六月四日・・・サッカー、オーストラリア(濠太剌利)戦・・・今現在午後18時50分・・・ホンダ、ヤッタッ!・・・21時23分・・・
「アジア帝国主義の曙」の原点は「明治維新」である・・・欧米の侵略からナンとか免れたのは「帝国日本」が欧米の「帝国主義・植民地主義」を摸倣し、それに「帝国」としての「軍事力の国家」として対抗しえたからである。だが、20世紀(1900~2000年)、国家間戦争で信じられないような「数字の命」が、「膨大な赤い血」が、「戦場」、「戦場以外」でも流れた。そして、一発、二発、の、「原爆」が一瞬のうちに10万、20万と言う人間を「蒸発」させてしまった。そして、今現在、世界中の「市民社会」は「国家の枠を超えた戦場」になっている。見つけた「不発弾の処理」は出来るが、見つからない「不発弾」は「地雷」である。年間、1200件の処理されている「アサリの浅瀬の海」があるらしい。沖縄では「不発弾処理」はマイニチの日常である・・・
対戦国チームがあってのサッカーだが、サッカー場の熱気と歓喜が「国家間戦争」へと変わらないことを祈りたい・・・
「国家エゴ」は「国家内の階級意識のエゴ」である・・・それが「立憲主義」であろうが、「法治主義」であろうが、「専制独裁」であろうが、「自由主義」であろうが、その「政治体制」を支える「経済」の原点は、「国家的資本主義的生産様式」で生産された製品を商品として国内外への「市場」で「売買」するコトであり、利益を上げることである。そして「地球規模の階級意識エゴ」で、その「ルール」の原点は個々人が「儲けるコト」ができ、儲けた利益は「蓄財」できる、と言う「単純なルール」である。「私有財産制度の階級意識」である。
「努力」すればチャンスはミンナにある、と言うルールである。だが、チャンスとはタカラクジと同じで、買っても買わなくてもイイチャンスでもある・・・「博打意識」を煽って提供しているのは「胴元」である。ダレでもが「金持ち」になれ、ダレでもが「出世で生活が安定出来る」のハズだが、「博打」はダレでもソレを保障してくれないのはアタリマエである・・・
日曜日のTV番組で「ハキリ蟻(虫+義)の社会」をみたけれど、現実の人間社会は「アリの漢字」を更に分解した「蟻=中+ム(よこしま)+義」である・・・アレが「社会主義社会」なのか?・・・過酷な自然と向き合い、その自然を守る中で「公平な食料分配と住居は茸栽培農業を協業(女王アリ、体格の大小、その外的形態器官も異なるアリが10種類、巣には100万匹。収穫、運搬、道路整備、防衛、農地開拓、30種もの専門職を分担)するコトで実現」されているようにも観えるが、「人間」が目指す「社会」とは違うように思える・・・「蟻」は「昆虫」である・・・だが、外敵とも戦うし、「伝染病」にもアリなりの対処もしているようだ・・・
人間のボクから観れば「種の保存」のみにだけの「一生」・・・で、あるように思える・・・が、違うかも・・・アリさんたちの「気持ち」は判らないから・・・
「中華人民共和国」の「帝国主義的覇権主義?」の原点は「孫文」であった・・・孫文の「三民主義」は現実には「明治維新」を観、「欧米諸国」を観、その「帝国主義」諸国家の理不尽の中で「三民主偽」にならざるを得なかった・・・彼は「国家枠の資本主義」を目指したのサッ・・・帝国主義的国家間の利害関係での中で現実は「武力妥協」、「外交妥協」で、それが出来る「国家建設」でしかありえなかった・・・彼は「中国革命」のプロセスで「帝国日本」に自国の権益を譲渡しようとしていた・・・
当然、彼は「明治維新の日本人」と「同時代の人間」である。そして当然にも「明治国家」に憧れていたのだ。
兎に角、この同時代の彼らの「生年月日」と、それに附随する「履歴」の「年月日」は「日本歴史」がナニを語ろうとしているかの「カギ」である・・・
ーーー↓参照、引用原文は以下
三民主義 - Wikipedia
ーー
孫文 - Wikipedia
ーーー↓
孫文
孫文
孫文(そん ぶん)
1866年
11月
12日
(清同治五年十月初六日)
~
1925年
3月12日
(民国十四年)三月十二日
初代中華民国
臨時大総統
中国国民党総理
ーー
中華民国
初代臨時大総統
任期
1912年1月1日~1912年4月1日
中華民国
中国国民党総理
任期
1919年
10月
10日
~
1925年
3月
12日
辛亥革命の中心的人物
孫中山の名称が一般的
譜名は徳明
字は載之
号は日新 、逸仙 (Yìxiān) または中山
幼名は帝象
他に
中山樵、
高野長雄
欧米では
孫逸仙(Sun Yat-sen)
ポルトガルの植民地の
マカオでは医師だった
日本滞在中は
中山 樵(なかやま きこり)」
1935年~1948年までの
発行法幣(不換紙幣)の肖像画
(ウィキペディア)
誕生地は
広東省
広州府
香山県
翠亨村(中山市)
死没地は北京市
政党は中国国民党
配偶者は
宋慶齢 (1915年~1925年)
大月薫 (1903年~1906年)
盧慕貞 (1885年~1915年)
子は孫科
ーーー
清仏戦争を切っ掛けに
1894年1月
ハワイで
興中会を組織
1895年
日清戦争の終結後
武装蜂起(広州蜂起)を企てたる
密告され日本に亡命
1897年
宮崎滔天の紹介で
政治団体
玄洋社の
頭山満と出会う
頭山を通じて
平岡浩太郎から活動費と生活費の援助を受る
早稲田鶴巻町の
二千平方メートルの屋敷は
犬養毅が斡旋
1899年
義和団の乱が発生
1900年
孫文は恵州で再度挙兵
失敗
1902年
日本人の
大月薫と結婚
アメリカを経てイギリスに渡り、
一時清国公使館に拘留
その体験を『倫敦被難記』として発表
1904年
「1870年
11月
ハワイの
マウイ島生まれ」として
アメリカ国籍取得
1905年
ヨーロッパから帰国
宮崎滔天らの援助で
東京池袋にて
興中会、
光復会、
華興会を糾合し
中国同盟会を結成
留学中の
蒋介石と会う
1911年
10月
10日
共進会と同学会の指導下、
武昌蜂起
各省がこれに呼応して
辛亥革命に発展
当時、孫文はアメリカに滞在
12月25日
上海に帰着
1912年
1月
1日
臨時大総統として
南京に
中華民国政府を
樹立
1913年(大正二年)
3月
国会議員選挙
中国同盟会を発展させた、
国民党が
870議席の内
401議席獲得
宋教仁を総理とした
袁世凱は自身の権力拡大を計り、
宋教仁を暗殺し、国民党弾圧
7月
袁世凱打倒の第二革命
1914年
孫文は中華革命党を組織
袁は議会解散を強行
1915年
共和制を廃止、帝政を復活
袁世凱が
中華帝国大皇帝に即位
反袁・反帝政の
第三革命が展開
1916年
袁は病死
段祺瑞が後継者になる
1917年
広州で
広東軍政府を樹立
広西派の
陸栄廷を攻撃
第一次護法運動は失敗
第二次護法運動は
陳炯明との路線対立で
広州を追われた
孫文は一時、日本へ亡命
「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」と
犬養毅へ送った
宋嘉樹の
次女の
宋慶齢と結婚
梅屋庄吉が資金面で支援
1915年
第一次世界大戦中の
日本が
対華21ヶ条要求を北京政府に要求
1917年
ロシア革命
第一次世界大戦後の
1919年1月
パリ講和会議によって
ドイツから
山東省権益が日本に譲渡
中国全土で
「反日愛国運動(五・四運動)」
陳独秀や毛沢東
孫文は
「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換
ロシアから
コミンテルン代表の
ボロディンを
国民党最高顧問に迎え、
国民革命軍と軍官学校を設立
1922年
広東駐在武官の
佐々木到一は
孫文の
陳炯明追放要請を受け、
孫文の軍事顧問となる
1923年1月26日
孫文と
ソビエト連邦代表
アドリフ・ヨッフェの
「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表
中国統一運動に対する
ソビエト連邦の支援を誓約
2月21日
広東で
孫文は
大元帥就任(第三次広東政府)
1923年
6月
中国共産党第三回全国代表大会
コミンテルン代表
マーリン指導で、
国共合作が方針
コミンテルンの
工作員
ミハイル・ボロディンは、
孫文の軍事顧問・国民党最高顧問
1924年
1月
20日
第一次国共合作が成立
黄埔軍官学校設立
国民革命軍の組織を開始
1925年
中国人革命家育成機関
モスクワ中山大学が設立
1924年
10月
孫文は北上宣言
11月
日本の神戸で
「大アジア主義講演」
日本に対して
「西洋覇道の走狗となるのか、
東洋王道の守護者となるのか」
東洋の王道・平和の思想を説き、
日中の友好を訴えた。
ーーー
ーーー
ーーー↓カタカナ・・・ウイッキペデアから参考抜粋
吉備真備が片仮名を作ったという説
片仮名の起源は9世紀初め
奈良の古宗派の学僧たちの間で
漢文を
和読するために、
訓点として
借字(万葉仮名)の
一部の
字画を省略し付記したものに始まる
記号的・符号的性格が強い
十世紀中頃までは異体字が多く見られ、
字体の整理は
十二世紀
『うつほ物語』の
「国譲上」の巻において
「書の手本」の中に
片仮名があげられている
江戸時代の学者
伴信友は、平安時代後期に成立したと見られる
『堤中納言物語』の
「虫めづる姫君」に、
虫愛づる姫君が男から送られた恋文に対して
「仮名(平仮名)は
まだ書き給はざりければ、
かたかんな(片仮名)に」返事を書いた
戦前は正式な文字とみなされ、
法令全書
その他の
公文書で用いられ、
教育面でも
平仮名に先行して教えられた
現代の片仮名では
明治三十三年(1900年)の
小学校令施行規則で
一音一字の原則に従い、
標準とされた字体だけが普及
ーーー↓片仮名・カタカナ
漢文訓読における添え仮名
文章の表記に用いる場合
仮名交文
音を示すことを目的とする場合
外来語、
漢字文化圏の国を除く
外国の人名・地名などの固有名詞
擬音語・擬態語
漢字の音(音読み、固有名詞の特殊な読み、日本語以外の言語での発音、常用漢字外の文字の仮名表記)
一般と異なる表記による効果を目的とする場合
学術用語
生物の和名(イヌ、キジ、サクラなど)
意図をもって表記するとき
日本語で砕けた表現をする場合
会社名や商品名などの表記
漫画等において
外国人の
片言での会話を表現するとき
技術的な理由から
使用可能な文字が限られている場合
1988年8月以前の
電報
日本語以外では、
アイヌ語表記にも使われる。
日本統治時代の
台湾語の表記に使われた
ーーー
「イ」「エ」を180度回転させた文字が、ヤ行の「イ」「エ」として用いられたことがある。これは江戸時代の音韻学において、「ヤ行やワ行の『イ』『エ』にも独自の文字を当てるべきではないか」という考えが生じたために作られた記号であり、一般に通用する文字ではない。用いられた記号も、学者によって異なる場合がある。
「キ」については「幾」の草体の変形、ならびに平仮名「き」の変形とする説がある。
「ケ」については「箇」の異体字である「个」の変形とする説がある。
「ツ」については「州」の草体、「門」の草体、または「津」の一部とする諸説がある。
「ト」については「外」の旁を採ったとする説がある。
「ユ」については「弓」の最初の2画を採ったとする説も以前からある。
「ヰ」「ヱ」は、現在歴史的仮名遣においてのみ用いられる。
「ヰ」は「井」の草体を変形させたものである。
「ヱ」については「慧」の草体の一部を採ったとする説もある。
「ワ」については「輪」の意の記号「○」を「()」と2画で書いたところから生まれたとする説がある。
「ン」については漢字でなく撥音を表す記号(V)の変形とする説もある。
ーーー
枕草子
(四三段)・・・四拾参・四十三・四参・肆足参
4+3=7=七=漆
4×3=12=十二=壱拾弐
七月
ばかり、
いみじく
暑ければ、
よろづの
所
あけながら
夜も
あかす
に、
月の
ころ
は
寐起きて
見いだす
も
いと
をかし。
闇も
また
をかし。
有明は
たいふも
おろか
なり。
いと
つややか
なる
板の
端
近う、
あざやか
なる
疊
一枚
かり
そめに
うち
敷きて、
三尺の
儿帳、
奧の
かたに
押しやり
たる
ぞ
あぢき
なき。
端に
こそ
立つ
べけれ、
奧の
うしろ
め
たからん
よ。
人は
出で
に
ける
なる
べし。
薄色の
うら
いと
濃くて、
うへは
少し
かへり
たる
ならず
は、
濃き
綾の
つやや
かなるが、
いたく
はな
えぬを、
かしら
こめて
ひき
著てぞ
ねためる。
香染の
ひと
へ、
紅の
こまやかなる
すずしの
袴の、
腰
いと
長く
衣の
下より
ひかれ
たるも、
まだ
解け
ながら
な
めり。
傍の
かたに
髮の
うち
たたなはりて
ゆららか
なるほど、
長き
推し
はかられ
たるに、
又
いづこ
より
にか
あらん、
朝
ぼらけの
いみじう
霧
滿ちたる
に、
二藍の
指貫、
あるか
なきかの
香染の
狩衣、
白き
すずし、
紅の
いと
つややか
なる
うちぎぬの、
霧
に
いたく
しめり
たるを
ぬぎ
垂れて、
鬢の
少し
ふくだ
み
たれば、
烏帽子の
押し
入れら
れたる
けしき
もしどけ
なく
見ゆ。
朝顏の
露
落ちぬ
さきに
文
書かんとて、
道の
ほども
心もとなく、
おふの
下草
など
口ずさびて、
わがかたへ
行くに、
格子の
あがり
たれば、
御簾の
そばを
いささか
あげて見るに、
起きて
いぬらん
人も
をかし。
露を
あはれと
思ふ
にや、
しばし
見たれば、
枕
がみの
かたに、
朴に
紫の
紙はりたる
扇、
ひろごり
ながら
あり。
檀紙の
疊紙の
ほそやか
なるが、
花か
紅か、
少し
にほひ
うつり
たるも
儿帳の
もとに
散り
ぼひ
たる。
人の
けはひ
あれば、
衣の中より
見るに、
うち笑みて
長押に
おしかかり
ゐたれば、
はぢ
など
する人
には
あらねど、
うち
とくべき
心ばへ
にも
あらぬに、
ねたうも
見えぬる
かなと
思ふ。
「こよなき
名殘の
御あさ
いか
な」とて、
簾の
中に
半ばかり
入りたれば、
「露より
さきなる
人の
もどか
しさ
に」
と
いらふ。
をかしき事
とりたてて
書くべきに
あらねど、
かく
言ひ
かはす
けしき
ども
にくからず。
枕
がみなる
扇を、
我
もちたる
して
およびて
かき
寄するが、
あまり
近う
寄り
くる
にやと
心
ときめき
せ
られて、
今
少し
引き
入らるる。
取りて
見など
して、
疎く
おぼし
たる事
など
うち
かすめ
恨み
など
するに、
あかう
なりて、
人の
聲々し、
日も
さし
出でぬ
べし。
霧の
絶間
見えぬ
ほどにと
急ぎ
つる
文も、
たゆ
みぬる
こそ
うしろ
め
たけ
れ。
でぬる
人も、
いつの
程に
かと
見えて、
萩の
露
ながら
あるに
つけて
あれど、
え
さし
出でず。
香の
かの
いみじう
しめたる
匂
いと
をかし。
あまり
はした
なき
程に
なれば、
立ち
出でて、
わが
き
つる
處も
かくやと
思ひ
やらるるも
をかし
かり
ぬべし。
ーーーーー
・・・
「アジア帝国主義の曙」の原点は「明治維新」である・・・欧米の侵略からナンとか免れたのは「帝国日本」が欧米の「帝国主義・植民地主義」を摸倣し、それに「帝国」としての「軍事力の国家」として対抗しえたからである。だが、20世紀(1900~2000年)、国家間戦争で信じられないような「数字の命」が、「膨大な赤い血」が、「戦場」、「戦場以外」でも流れた。そして、一発、二発、の、「原爆」が一瞬のうちに10万、20万と言う人間を「蒸発」させてしまった。そして、今現在、世界中の「市民社会」は「国家の枠を超えた戦場」になっている。見つけた「不発弾の処理」は出来るが、見つからない「不発弾」は「地雷」である。年間、1200件の処理されている「アサリの浅瀬の海」があるらしい。沖縄では「不発弾処理」はマイニチの日常である・・・
対戦国チームがあってのサッカーだが、サッカー場の熱気と歓喜が「国家間戦争」へと変わらないことを祈りたい・・・
「国家エゴ」は「国家内の階級意識のエゴ」である・・・それが「立憲主義」であろうが、「法治主義」であろうが、「専制独裁」であろうが、「自由主義」であろうが、その「政治体制」を支える「経済」の原点は、「国家的資本主義的生産様式」で生産された製品を商品として国内外への「市場」で「売買」するコトであり、利益を上げることである。そして「地球規模の階級意識エゴ」で、その「ルール」の原点は個々人が「儲けるコト」ができ、儲けた利益は「蓄財」できる、と言う「単純なルール」である。「私有財産制度の階級意識」である。
「努力」すればチャンスはミンナにある、と言うルールである。だが、チャンスとはタカラクジと同じで、買っても買わなくてもイイチャンスでもある・・・「博打意識」を煽って提供しているのは「胴元」である。ダレでもが「金持ち」になれ、ダレでもが「出世で生活が安定出来る」のハズだが、「博打」はダレでもソレを保障してくれないのはアタリマエである・・・
日曜日のTV番組で「ハキリ蟻(虫+義)の社会」をみたけれど、現実の人間社会は「アリの漢字」を更に分解した「蟻=中+ム(よこしま)+義」である・・・アレが「社会主義社会」なのか?・・・過酷な自然と向き合い、その自然を守る中で「公平な食料分配と住居は茸栽培農業を協業(女王アリ、体格の大小、その外的形態器官も異なるアリが10種類、巣には100万匹。収穫、運搬、道路整備、防衛、農地開拓、30種もの専門職を分担)するコトで実現」されているようにも観えるが、「人間」が目指す「社会」とは違うように思える・・・「蟻」は「昆虫」である・・・だが、外敵とも戦うし、「伝染病」にもアリなりの対処もしているようだ・・・
人間のボクから観れば「種の保存」のみにだけの「一生」・・・で、あるように思える・・・が、違うかも・・・アリさんたちの「気持ち」は判らないから・・・
「中華人民共和国」の「帝国主義的覇権主義?」の原点は「孫文」であった・・・孫文の「三民主義」は現実には「明治維新」を観、「欧米諸国」を観、その「帝国主義」諸国家の理不尽の中で「三民主偽」にならざるを得なかった・・・彼は「国家枠の資本主義」を目指したのサッ・・・帝国主義的国家間の利害関係での中で現実は「武力妥協」、「外交妥協」で、それが出来る「国家建設」でしかありえなかった・・・彼は「中国革命」のプロセスで「帝国日本」に自国の権益を譲渡しようとしていた・・・
当然、彼は「明治維新の日本人」と「同時代の人間」である。そして当然にも「明治国家」に憧れていたのだ。
兎に角、この同時代の彼らの「生年月日」と、それに附随する「履歴」の「年月日」は「日本歴史」がナニを語ろうとしているかの「カギ」である・・・
ーーー↓参照、引用原文は以下
三民主義 - Wikipedia
ーー
孫文 - Wikipedia
ーーー↓
孫文
孫文
孫文(そん ぶん)
1866年
11月
12日
(清同治五年十月初六日)
~
1925年
3月12日
(民国十四年)三月十二日
初代中華民国
臨時大総統
中国国民党総理
ーー
中華民国
初代臨時大総統
任期
1912年1月1日~1912年4月1日
中華民国
中国国民党総理
任期
1919年
10月
10日
~
1925年
3月
12日
辛亥革命の中心的人物
孫中山の名称が一般的
譜名は徳明
字は載之
号は日新 、逸仙 (Yìxiān) または中山
幼名は帝象
他に
中山樵、
高野長雄
欧米では
孫逸仙(Sun Yat-sen)
ポルトガルの植民地の
マカオでは医師だった
日本滞在中は
中山 樵(なかやま きこり)」
1935年~1948年までの
発行法幣(不換紙幣)の肖像画
(ウィキペディア)
誕生地は
広東省
広州府
香山県
翠亨村(中山市)
死没地は北京市
政党は中国国民党
配偶者は
宋慶齢 (1915年~1925年)
大月薫 (1903年~1906年)
盧慕貞 (1885年~1915年)
子は孫科
ーーー
清仏戦争を切っ掛けに
1894年1月
ハワイで
興中会を組織
1895年
日清戦争の終結後
武装蜂起(広州蜂起)を企てたる
密告され日本に亡命
1897年
宮崎滔天の紹介で
政治団体
玄洋社の
頭山満と出会う
頭山を通じて
平岡浩太郎から活動費と生活費の援助を受る
早稲田鶴巻町の
二千平方メートルの屋敷は
犬養毅が斡旋
1899年
義和団の乱が発生
1900年
孫文は恵州で再度挙兵
失敗
1902年
日本人の
大月薫と結婚
アメリカを経てイギリスに渡り、
一時清国公使館に拘留
その体験を『倫敦被難記』として発表
1904年
「1870年
11月
ハワイの
マウイ島生まれ」として
アメリカ国籍取得
1905年
ヨーロッパから帰国
宮崎滔天らの援助で
東京池袋にて
興中会、
光復会、
華興会を糾合し
中国同盟会を結成
留学中の
蒋介石と会う
1911年
10月
10日
共進会と同学会の指導下、
武昌蜂起
各省がこれに呼応して
辛亥革命に発展
当時、孫文はアメリカに滞在
12月25日
上海に帰着
1912年
1月
1日
臨時大総統として
南京に
中華民国政府を
樹立
1913年(大正二年)
3月
国会議員選挙
中国同盟会を発展させた、
国民党が
870議席の内
401議席獲得
宋教仁を総理とした
袁世凱は自身の権力拡大を計り、
宋教仁を暗殺し、国民党弾圧
7月
袁世凱打倒の第二革命
1914年
孫文は中華革命党を組織
袁は議会解散を強行
1915年
共和制を廃止、帝政を復活
袁世凱が
中華帝国大皇帝に即位
反袁・反帝政の
第三革命が展開
1916年
袁は病死
段祺瑞が後継者になる
1917年
広州で
広東軍政府を樹立
広西派の
陸栄廷を攻撃
第一次護法運動は失敗
第二次護法運動は
陳炯明との路線対立で
広州を追われた
孫文は一時、日本へ亡命
「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」と
犬養毅へ送った
宋嘉樹の
次女の
宋慶齢と結婚
梅屋庄吉が資金面で支援
1915年
第一次世界大戦中の
日本が
対華21ヶ条要求を北京政府に要求
1917年
ロシア革命
第一次世界大戦後の
1919年1月
パリ講和会議によって
ドイツから
山東省権益が日本に譲渡
中国全土で
「反日愛国運動(五・四運動)」
陳独秀や毛沢東
孫文は
「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換
ロシアから
コミンテルン代表の
ボロディンを
国民党最高顧問に迎え、
国民革命軍と軍官学校を設立
1922年
広東駐在武官の
佐々木到一は
孫文の
陳炯明追放要請を受け、
孫文の軍事顧問となる
1923年1月26日
孫文と
ソビエト連邦代表
アドリフ・ヨッフェの
「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表
中国統一運動に対する
ソビエト連邦の支援を誓約
2月21日
広東で
孫文は
大元帥就任(第三次広東政府)
1923年
6月
中国共産党第三回全国代表大会
コミンテルン代表
マーリン指導で、
国共合作が方針
コミンテルンの
工作員
ミハイル・ボロディンは、
孫文の軍事顧問・国民党最高顧問
1924年
1月
20日
第一次国共合作が成立
黄埔軍官学校設立
国民革命軍の組織を開始
1925年
中国人革命家育成機関
モスクワ中山大学が設立
1924年
10月
孫文は北上宣言
11月
日本の神戸で
「大アジア主義講演」
日本に対して
「西洋覇道の走狗となるのか、
東洋王道の守護者となるのか」
東洋の王道・平和の思想を説き、
日中の友好を訴えた。
ーーー
ーーー
ーーー↓カタカナ・・・ウイッキペデアから参考抜粋
吉備真備が片仮名を作ったという説
片仮名の起源は9世紀初め
奈良の古宗派の学僧たちの間で
漢文を
和読するために、
訓点として
借字(万葉仮名)の
一部の
字画を省略し付記したものに始まる
記号的・符号的性格が強い
十世紀中頃までは異体字が多く見られ、
字体の整理は
十二世紀
『うつほ物語』の
「国譲上」の巻において
「書の手本」の中に
片仮名があげられている
江戸時代の学者
伴信友は、平安時代後期に成立したと見られる
『堤中納言物語』の
「虫めづる姫君」に、
虫愛づる姫君が男から送られた恋文に対して
「仮名(平仮名)は
まだ書き給はざりければ、
かたかんな(片仮名)に」返事を書いた
戦前は正式な文字とみなされ、
法令全書
その他の
公文書で用いられ、
教育面でも
平仮名に先行して教えられた
現代の片仮名では
明治三十三年(1900年)の
小学校令施行規則で
一音一字の原則に従い、
標準とされた字体だけが普及
ーーー↓片仮名・カタカナ
漢文訓読における添え仮名
文章の表記に用いる場合
仮名交文
音を示すことを目的とする場合
外来語、
漢字文化圏の国を除く
外国の人名・地名などの固有名詞
擬音語・擬態語
漢字の音(音読み、固有名詞の特殊な読み、日本語以外の言語での発音、常用漢字外の文字の仮名表記)
一般と異なる表記による効果を目的とする場合
学術用語
生物の和名(イヌ、キジ、サクラなど)
意図をもって表記するとき
日本語で砕けた表現をする場合
会社名や商品名などの表記
漫画等において
外国人の
片言での会話を表現するとき
技術的な理由から
使用可能な文字が限られている場合
1988年8月以前の
電報
日本語以外では、
アイヌ語表記にも使われる。
日本統治時代の
台湾語の表記に使われた
ーーー
「イ」「エ」を180度回転させた文字が、ヤ行の「イ」「エ」として用いられたことがある。これは江戸時代の音韻学において、「ヤ行やワ行の『イ』『エ』にも独自の文字を当てるべきではないか」という考えが生じたために作られた記号であり、一般に通用する文字ではない。用いられた記号も、学者によって異なる場合がある。
「キ」については「幾」の草体の変形、ならびに平仮名「き」の変形とする説がある。
「ケ」については「箇」の異体字である「个」の変形とする説がある。
「ツ」については「州」の草体、「門」の草体、または「津」の一部とする諸説がある。
「ト」については「外」の旁を採ったとする説がある。
「ユ」については「弓」の最初の2画を採ったとする説も以前からある。
「ヰ」「ヱ」は、現在歴史的仮名遣においてのみ用いられる。
「ヰ」は「井」の草体を変形させたものである。
「ヱ」については「慧」の草体の一部を採ったとする説もある。
「ワ」については「輪」の意の記号「○」を「()」と2画で書いたところから生まれたとする説がある。
「ン」については漢字でなく撥音を表す記号(V)の変形とする説もある。
ーーー
枕草子
(四三段)・・・四拾参・四十三・四参・肆足参
4+3=7=七=漆
4×3=12=十二=壱拾弐
七月
ばかり、
いみじく
暑ければ、
よろづの
所
あけながら
夜も
あかす
に、
月の
ころ
は
寐起きて
見いだす
も
いと
をかし。
闇も
また
をかし。
有明は
たいふも
おろか
なり。
いと
つややか
なる
板の
端
近う、
あざやか
なる
疊
一枚
かり
そめに
うち
敷きて、
三尺の
儿帳、
奧の
かたに
押しやり
たる
ぞ
あぢき
なき。
端に
こそ
立つ
べけれ、
奧の
うしろ
め
たからん
よ。
人は
出で
に
ける
なる
べし。
薄色の
うら
いと
濃くて、
うへは
少し
かへり
たる
ならず
は、
濃き
綾の
つやや
かなるが、
いたく
はな
えぬを、
かしら
こめて
ひき
著てぞ
ねためる。
香染の
ひと
へ、
紅の
こまやかなる
すずしの
袴の、
腰
いと
長く
衣の
下より
ひかれ
たるも、
まだ
解け
ながら
な
めり。
傍の
かたに
髮の
うち
たたなはりて
ゆららか
なるほど、
長き
推し
はかられ
たるに、
又
いづこ
より
にか
あらん、
朝
ぼらけの
いみじう
霧
滿ちたる
に、
二藍の
指貫、
あるか
なきかの
香染の
狩衣、
白き
すずし、
紅の
いと
つややか
なる
うちぎぬの、
霧
に
いたく
しめり
たるを
ぬぎ
垂れて、
鬢の
少し
ふくだ
み
たれば、
烏帽子の
押し
入れら
れたる
けしき
もしどけ
なく
見ゆ。
朝顏の
露
落ちぬ
さきに
文
書かんとて、
道の
ほども
心もとなく、
おふの
下草
など
口ずさびて、
わがかたへ
行くに、
格子の
あがり
たれば、
御簾の
そばを
いささか
あげて見るに、
起きて
いぬらん
人も
をかし。
露を
あはれと
思ふ
にや、
しばし
見たれば、
枕
がみの
かたに、
朴に
紫の
紙はりたる
扇、
ひろごり
ながら
あり。
檀紙の
疊紙の
ほそやか
なるが、
花か
紅か、
少し
にほひ
うつり
たるも
儿帳の
もとに
散り
ぼひ
たる。
人の
けはひ
あれば、
衣の中より
見るに、
うち笑みて
長押に
おしかかり
ゐたれば、
はぢ
など
する人
には
あらねど、
うち
とくべき
心ばへ
にも
あらぬに、
ねたうも
見えぬる
かなと
思ふ。
「こよなき
名殘の
御あさ
いか
な」とて、
簾の
中に
半ばかり
入りたれば、
「露より
さきなる
人の
もどか
しさ
に」
と
いらふ。
をかしき事
とりたてて
書くべきに
あらねど、
かく
言ひ
かはす
けしき
ども
にくからず。
枕
がみなる
扇を、
我
もちたる
して
およびて
かき
寄するが、
あまり
近う
寄り
くる
にやと
心
ときめき
せ
られて、
今
少し
引き
入らるる。
取りて
見など
して、
疎く
おぼし
たる事
など
うち
かすめ
恨み
など
するに、
あかう
なりて、
人の
聲々し、
日も
さし
出でぬ
べし。
霧の
絶間
見えぬ
ほどにと
急ぎ
つる
文も、
たゆ
みぬる
こそ
うしろ
め
たけ
れ。
でぬる
人も、
いつの
程に
かと
見えて、
萩の
露
ながら
あるに
つけて
あれど、
え
さし
出でず。
香の
かの
いみじう
しめたる
匂
いと
をかし。
あまり
はした
なき
程に
なれば、
立ち
出でて、
わが
き
つる
處も
かくやと
思ひ
やらるるも
をかし
かり
ぬべし。
ーーーーー
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