーグでプレーし、“フェアプレーだけは一流”の選手達が勝て
るわけないやんか。
これは何も選手達が悪いんじゃなく、この選手達に「勝て」と指令を出すほうが
間違っているわけや。どうしても勝てるチームを作りたいのなら、他のサッカー
先進国と同じような環境で育ててから言わんとあかんけど、日本人はそんな
“汚いプレー”や“国賊扱い”を進んでやれるような国民やないがな。
だから結果、サッカーなんかは世界で勝てるスポーツやない、ということやん。
と言うことで、俺はやはりオリンピックは参加することに意義がある、と思うので
その視点から残念だったことをひとつ。
それは、金メダルを期待されていた女子マラソンの野口みずき選手が足の故障
で出場できなくなり、代わりの選手も出場できなかったこと。
野口さんの場合、前回の金メダリストでもあるし、万全の調整をしてきた結果の
ことやからこれはやむを得ないことやろう。
でも俺がこれはアカンで、と思ったのは補欠選手のことや。マスコミ記事を信じる
ならば、この補欠選手は、今特に北京に備えた練習をしていないので、監督が、
仮に出場要請があっても断る、といったそうな。
これってどうなのよ。万が一に備えていつでも代わりに出場できるようにコンディシ
ョンを整えとくのが補欠、ちゅうもんちゃんのん?そらもう数日前のドタキャンやった
からもうまさか出番はないやろう、と思ったのかも知れんけど、最後の最後、万が
一に備えとくのが“一流の補欠”ちゅうもんちゃんかいな。
俺はこういう「自分の立場をわきまえない行動」ちゅうのがどうにも許せんのよね。
“何の準備もせずに参加する”ことには当然意義はないから、結果は仕方なかった
にしても、どうしてみすみす参加できるチャンスを棒に振ったのか、と。
評論家の金美齢さんがこのテーマではないが、俺と全く同意見をおっしゃっていた。
最近の日本人は「分をわきまえなさすぎる」と。
今回のことも、自分に与えられたチャンス・役目をしっかりと理解していればこんな
不始末はなかったはずや。
参加することに意義があるのは何もオリンピックに限ったことではない。
与えられたチャンス・役目をきっちりものにする姿勢を常々持ち続けることこそが、
「分相応」であり、自分を最大限に生かすことではないのか。
ということで、俺は、オリンピックに“参加”して以上のことを学びました。