僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

おもてなし

2020-05-31 | Weblog
昨晩のNHKの達人達に出演していたダンサーの菅原小春さんが、
「インドでお世話になった家では、最初にまず掃除を覚えなさい、と言われた」(ちょっと記憶が曖昧だが)
と言っておられた。お客さんとして迎えるならお茶を出して迎えればいいが、家族に近い存在として迎えるなら普段自分たちがしていることをしてもらおうと思う、ということのようだ。
この話を聞いてストンと腑に落ちたことがある。
今年、私が徳之島に行った時のこと。数年ぶりに会った友は、「お前、車運転せえ」と私にキーを渡した。普通に考えれば長旅で空港に着いた人に運転せよはないが、助手席に乗せてくれるより、友が「相変わらず運転うまいのぉ」と運転が得意な私にかけた言葉が心に染みた。家に着いたら今度は車椅子の生活をしている親戚宅のベッドの移動。翌日は庭の木の枝切り。その全てがとにかく染みた。「単なる客」ではなく遠慮のない友であり家族に近い存在として扱ってくれていることが分かったからだ。
本当に大切な人をもてなしたいなら、相手に気を遣わせないことだ。それにはまずてなす方が下手な気遣いをせず、「いつもの自分の時間と空間に相手をいさせてあげる」ことが何よりなのだ。
先日の徳之島はわずか1日半程度しかいられなかったので道路にはみ出した植木を切ることができなかった。次に行ったら友はまた車を運転せえ、木を切るのを手伝ってくれと言うだろう。
友が大阪に来ることがあったら、私がいつもいく安くてうまい中華店に一緒に歩いて行こうと思う。ま、餃子の一人前くらいは奢ってやろうかな。


スクラム

2020-05-28 | Weblog
「我が家では 最強スクラム 妻・娘」
第33回サラリーマン川柳の1位がこの句だそうだ。いやぁ、娘二人の父親としては激しく同感するのである。
娘の父親なんてのはしょせんそんなものだ。かなり前にこのブログに書いたと思うが、カメラで家族写真を撮るのが父親で、撮られるのは父親ではないと思っている。写真に写っていないことで存在感を示す。それが父親というものだ。
などと強がってはみたが、最近はその存在感を示す状況さえなくなっていることに気が付いた。
この川柳を書いた人も1位に選ばれて周囲に対しての存在感は増しても、家庭での存在感は変わってないんだろうなぁ。
いや、この方と是非一度スクラムを組んで妻と娘に対戦してみたいものである。今よりもっと存在感がなくなくのが目に見えているが。

楽観

2020-05-27 | Weblog
楽観主義を肯定する言葉は多い。
「悲観は情緒、楽観は意思」
「人は利口な悲観主義者より、馬鹿な楽観主義者を好む」
ようするに「悲観は後退、楽観は前進」だからだろう。
私は43歳で20年以上勤めた会社を辞めて転職した。その頃は転職するには30歳が限界、みたいな風潮があったがなぜか不安は全くなく自信だけがあった。「なんとかなるやろ」としか思わなかった。やはりなんとかなって、希望だった広告制作会社に転職できた。でもその会社を8年で辞め、次にお世話になった同業の会社は経営難で倒産した。それでもなんとかなるやろ、は変わることがなかった。52歳でまた同業の今の会社にお世話になることになった。幸い今の会社が一番安定していて、コロナの渦中にあっても社員を減らすこともなく健全経営されている。おかげで62歳になり契約社員になった今も退職を促されることもなく働けている。
単に私は運が良かっただけかも知れない。でも悲観して幸運がやってくるとは思えない。人は絶対になんともならないことをなんとかしようなんて思わない。なんとかなる可能性のあることだけをなんとかしようと思うのだ。つまり「なんとかなる」は「なんとかする」の同義語であり意思である。とはいえ、これはあくまでたまたまなんとかなった人が言えるお気楽な考え方なので誰かに是非どうぞ、と言えるものではないが。
さて、私は62歳にしてまだまだケツの青い出来の悪い人間なのだが、これはなんとかなっていると言うのでしょうかね。

2020-05-26 | Weblog
「噂とはいい加減なものだ。たいてい噂のほうが良くできている」
これは西部劇ワイアットアープの中の名セリフとされている。
私は噂を信じない主義だが、なるほど確かにこれはあるな、と思った。
「この人ならこんなことしそう」とか、「この人がまさかそんなことを」なんていうことを想像するのはまず単純に面白い。そして噂を立てる人は、対象になる人を知っていればいるほど事実もたくさん知っているので、それを混ぜながら話を捏造していく。だから証拠なんかないのに“証拠らしいもの”に裏付けされた「ノンフィクションぽいフィクション」になってどんどん広がっていくのだと思う。それを流布された人はたまったものではないのだが、そこで止められないのが噂好きの人々なんだろう。
ただ、噂には愛嬌もある。「ちょっと奥さん、〇〇さんちのご主人ったら〇〇“らしい”わよ」と“らしい”が入るのがミソで、「信じるも信じないもあなた次第だけどホントなのよ」という「ワタシ」が信じてもらえるかどうかを楽しんでいるところもあるし、内容そのものを信じる信じないの選択枝が用意されているからだ。参考までに過去私に立てられた噂を紹介しよう。
「〇〇さん、痴漢で捕ったらしいよ」
実はこれ、自宅から10mと離れていない場所で女性が男性に馬乗りになられていたところを友人と二人で取り押さえたもの。翌日の新聞にもその記事が載ったのに、会社では一時そういう噂が立っていたらしい。
ま、でもすぐに信じるも信じないもあなた次第。きっと私には“証拠らしいもの”があったに違いないから。

※後で警察からこの犯人は麻薬常習者だったということを聞いた。
★人を傷つける噂や作り話を肯定しているものではありません。人の不幸は蜜の味と言われるように、“蜜の味程度の不幸”くらいにクスッと笑える程度ならいいかな、と思います。

最善の治療法

2020-05-25 | Weblog
「いや、わしは人を憎んでなんかいられない。わしにはそんな暇はない」
黒澤明監督の『生きる』というドラマの中の名言とされている。
余命幾ばくも無い主人公の言葉だが、余命があっても本来人間はそうであるはずだ。
自分がやるべきこと、やらなければならないことは一生かかってもやりきれないほどある。
なのにインターネットで誹謗中傷ばかりしているおヒマな皆様には一度コロナにかかってみられることをお勧めする。
かかるのは無料だし、うまくいけば大好きな誹謗中傷も手に入れられるかも分からない。
万が一の時は皆様がずっとやってこられたように決して身分を明かさないまま生涯を終えることもできる。
人としてやるべきことを理解するには最善の治療法だと思うがいかがなものか。

―SNSでの誹謗中傷により自らの命を落としてしまった人がいることを受けて―

敗戦

2020-05-24 | Weblog
音楽仲間の家にアベノマスクが届いたらしい。
その仲間は多分85歳位のお母さんと同居している。マスクが届いたことを告げるとお母さんは「まずは神棚へ祀らなあかん」とおっしゃったそうだ。
なんだかんだと批判の多いこのマスクだが、お国のためと生きてきたお母さんには国からいただいた宝物だったに違いない。
その国はといえば国の正義を司る検事の不始末を注意で済ませるだけ。これだけ国を思ってくれている人がいることを分かっているのか。出ると言われている退職金で今命の危機に晒されている人を何人救えるか分からないはずがないだろう。
もちろん私も腹立たしいが何もできない自分は文句だけを言うのはやめようと思っていたが、これを聞いたら我慢できなくなった。
国は、政治は、神様だと思っておられるお年寄りがいらっしゃる。そのお年寄りは皆ここまで日本を支えてきてくださった方々だ。
このお母さんの行動を耳にして、それでもまだ議員はわずかな給与カットを続け黒川氏は注意で済ませられるのなら、日本はお母さんたちがお国のためと戦ってくれた戦争の敗戦よりもっとひどい敗戦を背負い込むことになるだろう。
戦う相手が愛する自国だなんてこのお母さんに聞かせられるものか。

才能

2020-05-23 | Weblog
さて、この写真を見てどう感じられますか?



新聞の切り抜きなのでシャープさに欠けていて分かりにくいかも知れないが、私の感想は「この人たちは素人じゃない」というものだった。
実はこの女性二人は今年の宝塚音楽学校の合格者で、学校へ向かう途中の写真である。
もちろん新聞記事なので文章はあるが、私は一瞬にしてこの写真に釘付けになり「素人じゃない」と感じた。そして後から記事を読んで、なるほど宝塚の合格者ともなると入学前から素人にはない魅力を持っているんだなぁと感心しきりだったのである。コロナの影響でマスクをしていることもあるのかも分からないが特に目力がものすごい。入るまでの努力が創った部分もメイクの技術もあるのだろうが、でもこれはやっぱり持って生まれた才能だと思う。
芸術の世界は努力ではどうしようもない部分がある。バレーを志しプリンシバルになりたいと思っても、足が短ければ諦めるしかない。私の友人の娘さんが通っていたバレー教室では親御さんの「娘を将来バレリーナにさせたい」という希望に対して、先生から「申し訳ありませんがお顔立ちが無理です」と言われたという衝撃的な事実もある。でも事実足が短くて顔立ちがよくないプリンシバルなんて見たことがない。やはり才能なくしてこの写真映りはない。
さて、翻って私の才能のついても少し。
娘がまだ高校生の頃、家族でレストランに食事に行った時のこと。駐車場からお店へ私の2~3m後を娘が歩いていた。店に入ると後から入ってきた娘が大笑いしている。
「お父さん、さっきすれ違った人が「あれはお父さんじゃなくて“パパ”やできっと」と言うてたで」
目力はなくとも財力はあるように見えたのか?残念ながら外れているが。では単に好色に見えたのか?それは見事に当たっているぞ。
でもとりあえずこの女性たちより笑いの才能はあるんじゃないかな。ま、失笑ではあるが。

人情と新しい生活様式

2020-05-21 | Weblog
この記事は2019年9月のもの。



ギターはほとんどこのナカイ楽器で購入した。延べ10数本は買ったように思う。多分普通乗用車が1台買えるほどの金額になっていただろう。手放したものもかなりあるがそれでも今所有しているギター10本のうちの3本はこの店で購入したものだ。加えて友達も何人もこの店で買っている。バンドメンバーも5本近く買っているし知り合いを紹介したりでそれだけでも10本以上はあるように思う。
記事にもあるがこのお店はホントに人情があった。弦の好みが変わって、前に買った弦を好みの弦に代えて欲しいという頼みまでハイハイと聞いてくれた(もちろん新品で買ってそう時間も経っていないもの)。下取りで入ったギターを店頭に出す前に「こんなの入りましたよ」と教えてくれたりもした。知識も豊富で私の好みの音楽やギタースタイルを良く知ってくれていて、数本のギターを弾き比べてどれにするか悩んでいると「〇〇さんにはこっちのギターの方が合ってると思います」とアドバイスをくれた。もうギターは十分足りているし、定年になり契約社員となったのでここ数年は新しい(中古も含め)ギターを買うことはなかったが、仕事の帰り道にふらっと寄って小物を買ったり世間話をしたりさせてもらった。「もうギターはよう買わんでぇ」という私を嫌がらずいつも親切にしてくれた。閉店はホントに残念だったが何もできない私はただ受け入れるしかなかった。

閉店後は社長をはじめ、社員の皆さんはそれぞれ他の楽器店に無事に就職された。その各お店もナカイほどではないが数本買わせていただいているお店で、今後はお店は変われどお世話になった社員の方々とお付き合いが続くことになりとても嬉しく思っている。おかげで?「もうギターはよう買わんでぇ」と言っていた私が、新たなスタートへのご祝儀にとBさんが就職された店で早速1本購入してしまった。もうお一人のAさんがおられる店には会社から近いこともありもう何度も足を運んでいるもののまだ何も買わせていただけずにいたのだが、昨日、私が紹介してナカイ楽器のAさんからギターを買った後輩から「友達がギターを買いたいと言っているのでこの間のお店紹介してくれませんか」と電話があった。ナカイ楽器が閉店したことを伝えるとショックを受けていたが、その時のAさんがいてるお店を紹介するからということで喜んでくれていた。

私はもちろん、友達も後輩もみんなナカイ楽器というお店ではなくそこの皆さんの人柄から楽器を買ったのだ。
店は無くなっても人情は残り人は繋がる。音楽に限らず人が集まり触れ合わないと情は生まれない。コロナで新しい生活様式うんぬんと言われている。古きを訪ねて新しきを知る。どうか人情で商品を買うスタイルが新しい生活様式として戻ってくることを願うばかりである。


キジュン

2020-05-17 | Weblog
ゴールデンウイークはずっと家にいたのでやたら片付けをしていた。
その時出てきたものに「音叉」がある。音楽をやられている私の同世代の60歳前後の方ならすぐに分かるだろうが、Yの字型をした膝等で叩くと440kHzの音がするというものだ。ギターの場合は5弦のAの音をこの音叉の音に合わせると音の基準が出来る。あとはこれを元に他の弦を合わせていけばギターがちゃんと弾ける音に合うのである。
今はチューニングメーターというすこぶる便利なものが出来ていて、音叉で音を合わせている人にはお目にかかったことがない。私も例外ではなく全く使わないまま置いてあったのだが、これが出てきて蘇ってきた思い出がある。
あれは確か中学3年生の頃。やっとこさ簡単なフォークソングのひとつ位が弾けるようになっていた。多分我が家に3~4人が集まりギターを持って遊んでいた時のことだ。その友達の中にバイオリンを弾き始めた奴がいた。なんでも聞くと将来は大阪フィルハーモニーに入ってバイオリニストになるのが夢だという。その彼が言ったことがなんとも衝撃的だった。
「その音叉狂ってるで」
「え~!?音叉って狂うもんなん?え~ホンマに!?」もうやっとそこそこ音が出る位になったレベルの私達からすると音叉の音は絶対であって、それが狂うなんてことは想像だしなかった。ほんのわずかの狂いらしいのだが、そんなもの分かる訳がない。しかも相手はフィルハーモニーを「目指して」いるバイオリニストの卵である。もうそうなんやと信じるしかない。わざわざ彼の指摘通りにチューニングを直すことまではしなかったが、さすがにバイオリニストを目指している奴はすごいな~なんてことでもうただビックリしてその場は終わった。
ただそんなすごい奴を放っておいてはもったいない。その頃はなんたってフォークソング全盛期である。ミ~レド~シドレ~レソーラシレ#(このレの#がたまらない)というバイオリンの前奏で始まる「神田川」が大ヒットしていた。今彼にこれを弾いてもらわない手はない。なんたって音叉の狂いが分かる奴だ。始めたばかりとは言え、こんな簡単な前奏位は朝飯前だろう。今度家に来てもらって是非弾いてもらおうということになった。
その日は来た。その時と同じメンバーが集まる。とりあえず私達はギターの準備もバッチリだ。チューニングは狂っていると言われていた音叉だが。
いよいよバイオリンの前奏が始まる。ワンツースリーフォー、「ミ~」のはずだが「ギ~」としか聴こえない。多分その後も音の上下位は合っていたと思うし、これは神田川の前奏だと強く信じる気持ちがあれば神田川に聴こえるような気もした。彼は眼を閉じて真剣に弾いている。こっちは耳を閉じたくなったがそこは将来のフィルハーモニーを否定する訳にもいかずとにかく聴いて、彼の演奏は終わった。
「いやー、やっぱりバイオリンはええな~、また今度聴かせてや~」なんて子供のくせにやたら大人の対応をしたっけ。
その後彼がフィルハーモニーに入ったのかどうかは知らない。ただあの時の音叉は狂っていなかったんじゃないか。
出てきた音叉は、音程ではなく、人生の豊かさのキジュンを教えてくれていた。

テレワーク向き

2020-05-16 | Weblog
コロナの対策としてテレワークを始めて1ヶ月以上が経った。
その内会社に行ったのは1回だけ。非常識な人も一杯乗っている電車に乗らなくていいというのはとにかく気が楽だし、往復の通勤時間もないので時間の無駄もない。当然会社のリソースを全て会社にいるように使える訳ではないので、そのあたりは不便を感じるが、前職は自宅で仕事をすることも多く仕事部屋やPC等の環境が整っているから私にとってテレワークは極めて仕事がやりやすい環境なのである。
何よりいいのは、会社にいるより自己管理がしっかりできるということ。やってみて気付いたが誰にも管理されず自分で自分を管理しないといけないというのはとても厳しいことだ。管理されているとちょっとサボってやろうとか息抜きをしようと思うがテレワークでは全くそんな気が起こらない。これは自分自身の新しい発見でもあった。
間もなく緊急事態宣言も解除され、一旦は完全に元通りとはいかなくて平常に戻ろうとする動きが出てくるだろうが、第2波3波が来るだろうし、夏の猛暑もやってくることを考えると多くの人が言うようにテレワークは今後の仕事のスタイルのひとつとして定着するかも知れない。
62歳を過ぎて世の中に私に向いた仕事環境が定着するかもと思うと、ますますコロナなんかに負けずに頑張ろうと思う。
もうちょっと早くから定着してたら、なんてことを考えるあたりは相変わらず厳しさが足らないけれど。

堂々ということ

2020-05-13 | Weblog
最近のとても嫌な風潮にネット上での他人批判がある。
コロナに罹患したのを知りながら高速バスに乗って自宅に帰った女性がとんでもないバッシングに合っているらしい。そりゃあやったことは褒められたことではないから、近い人からの批判は当然かも知れないし必要だろう。ただ、ネット上の見ず知らずの人を見えない所から人権を損ねるような言葉で責め立てるのは明らかな間違いである。
この行為の何より許されないところは自分の身分を明かさず、身分のはっきりした人を面と向かってはきっと言えないであろう言葉で愚弄することにある。後ろから隠れて石を投げつけているようなもので堂々としていない。要するに卑怯者である。
今のところ私にこれらをなくすいいアイデアがある訳ではないので、他人事で放っておくしかないが、他人でも気分が悪いのに被害に遭った方はホントにたまったものではないだろう。
じゃあ、顔を出して身分を明らかにしたら何を言ってもいいかというとこれもまた違う。
今日大好きなギタリストの浅野孝己さん(元ゴダイゴ)が亡くなった。とても残念に思いながら浅野さんの演奏をyoutubeで見ようとしたらあろうことか、浅野さんが亡くなったことをざまあみろ的にアップしている人がいた。顔を出している。変な笑いをしている。たぶん狂人だろう。一瞬で気分が悪くなり当然のことがらその動画は見ていない。
顔を出して身分を明らかにしたら堂々としている訳ではない。堂々とは勇気を伴う行動や態度のことだ。
もう何がなんだかわからない位おかしな人がいっぱいいるが、まずは自分を見つめる勇気を少しでも持ってくれたらいいのにと思う。
ま、まともな勇気を持てる人はまともな判断力も持てているはずので、きっとこんな風潮は続くんやろうけど。

ウィルスより単細胞

2020-05-11 | Weblog
とにかくムツカシイ。これがコロナへの対応である。
感染を抑えるための接触機会を抑えつつも、絶対に接触機会が増える経済活動は再開しなければいけない。誰が考えてもワクチンができるまではとにかく状況に応じて開けたり閉めたりの対応を繰り返していくしかないだろう。

で、趣味の音楽のことで誠に恐縮なのだが、ライブ活動は当然のことながらもう3ヵ月ほど出来ていない。ライブはおろか、3密に近い環境になるのでバンド練習すら出来ていない。それでも私たちは所詮趣味だからいいが、いつもお世話になっているライブハウスはみんな、そりゃもうえらいことになっているに違いない。

当然ライブハウスのほうはホントに色々な対策を考えておられる。無観客で配信のみするライブの企画もあれば、1バンド事にマイクやら譜面台やらテーブルを全て消毒し、換気をし、観客同士の距離を保ったライブという企画もある。ありがたいことにこのようなライブへのお誘いを何度か受けた。とにかくライブハウスあってのバンド活動であり、これまでお世話になってきたので何とかお応えしたいのだが、しかし、どうしてもお誘いをお受けできなかった。

理由はこうだ。
「ライブに参加したら“家にいるよりコロナを拡散する可能性が低いか”と考えたらNOだから」これに尽きる。
ここまで感染対策をされている訳だからまず大丈夫に違いないと思う。でも自分に今できる一番大切なことはやはりこの菌を広げないことだ。ちょっとでも拡散しない可能性の高いほうを選ぶ。お世話になりながらライブハウスには何の力にもなれず本当に心苦しいがこれが自分にもライブハウス側にも最善だと判断している。

とくかくムツカシイ問題ほど単純に考えるしかないと思うのだがどうだろう。
自分がウィルスより単細胞だからからかなぁ。

時代の竹馬

2020-05-09 | Weblog
徳之島にいる竹馬の友とは高校一年生の頃、偶然同じクラスとなり出会った。
なんとも自然に人の心に入ってくるヤツだった。
何百人も友達がいるんじゃないかと思う位、全ての人を惹きつけるヤツだった。
とてつもない運動神経の持ち主で、ラグビーの名門高校だったが、特に運動部に所属していない彼のほうがラグビー部員よりラグビーが上手かった。
普段は至って見かけも言動も普通なのだが、学校の悪ガキ達からも一目置かれるほど喧嘩が強かった。一緒に電車に乗ったら明らかに性質悪そうなヤンキーにメンチを切って相手に目を逸らさせた。私はその傍でドキドキしていただけだった。
本当に肝の据わった男。男の中の男とはたぶん彼のことを言うに違いない。
読書家で国語が得意で国語だけは全国模試でも結構上位に入っていたなぁ。
たばこも酒も全部彼から教わった。母はだから最初彼を嫌っていたけど(いつの日か認めてくれていたが)。
女の子とのことも悪いことも何もかも一緒にした。
女の子にはもちろん、男にもとにかくモテた。
卒業し、初めて彼が買った車がカローラDX。デラックスちゃうねんぞ、これはディーエックスと読むんや、などとほざいていた。
二人で夜な夜な車で走りに行って、人には言えないようなこともした。この頃になるとドキドキはするものの、一緒に悪さができるようにもなっていた。

同じ大学に通い、私は中退して社会人に、彼は卒業して社会人になった。二人共偶然今の伴侶と出会い、私が一足早く結婚し、彼もほどなく結婚した。偶然子供はどちらも二人ずつ。どちらも女の子が二人。そのあとはこれまでのブログにも書いてあるように、彼は大阪での仕事を捨て、本当に何百人もいたであろう友人を捨て、徳之島に戻りお母さんの面倒を看ながら農業をして生きている。

先日、久しぶりにラインをしたら、大きな問題を抱えて苦しんでいるようだ。なぜか私も全く同じ時期にほんとによく似た問題を抱えて悩んでいる。偶然何もかもが彼と同じように私の周りで動いている。

私たちは本当に竹馬に乗って一緒に遊んだ訳ではないが、共感や発見、希望や失望という竹馬に乗って一緒に歩んできた。
彼に出会ったのは偶然だったし、その後起こったことも偶然なことが多い。だだ、偶然は意思の力で必然に生まれ変わる。
彼も私もどうやったら人として全うに生きていけるのかを考えていない日はない。だから彼と私は必然的に同じような道を辿っている。
同じ苦労を抱えるのが必然ならば、それはこの時代の私たちに与えられた竹馬だ。友よ、また一緒に乗っていこうじゃないか。

遠きにありてもっとも近くで

2020-05-07 | Weblog
故郷は遠きにありて思うもの。
生まれてから62年間、一度も大阪の実家を離れたことのない私は、室生犀星のこの詩を実感をして感じることはなかった。それが尊敬する故星野道夫さんが、魔法の言葉という著書に書かれていたこの言葉で突如実感となった。
「行けなくてもいい。アラスカでカリブーの群れが移動している、クジラが泳いでいる。それを想像できるだけで心が安らぐ。そんな自然が残っていることが大切なのだ。」
私にとってのアラスカの自然は徳之島の皆である。
めったに行けなくてもそこで最愛の友とその家族、親戚が皆、人として極めて全うに元気で生きている、そう思うだけでなんと心が休まることか。故郷のない私が故郷を思うように安らげる。もはやこれは象徴的な故郷である。
親を大切に、自然を大切に、人を大切に。愚痴をこぼさず、淡々と仕事に励み、倒れるように寝る。それがどれだけ高貴なことか。
故郷は、遠きにありて私をもっとも近いところで支えてくれている。

縁側

2020-05-06 | Weblog
数十年前、我が家は武家屋敷だった。
縁側があり、そこからは庭が見え、よく祖母や母が座っていた。
おもちを乾かしておかきにしたり。
子供の頃は同年代の親戚とそこでおもちゃのボーリングもしたなぁ。

縁側は家の中でもあり、外と隣接した場所でもある。
家が息を吸い込む場所とでも言うのか。

徳之島の友人の家にも縁側があった。
友人は夜中に一人でそこに座って鳩たち(飼っている)を眺めている時が一番落ち着くという。
この間は深夜に一緒にそこに座り、色々な話をした。

なにかを見つけた訳でもない。なにかを無くした訳でもない。
でもそこには彼の全てと島の全てがある。そう思った。

縁側は心が息を吸い込む場所である。