僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

1年180日

2013-02-21 | Weblog
今日は2月21日。正月はもうはるか昔、もうすぐ3月の声が聞こえる。

昨年から、ウチのバンドの中間決算というか、誰かのライブに参加させてもらうとか、ブッキングではなく、一度自分たちが主催する大きなイベントをやろうと計画していた。
今年に入り、会場にも当たりをつけバンドメンバーやゲストバンドの方たちの予定も確認して、今年の8月位にやろう、ということに決定し、いよいよ準備を始めようとしていたのだが。

それなりのライブをするにはそれなりの曲数が必要だし、やる以上は今までと同じ曲ばかりをやるわけにいかない。とすると、新しい曲を、新しいスタイルで増やす必要がある。今年に入ってから新曲を練習し始めたのだが、これがどうにもうまくいかない。毎週練習しても、1曲を仕上げるのに1ヶ月かかる始末。
しかしなんせもう3月だ。8月といったらあと5ヶ月しかない。あっという間に3ヶ月が経ったのだから、5ヶ月だってあっという間である。とても8月には間に合わない。
ということで、結局ライブは8月以降で全員の都合がつく11月に延期することになってしまったのである。

今回のことで、年を取るごとになんでこんなに時間が経つのが早くなるのかがとてもよく分かった。ようするに時間は変わらないが、自分たちがひとつの物事にかける時間が若い時と比べ格段に増えているということなのだ。つまり自分のやりたい物事が基準になるから、1日にひとつ出来ていたことが、2日でひとつしかできないと、理論計算上1日の時間が倍になる。ということは1年365日が、約180日になるということなのである。

なるほど、1年が180日しかなければ、それは時間が経つのが早くて当たり前。しかもこれからは加速度がついて、もっともっと1年が短くなってくる。

でも、ローンは全く短くならないし、仕事時間も短くならない。
短くなるのはやりたいことをやる時間だけ。

うーん、誰かこの矛盾を解決してくれないか。

かまへん、かまへん。

2013-02-12 | Weblog
ネットで面白い記事を見つけた。
大阪人なら知らない人はいないテレビ番組、探偵ナイトスクープの依頼内容についてである。

―以下記事―
「双子の男の子を保育園に入園させるため、その第一歩として書類を提出しなければならない。書類には自宅から園まで歩いて何分かかるか記入する必要がある。大人の足では7~8分だが、ハイハイしか出来ない子どもが何分かかるか測ってみたい」

550メートルの距離をハイハイで行くことに。道路に厚手のビニールシートを敷き、手袋に膝当てと完全防備の双子はスタート。両親は傘をさしたり体調を気遣う。向こうから手をつないでやってきた母子が、物珍しげにその様子を見守る。双子がぐずったり前に進まないと、近所に住んでいるが親しくしているわけではない母子やまったく関係ない通りすがりの乳幼児が“助っ人”としてバトンを受け、前に進む。探偵さん(麒麟の田村裕)が「大人の事情があってね」と弁明したり、「ありがとうね」と感謝する。燃え尽きたように熟睡モードに入る赤ちゃんがいる一方で、女の子が逞しく前に進む。買い物客で賑わうスーパーの店内などを通り、3時間12分で保育園のゴールした。

■東京の視聴者からは批判の声も
「ハイハイで保育園」には東京の視聴者から「熱い日中にあまりにも無謀。虐待ではないか」との意見・苦情が寄せられたという。ところが、関西では「良かったね」。番組を通じて同世代の母子ネットワークも出来た。同じ番組でも、関東と関西ではこうも反応が違うものかと思う。
―以上―

まぁ、文化の違いやし、良い悪いの問題でもないけど、どうして東京の人というのはこんなにも四角四面なのかね。きっとまずは教科書通りに物事を考えて判断するんやろね。
大阪人はそんな教育より、「なんとしても笑ったる」「なんか面白そうや」というのがまず判断の初めの一歩やから、そら東京の人の考え方が理解できんで当たり前なんかも知れんけど、なんやこうまで面白くない判断をしはるのを見ていると、ここのところの体罰問題も東京の人ばっかりが騒ぎ立ててるんと違うやろか、と思ってしまうよね。ちょっと言い過ぎやけど。

「かまへん、かまへん」

今の日本に必要なのは、小さなことに惑わされず、余裕を持って物事に当たる、この大阪の小市民感覚やないのかね。これもちょっと言い過ぎやけど。

体罰を考える

2013-02-05 | Weblog
体罰が大問題である。
早速だが、何故問題か、ということについての色々な意見について考えてみたいと思う。

①理不尽だから
 体罰を加えることで競技者のスキルが上がることは理論上あり得ない。

確かにそうだとは思う。でも物事は全部理屈通りなんかできるわけがない。
そもそも、社会は理不尽で出来ているといっても過言ではないのだ。それに耐えるだけの精神力を身に付けるためなら理不尽な体罰は、とてもありがたい教育ではないのだろうか?

②とにかく暴力だから
 愛情がある、とかナントカの判断はとても難しいし、なにをどうしたところで暴力に等しいわけで、暴力で人をどうにかしようという考え方はテロと同じ。

まぁ、これも確かにそうだと思う。ただ「暴力」と「望力」の違いは間違いなくあるだろう。私は娘に何度も手を上げたことがある。言っても分からなければ体で分からせる。してはいけないことは絶対にしてはいけないと教えるためにはそれも止む無しと思った。結果娘は今立派に母親としてやっているし、自分の子供をしっかりと躾けている。子供の将来を思い、正しい道を歩んでほしいと望む、という愛情があれば、それは決して「暴」力ではないと思う。


③信頼関係がないから
 信頼関係があれば、体罰も教育の一環となり得るがそれがないとただの暴力である。

同じく、これもごもっともである。がしかし、②の話でもあるように、そもそも体罰を加えて(受けて)いる時に信頼関係があるかないかなんて分からりゃしないのである。それが愛情であったか、体罰であったかは、何年、もしくは何十年も経ってから分かるもので、その時初めて信頼関係ができるのだ。体罰をはじめ、ぶつかりあいなしに信頼など生まれるわけがない。

とまぁ、私なりの意見を書いてみたが、こうしてみるとどうも私は体罰容認派みたいだが、もちろん、これが原因で自殺に追い込まれた方がいる訳で、なんでもかんでも許されるとは思わない。

しかし、「世の中は理屈通り正しく物事が進む場所ではない」ということは万人に共通なことだと思う。もちろん、世の中に出てからそれを学んでも遅くはないのだろうが、若いうちに理不尽に耐える力をつけておくのと、そうでないのとでは、耐性や対応力に大きな差がでる。

何も体罰でなくてもいい。でも理不尽に耐える力をつける訓練は絶対必要だと思うのだが、どうだろう。