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コジキジゲン

馬鞍の創始

2013-06-18 23:30:58 | 古事記字源
 風疹?・・・風聞・・・風文・・・風の便り・・・長い文章は・・・読むのも書くのも、厭(嫌)になる・・・「クラウドソーシング(crowdsourcing)」形式で「枕草子(まくらのそうし・マクラノソウシ・マクラのソウシ・マクラのクサのコ・ま-く-ら-の-そ-う-し・チンソウシ・チンのソウのシ・チンのグサのコ・)の文字」を「解釈」したらドウなる・・・?・・・のカナ・・・明治「文+明」、「文+化」・・・
ーー↓まくらのそうし

 「幕等乃壮士=佐幕」

 「巻(捲)螺之創始=種子島=鉄砲」

 「蒔玖等之繰覗=王宮絵巻」

 「膜羅能藪視=藪睨・斜視・乜」、

 「真暗之相思=日食・真夜中の子刻」、

 「馬鞍埜宗氏=蘇我馬子・蝦夷・入鹿=海豚」、

 「磨蔵之争死=播磨、赤穂、忠臣蔵、大石蔵之助」

        播磨国、兵庫県

        播州・「針間国」・「幡麻国」

        加古郡の自治体名「播磨町」

 「麻倉廼荘子=朝倉氏先祖、

        日下部氏嫡流を称する

        但馬の古代武士団

        越前土着豪族

        南北朝時代、越前守護の

        斯波氏の重臣」

  朝倉孝景(越前朝倉氏の七代目当主)

  応永三十五年四月十九日(1428年6月2日)

    ~

  文明十三年七月二十六日(1481年8月21日)

  当初は

  教景と名乗り、次いで

  敏景→教景→孝景と改名

  同名の曾孫と区別し「朝倉敏景」と表記

  法名は

  英林孝景

  分国法の「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」を制定

  応仁元年(1467年)

  応仁の乱

  孝景は主家の

  斯波義廉と協力して西軍

  御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦い

  主要合戦に参戦、

  伏見稲荷に籠もって

  西軍を苦しめた

  足軽大将

  骨皮道賢を討ち取った

  ・・・「骨皮道賢」?・・・これが「氏・姓名」?・・・嗚可思惟、いと、可笑しい、可変しい・・・以下に原文を添付・・・

ーー↓

朝倉孝景 (七代当主) - Wikipedia

ーー↓

   枕草子        枕

  \―――       枕草子

 枕|草子枕      枕草子枕草

 草|子枕草     枕草子枕草子枕

 子|枕草子    枕草子枕草子枕草子

         枕草子枕草子枕草子枕子

ーーーーー↓

 枕草子

 (五七段)・・・五拾七段・五十七段・伍足漆段

         5+7=12=十二=壱拾弐=拾弐=足弐

         5×7=35=三十五=参拾五=参足伍=

 職の・・・・・「初句

        食・織

        色・蝕・蜀

        飾・植・埴

        殖・識」

        之

 御・・・・・・禦・音・語

 曹・・・・・・操・騒・捜

 司の・・・・・詞・視・示

 西面の・・・・差異面

 立蔀の・・・・立=リツ・たつ→建

        蔀=ブ・ボウ・しとみ

         =丱(サ・廾)+部

 もと・・・・・本・元・下・基・素・許

 にて、・・・・爾出・似出・邇出

 頭辨の、・・・蔵人頭を兼務する弁官(役人)

        頭を弁(わき)える→辮髪

        トウベン=答弁・問う弁

 人と・・・・・比図・日都

       「訊・壬・陣・仁・神」途(賭)

 物を

 いと

 久しく

 いひ

 たち

 給へれば、

 さし

 出でて、

 「それは

  誰ぞ」と

 いへば、

 「辨の・・・・・弁之

  内侍・・・・・名意字

  なり」と・・・名理渡

 の給ふ。

 「何かは

  さも・・・・・作模・差摸

  かた・・・・・過多・加汰・掛他・片=扁

  らひ・・・・・等意

  給ふ。

  大辨・・・・・代弁・大便・題弁

  見えば、

  うち

  すて

  奉りて

  いなん・・・・意名務

  もの

  を」と

  いへば、

  いみじく

  笑ひて、・・・話等意出

 「誰か

  かかる

  事を・・・・・字嗚(於・緒・尾・牡)

  さへ・・・・・差重・作得

  いひ・・・・・意比

  聞かせ

  けん、・・・・兼

  それ

  さ

  なせ・・・・・名施

  そ

  と

  かたらふ

  なり」と

  の給(のたま)ふ。

 いみじく

 見えて、

 をかしき

 筋

 など

 たてたる

 事は

 なくて、

 ただ

 あり

 なる

 やう

 なるを、

 皆・・・・・視名

 人さ

 のみ

 知り

 たる

 に、

 なほ・・・・名補・名保

 奧・・・・・置・憶

 ふ

 か

 き

 御心

 ざまを

 見知り

 たれば、

 「おし・・・緒詞

  なべ・・・名部

  たら

  ず」

 など

 御前・・・・御膳・午前

 にも

 啓し、

 又

 さ

 しろしめ

 したるを、

 常に、・・・通音爾

 「女は・・・音名葉

  おのれを

  悦ぶ者の

  ために

  かほ・・・掛補・化保

  づくりす、

  士は

  おのれを

  知れる人の

  ために

  死ぬと

  いひたる」と

 いひ合せ

 つつ

 申し

 給ふ。

 「遠江の・・・円光・猿考・塩項

  濱・・・・・ヒン→品→本・はま→葉真

  や・・・・・埜=林+十一

  な・・・・・名

  ぎ」・・・・偽・義

 など

 いひ

 かはして

 あるに、

 わかき・・・・和歌紀

 人々は・・・・訊仁葉・比渡秘賭葉

 唯

 いひ

 にくみ、

 見ぐる

 しき

 事ども

 など

 つくろはず

 いふに、

 「この

  君・・・・・訓・薫・勲・釧

  こそ

  うたて

  見

  にくけれ。

  他人の

  やうに

  讀經し、

  歌

  うたひ

  などもせず、

  け

  すさまじ」など

  謗る。・・・・謗=言+旁(かたわら・ボウ・ホウ)

         そしる→措知る・素知る・蘇詞留

 更に

 これ

 かれに

 物いひなどもせず、

 「女は

  目は

  たてざま

  に

  つき、

  眉は

  額に

  おひ

  かかり、

  鼻は

  横ざま

  に

  ありとも、

  ただ

  口つき

  愛敬づき、

  頤の

  した、

  頸など

  を

  かしげにて、

  聲

  にく

  から

  ざらん人

  なん

  思は

  しかるべき。

  とは

  いひながら、

  なほ

  顏の

  いと

  にくげ

  なるは

  心憂し」と

 の給へば、

 まいて

 頤ほそく

 愛敬

 おくれたらん人は、

 あいなう

 かたきにして、

 御前にさへ

 あしう

 啓する。

 物など

 啓せ

 させん

 とても、

 その

 初

 いひ

 そめし

 人を

 たづね、

 下なる

 をも

 呼び

 のぼせ、

 局にも

 來て

 いひ、

 里なる

 には

 文書き

 ても、

 みづから

 も

 おはして、

 「遲く

  參らば、

  さなん

  申し

  たると

  申し

  に

  參らせよ」などの給ふ。

 「その人の

  侍ふ」

 など

 いひ

 出づれど、

 さし

 も

 うけ

 ひかず

 など

 ぞ

 おはする。

 「あるに

  隨ひ、

  定めず、

  何事も

  もて

  なし

  たる

  を

  こそ、

  よき

  事

  には

  すれ」と

 うしろみ

 聞ゆれど、

 「わが

  もとの

  心の

  本性」と

 のみ

 の

 給ひ

 つつ、

 「改らざる

  ものは

  心

  なり」と

 の給へば、

 「さて

  憚り

  なし

  とは

  いかなる

  事を

  いふ

  に

  か」と

 怪し

 がれば、

 笑ひ

 つつ、

 「中

  よし

  など

  人々

  にも

  いはるる。

  かう

  かたらふと

  ならば

  何か

  恥づる、

  見え

  など

  も

  せよ

  かし」と

 の給ふを、

 「いみじく

  にくげ

  なれば、

  さ

  あらん

  はえ

  思はじと

  の給ひ

  し

  に

  よりて、

  え

  見え

  奉らぬ」と

 いへば、

 「實に

  にく

  く

  も

  ぞ

  なる。

  さらば

  な

  見え

  そ」とて、

 おのづから

 見つ

 べき

 をりも

 顏を

 ふたぎ

 など

 して、

 まことに

 見

 給はぬも、

 眞心に

 そら

 ごと

 し給は

 ざり

 けりと

 思ふ

 に、

 三月

 晦日

 頃、

 冬の

 直衣の

 著

 にくき

 にや

 あらん、

 うへの

 衣がち

 にて、

 殿上の

 宿直

 すがた

 も

 あり。

 翌朝

 日さし

 出づる

 まで、

 式部の

 おもと

 と

 廂に

 寢

 たる

 に、

 奧の

 遣戸を

 あけさせ

 給ひて、

 うへの

 御前、

 宮の

 御前

 出で

 させ

 給へ

 れば、

 起きも

 あへず

 まどふを、

 いみじく

 笑はせ

 給ふ。

 唐衣を

 髮の

 うへに

 うち

 著て、

 宿直物も

 何も

 うづもれ

 ながら

 ある

 上に

 おはし

 まして、

 陣より

 出で

 入る

 もの

 など

 御覽ず。

 殿上人の

 つゆ

 知らで、

 より

 來て

 物

 いふ

 なども

 あるを、

 「けしき

  な

  見せ

  そ」

 と

 笑はせ給ふ。

 さて

 たたせ

 給ふ

 に、

 「二人

  ながら

  いざ」と

 仰せ

 らるれど、

 今顏

 など

 つくろひ

 て

 こそ

 とて

 まゐ

 らず。

 入らせ給ひて、

 なほ

 めでたき

 事ども

 いひ

 あはせて

 ゐたる

 に、

 南の

 遣戸の

 そばに、

 儿帳の

 手の

 さし

 出で

 たる

 に

 さはりて、

 簾の

 少し

 あき

 たる

 より、

 黒み

 たる

 もの

 の

 見

 ゆれば、

 のり

 たか

 が

 居

 たる

 な

 めりと

 思ひて、

 見も

 入れ

 で、

 なほ

 事ども

 を

 いふ

 に、

 いと

 よく

 笑み

 たる

 顏の

 さし

 出で

 たる

 を、

 「のり

  たか

  な

  め

  り、

  そは」

 とて

 見

 やり

 たれば、

 あらぬ

 顏なり。

 あさましと

 笑ひ

 さわぎて

 几帳

 ひき

 直し

 かくるれど、

 頭辨に

 こそ

 おはし

 けれ。

 見え

 奉らじと

 しつる

 もの

 を

 と、

 いと

 くちをし。

 もろともに

 居

 たる

 人は、

 こなたに

 向きて

 ゐたれば、

 顏も

 見えず。

 立ち

 出でて、

 「いみじく

  名

  殘なく

  見つる

  かな」と

 の給へば、

 「のり

  たか

  と

  思ひ

  侍れば、

  あな

  づりて

  ぞ

  かし。

  など

  かは

  見じ

  との

  給ひ

  しに、

  さ

  つく

  づく

  とは」と

 いふに、

 「女は

  寢

  おき

  たる

  顏

  なん

  いと

  よき

  と

  いへば、

  ある

  人の

  局に

  行きて

 かいば

 みして、

 又

 も

 し

 見え

 や

 する

 とて

 來り

 つる

 なり。

 まだ

 うへの

 おはし

 つる

 折

 から

 あるを、

 え

 知ら

 ざり

 ける

 よ」とて、

 それより

 後は、

 局の

 すだれ

 うち

 かづき

 など

 し給ふ

 めり。

ーーーーー

 ・・・いと、ながし・・・

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