僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

母逝く

2012-12-20 | Weblog
平成24年12月12日午後5時前、母がこの世を去った。享年82歳。
私は、仕事で最後には立ち会えなかったが、嫁、娘、孫たちが揃って見送ってくれた。
ほとんど意識はなかっただろうが、きっと淋しくはなかっただろう。

父はというと、もう15年以上前に亡くなっている。
その時は「死」ということを妙に素直に受け入れられて、「おやじはこの世にもういない」ということをすぐ納得できたのだが、なんか今回は自分自身の様子が違う。
母がこの世にいないことをどうにも信じにくい。もちろん分かってはいるのだが、なんか“現実”として受け入れられないのだ。
よく人が、遺影に話しかけたり、亡くなった人の部屋をいつまでもそのままにしていたりするのがどうにもよく分からなかったのに、今回は、当たり前のように母の遺影に語りかける私がいる。
男にとって母が特別なものだからか。55歳を目前にして自身の「死と生」を深く考えるようになったからか。今はまだよく分からないが。

母にこう話している。
孫・ひ孫に囲まれて幸せだった晩年なのに、きっと私一人が心配をかけてばかりいたんだろうね。でも、それはいくら詫びても足らないし、もうどうにもなるものではない。
だからあなたの生き方から教えてもらったことをよく噛みしめ、私と残された家族がそれを引き継いで、このあと幾世代にも亘っていい子孫を残していけるように努力すること以外私にできることはないと思っている。
あなたの死に際してとことん優しかった二人の娘たち。死の意味は分からないが、皆が悲しんでいるのをとても心配していた上二人の孫たち。とにかく真っ直ぐ明るく健康に育っている一番下の孫。みんなみんな私が誰にでも誇れる人間として育ってくれています。
見守ってくれる人がいること。支えてくれる人がいること。入るお墓があること。それはすべてあなたがずっと家族を守ってきたからなんですね。
私は今後も絶対に家族を守り、皆に幸せな人生を歩んでもらえるよう、あなたの教えを絶対に守り抜き生きてゆきます。

お母さん、ただただありがとう。

命懸け

2012-12-11 | Weblog
政治生命を懸けています。
政治生命をを懸けて実行します。
選挙が近ずくと、このような声があちこちで聞こえてくるようになる。

母が倒れて半年が過ぎた。
つい最近も含め、何度も命の危機にさらされては頑張り続ける母。
叱られてばかりだったが、その言葉のひとつひとつは、すべて命と引き換えに言ってくれていたのだと今分かる。

「絶対なる信念を持ち、相手のことを思いやるメッセージ」

命懸けの言葉はこうであらねばならない。
「命」なんて言葉をやすやすと使う候補者だけには絶対に投票しない。

汚い現実こそ大切

2012-12-07 | Weblog
選挙が近づいてきた。
私はもう入れる政党も個人も決めているが、どの政党も楽ではない戦いだろう。

選挙前に統合し、やれ野合だの公約違反だと言われている政党がいくつかある。
でも、私は何よりも「選挙に勝つ」ことを優先するという考え方は間違っていないと思う。

船が沈んでからでは何もできない。沈みそうな時は少しくらい意見が合わない人とでも協力し、お互いにどうしても残す荷物だけを決めて他は捨てなければいけない。でもその時、捨てろと言われてもどうしても捨てられない荷物だってきっとあるはずだ。その荷物―つまり政策の違い―を残したら沈んでしまうというなら話は別だが、それがなんとか沈まずに済む荷物であれば、持っていればいいではないか。とりあえず「生きる―つまり選挙で勝つ―」ことが何よりも大前提なのは当たり前だからだ。

とりあえず生きて帰ってから後のことはそれから考える。これが公約違反に繋がったりすることも事実だろが、選挙とはそういうものだ。100の公約を掲げて100全てを実行できる政党なんかあるはずがない。

夢を見ず汚く辛い現実を見る。それを乗り越える個々の力こそが選挙で問われていると思うのだ。