僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

ストラディ超え

2011-06-23 | Weblog
ギターは完成してから出荷されるまでの間、オーディオルームのような場所で約1週間ほど音楽を聞かされてから出荷されるそうな(全てのメーカーがそうかどうかは不明)。目的は、新しい木に「音楽向き」の振動を与えて、鳴りをよくするためとのこと。

昨日のネット記事に、バイオリンの名器ストラディバリウスが12.7億円で落札、とあった。
何故、とても古くて、何人もの人が弾いてきたいわゆる「中古楽器」が、ここまでの高値になるのか。
それは、当然音が素晴らしいからなのだが、何故素晴らしい音がするかというと、冒頭に紹介した“鳴りをよくするための措置”が“超一流の演奏家の演奏”であるため、ということらしい。
ようするに、超一流の演奏家から生み出される音は、超一流であり、木も超一流の振動を与えられる。それが脈々と繰り返される中で、木も超一流の振動をするようになり、輪をかけて超一流の音が出る、というサイクルでこの高値になるのだ。
なるほど、一流に揉まれて一流になるのは人間だけではないようで。

私のギターは素人の音楽に揉まれ、またそれ以上に笑い話・バカ話に揉まれてきた。
ひょっとしたら「ギターなのに木がまるで話するかのように振動する」なんてことになってるかも知れない。するとこのギター、世界に唯一の珍しいギターである。
場合によっては、希少価値から、将来ストラディより高値がつくかも分からないこのギター、売りに出そうかと思っているのだが、今のうちにどなたかいかが?

英雄色を好む

2011-06-17 | Weblog
世界ではタイガーウッズ、日本では片山晋吾、どちらも超一流のプロゴルファーが女性問題で離婚になっているようだ。

ネットにこんなことが書いてあった。
ある相談番組で女性の相談者が、「見た目はそこそこでいいので、尊敬するような仕事ができる方で、女性に誠実であればいいです。」と言ったところ、コメンテーターから、「そんな男、滅多にいません」と切り捨てられていました。仕事の才能は、収入はもちろん夢や刺激をくれるなどという理由で、なんらかの「才能がある」男性やいわゆる「デキる男」は女性にもてるのです。

その通り!!だと思うのだ。でも、そうではないのではないですか?とも思うのだ。
この理屈からすると“なんらかの才能“があるか、“いわゆるデキる”男はもてるはずなのである。
シャンプー要らず、散髪代要らず、整髪剤要らず、ドライヤー要らずと、ただ生きているだけでECOにこれほど貢献しているのは“なんらかの才能”以外何者でもない!!
薬指の第一関節を90度後ろに曲げることができる、素麺10束を3分で食べることができる、日本人は食べないほうがいいという激辛カレーをさらに辛くしてもらって普通に食べる、と、このあたりも超人的に“デキる”!!

これだけ才能がありデキる男なのにモテないのは何故?
知ってるけど、言いたくない理由。

「英雄“より”色を好む」じゃいかんということなのね。

涙の朝礼

2011-06-16 | Weblog
今朝の朝礼。
M相談役の話に感動し涙したものは私だけではなかったと思う。

あるホテルのレストラン。
1人で食事にきた男性はビールとコップを2つ頼んだ。
店員が不思議に思っていると、男性は位牌を取り出し、テーブルに置いた。
察した店員は、頼まれたコップ2つとさらに取り皿も2つ用意して出したという。

私はテーブルに位牌を置いたところでもう涙があふれてきた。
何故、人は他人のことなのにこんなにまで感動するのか。
尊敬する河合隼雄先生はこうおっしゃっている。
「誰かがローソクの上に手をかざしているのを見たら、自分も熱いと感じるでしょう。それは人は強い感情を空間で共有できるからなのです。」

件の話から、奥さん(だろう)を亡くした悲しみだけしか伝わらなかったら感情は弱く、他人事として可哀想で終わる。でも、どれほど奥さんを大切にしていたかが分かるから、その悲しみの強さが空間を伝わり私たちを感動させる。また、全てを察しながらもさりげない気遣いで応えた店員の行動がまた感動に輪をかける。

想像の域を超えることで感動は生まれるとM相談役はおっしゃっていた。
ということで、今日は想像の域を超えて、髪を亡くしたオチではなく、涙で終わるのもいいかな、と思います。

持ってる?

2011-06-14 | Weblog
6/11(土)、普段は一人で活動されているアマチュアミュージシャン(Aさん)のライブの手伝いでギターを弾かせてもらった。
Aさんは実力者なのでライブはいつものように大成功のうちに終了。その後はAさんはファンの方々と談笑、とまぁこの光景は通例である。

ところが先日はちょい違った。私たちサポートメンバーがファンの方に声をかけられることはまずないのに、若い女性が二人、私に声をかけてくれたのだ。

女性:「よかったですぅ!教室でも開かれてるんですか?」
私  :「いやいや、めっそうもない。私が習っているほうですよ」
女性:「えー、そうなんですかぁ。そんなことないでしょう?私たちに教えて欲しいですぅ」
私  :「とんでもない、ホントに習ってる身なんで滅相もないですよ」
女性:「そうなんですかぁ、教えて欲しいなぁ、私たち二人で弾いてるんですよ、“ウクレレ”」
私  :「え!?ウクレレ!?・・・」

きっと私はギターを弾いていたはずだ。いや確かに弾いていた。だってギター持ってたし、今もギター片付けてるし。
サポートメンバーにウクレレを弾いているものはいた。でもそれはわずか1曲、弾き手は女性だし私から離れていた位置で弾いていたし、何をどうしても私とウクレレが繋がらない。
「ああ、ウクレレは弾けないんですよねぇ」というのが精一杯。

なんで私の周りにはいつもこういうオチがあるのかなぁ。
「持ってる」というフレーズが流行しているけど、「オチ」を持ってるなんて、どう気持ちを整理をしたらええんでしょうか。

総選挙

2011-06-10 | Weblog
AKB48の総選挙とやらがあったらしく、テレビも新聞も大騒ぎなのだ。
この選挙、CD1枚に投票用紙1枚がついていて、それで投票するらしい。
なんでも、一人で120枚CDを買いご贔屓の子に全票を投じた人もいたとのこと。
40枚買ったという人のインタビューを見たが、「僕なんか少なくて40枚だけです」と言うたはった。

どちらも主たる購入目的は投票用紙なので、このCD、後はオークションで10円とかで売りに出るケースが多いという。120枚買った人は20万使ったらしいから、10円なら2万枚買える勘定だ。

CDは1枚約15グラム。2万枚ならなんと300キロにもなる。
左右に分ければバーベルに。オリンピックが目指せるぞ。
数十枚なら漬物石に。ナスでもキュウリでもかかってこんかい。

厚さは1枚約1.2ミリ。積み重ねればこれまた24m。
全部積んだら超ムズカシイだるま落としだ。君にできるか。
150枚程度を使えば身長計に。ご贔屓の子と2つ並べていかがどす。

と、私たちのように好きなレコードを擦り切れるまで聞いて育った世代の人間には、アイドルに投票するために一人で百数十枚もアルバムを買うなんて行為は全く理解できないし、こんなふうに遊んでみるくらいしか思いつかない。

さて今、日本は平和なのか危機なのか、総選挙で問うてみたいものである。

としたことが

2011-06-08 | Weblog
「私としたことが、道を間違えてしまいました」
これは、一緒に出張に行っていたIT部のA氏の言葉。

あたりまえだが、“としたことが”と言えるのは「言動・状態が予想に反して似つかわしくない」からである。
この場合、A氏は道を間違えることなどほとんどないからこう言えるわけで、「としたことが」のあとには否定的な言葉が続くのが通例。

しかし、“としたことが”の後に、肯定的な言葉が続くのが自然な事例が過去にあった。

「阪神としたことが、優勝してしまいました」

今年も優勝はきっともうない。
まったく我が阪神、バッターもピッチャーも通用せんだけやなく、言葉の常識も通用せんとは、並みの弱さやおまへんね。

てんびんばかり

2011-06-08 | Weblog
うちの仔犬はとても臆病で一人では街を歩けない
首輪をつけるととても自由だ 僕を神さまだと思っているのだろう

誤魔化さないでそんな言葉では僕は満足できなのです
てんびんばかりは重たいほうに傾くに決まっているじゃないかい
どちらももう一方より重たいくせにどちらへも傾かないなんておかしいよ

これは故河島英五さんの「てんびんばかり」という唄の歌詞の一部である。
―どちらへも傾かないなんておかしいよ―の件が人生の難しさと素晴らしさをものの見事に語っていると思う。

てんびんばかりの理屈でできた遊具にシーソーがあるが、最近、危ないからという理由で公園から消えているらしい。

怪我をすることを恐れるか、人生を学ぶ場を捨てるか。
てんびんばかりが軽いほうに傾く世の中なんておかしいよ。

反面教授

2011-06-02 | Weblog
週末によく行くライブバーの話。
よく来ていた元プロ歌手のHさんが来なくなった。酒癖が悪く、あまり評判のいい方ではなかったが、見なくなるとなんか寂しい。
その代わりという訳ではないが、この間は、変わった方が店に来られた。
名はY氏といい、ギターを弾かれる。なんでも著名な大学教授らしいのだが、こと音楽となるとそんな理性はどこへやら、とにかく「自分勝手」の一言で片付く人だ。以下は、当日の会話の一部。

Y:「ここは一緒に弾きましょう」「ここは分担してどうですか」
私:「そうですね、でも今唄っている方はきっと一人で唄いたい方ですから、参加しない方がいいと思います」
   (心の声)「誰もそんなこと求めてないの分かるでしょう、ちーたぁ考えましょうよ」

Y:「何を遠慮されてるんですか」
私:「いえいえ、決して遠慮するタイプではないんですがね」
   (心の声)「あなたと一緒に弾きたくないだけですよ」

Hさんはあまり好かれていなかったし、私も大好きな人ではなかったが、とても人間臭かったし、私にないものをいっぱい持っていて、純粋にも反面教師としても勉強になる人だった。
もちろん、、Y氏からも謙虚に勉強しようとしたが、この人はあまりに一般社会の常識からかけ離れていて反面教師にすらならず、見なくなっても寂しくないだろうし何も勉強できそうにないな、と思っていたらさすがは教授、ひとつ教えてくださった。

「反面教授」って言葉がない理由を。