・・・「漢字の音訓の読み方」は「日本人の文化」である・・・で、「喩母」って?・・・「中古音の影母・喩母・微母・疑母に由来する声母」・・・「声母・・・影母・喩母」・・・漢字の発音の意味らしい・・・「喩母(云母)」、「喩母かつi介音ありで開となれば、ヤ行のエになる」、「漢字音の研究の喩母」・・・「喩(諭)す母」だが、漢字からして母親の幼児、子供に対する喩(さとす・比喩)コトバだろう・・・「喉音(コウオン)=国語学で、国語音のア・ヤ・ワの3行の音の総称・声門音(セイモンオン)・中国音韻学で、五音 (ゴイン)、 または七音(シチイン)の一・喉頭(コウトウ)で調音される音(声)で、影母・暁母・匣母・喩母の総称」、「呼、喩母于、嗚(四)韻。則爲(容、烏、合)、而無其字。故成呉字。呼、喩母于汪韻。則爲(容、卭、合)、而無其字。故成昂字。(昂五剛切。今法爲恩・・・)」・・・?
兎に角、「漢字」の「音読み」で、音声の発声、音声の出し方の説明らしい・・・漢字の読み方の「規矩(キク)」である・・・
コンパス・定規(ジョウギ・行動や判断のよりどころの基準・手本・寸法や形・・・「規格・規準・規則・規定・規範・規模・規約・規律・軍規・条規・新規・正規・内規・法規」・・・
四文字熟語
規矩縄墨 (キクジョウボク)
規矩標準 (キクヒョウジュン)
規行矩歩 (キコウクホ)
鉤縄規矩(クジョウキク)
規矩準縄(キクジュンジョウ)
規矩元法(キクゲンポウ)
そして、
同音異字漢字の「キク・きく」である・・・
そして、
「菊の名前」である
「chrysanthemum name」
「クリサンセマム 名前」
「クリッサンスマム 名前」
略称は「mum(マム)」・・・「魔夢」・・・?
↓↑
キク
危懼=危惧(キグ)
奇句=奇抜な句・危言
起句=漢詩の第1句・絶句の第1句
起承転結・詩文の書き出しの句
崎嶇=険しいこと・容易でないこと・辛苦
喜懼=喜び、且つ、恐れること
↓↑
きく
利く=効く=効果・効き目・甲斐がある
聞く=聴く=声を耳に受ける・耳に感じ取る
訊く=尋ねる・訊問
↓↑
キク
菊=キク科の多年草
菊花・寒菊・観菊・残菊・白菊・野菊
掬=すくう・むすぶ・水をすくう
掬水・一掬
麹=こうじ・こうじ
麹塵(キクジン)
酒・麹君・麹車
鞠=まり
蹴鞠(シュウキク)
身を丸くかがめる
菊秋=きくあき
陰暦九月の異称
菊月(きくづき)
ーーーーー
↓↑
人名の
「菊(キク)」
文禄四年七月二日(1595年8月7日)
~
元和元年六月六日(1615年7月1日)
豊臣秀次の娘
母は
淡輪徹斎隆重の娘の
小督局
文禄四年(1595年)八月二日
他の38人の豊臣秀次の妻達と共に、
31歳で京都の
三条河原で処刑
↓↑
お菊の皿
古典落語の演目の一
古典的な怪談である
皿屋敷を下敷きとした噺
別名「皿屋敷」
上方落語で
2代目
桂枝雀
3代目
桂春団治
などの得意演目
東京では6代目
三遊亭圓生が
2代目
桂三木助から教わった
↓↑
お菊
播州皿屋敷
お菊井戸
↓↑
真田幸村の側室
堀田興重の娘、or 妹
その長女の
「阿菊=すへ」・・・ 石合重定=道定の室
↓↑
趙州院(チョウシュウイン)
?~寛文六年五月十三日
(1666年6月15日)
名は一説に
「於菊」
↓↑
真田昌幸の五女で、
真田信之
真田信繁(幸村)
らの妹
はじめ
宇多頼次(石田刑部少輔、河内守)に嫁いだ
宇多頼次は
石田三成の舅
宇多頼忠の甥で、
三成の
父・正継の猶子となり、
石田刑部少輔を称した。
娘が
宇多頼次に嫁いだ関係から、
父の
真田昌幸は
関ヶ原の戦いの際に
石田三成の西軍に加担
↓↑
慶長五年(1600年)
関ヶ原の戦い
西軍が敗北
宇多頼次は
九月十七日
石田三成の居城
佐和山城で自刃
↓↑
趙州院は離縁し
逃た後に、
滝川一積(三九郎、滝川一益の孫)
に再嫁
↓↑
大坂の陣の後、
寛永九年(1632年)
滝川一積は
幕府から
真田信繁の娘を
養女として
他家に嫁がせ
幕府使番の職を解かれて除封
その後は
京六条付近に夫婦で隠棲
その際、
松代藩より500石の
合力米が出された
↓↑
寛永十九年(1642年)
寿像(肖像画)が
描かれ、
東禅寺嶺南が賛を記した
夫の死後、菩提寺として
妙心寺に
趙州院を建立し、
甥の
石禅を開山
↓↑
寛文六年(1666年)に死去
法名は
趙州院殿
瑚月妙珊大姉
自らが建てた
妙心寺趙州院に葬られた
↓↑
お菊(阿菊、於菊、おきく)は人名。
↓↑
お菊=豊臣秀次の娘
お菊=怪談、皿屋敷に登場する人物、亡霊
阿菊=真田信繁の娘。別名、すへ
阿菊=上杉景勝の正室
菊姫 (上杉景勝正室=阿菊御料人)
於菊=真田太平記の登場人物
史実における
真田昌幸の五女(趙州院)
於菊=豊臣秀次の側室
伊丹忠親の孫
於菊の前
↓↑ ↓↑
菊
(文禄四年七月二日・1595年8月7日)
~
元和元年六月六日・1615年7月1日)
豊臣秀次の娘
母は
淡輪徹斎隆重の娘の
小督局
↓↑
母の小督局は
文禄4年(1595年)8月2日
に他の
38人の
豊臣秀次の妻達と共に、
31歳で京都の三条河原で処刑
しかし、
菊はまだ生後一ヶ月で、女子で
助命され、
菊の祖父の
弟の子供である
後藤興義に預けられた
↓↑
菊は、
元和元年(1615年)4月20日
紀伊国の代官である
山口安弘=山口安弘喜内の嫡男
山口朝安=山口朝安兵内の元に嫁いだ
その年に
大坂夏の陣が起こり、
淡輪家・後藤家・山口家は豊臣方に味方し
菊の夫の朝安はわずか結婚5日目に大坂城入
山口の城は敵軍に囲まれ、
援軍を求めるために
菊は
舅の安弘の命令により、
密書を持ち農夫の姿になり
敵軍の包囲を脱出
風吹峠から尾根伝いに北へ向かい、
信達山中で
男装に変え、
大坂城に入って使命を果たした
その帰り、
樫井川で敵方に返書を奪われた
↓↑
大阪方は敗れ、
菊の養父の
後藤興義
叔父の
淡輪重政達は、
樫井川の合戦で
四月二十九日に討ち死
菊の夫の
朝安も
五月七日に討ち死
五月八日に大坂城落城
後、
菊は後藤家に身を隠したが、
敵の
浅野方に捕らえられ、
同年の
六月六日に
紀伊南の河原で処刑
享年20
養母の静は
菊を哀れみ、
後藤家の菩提寺
法福寺に
菊の木像を納め、冥福を祈った
↓↑↓↑
姫路城城主が
木下家定であった頃、
宮本武蔵は名前を隠し姫路で
足軽奉公をしていた
城内では天守に妖怪がでるという
噂が広まった
髪が伸びる
「お菊人形」
↓↑
番町に
青山鉄山の武家屋敷があった
腰元の
お菊
がおり
鉄山は
お菊に横惚れたが
お菊に
三平という夫が居た
その為
意趣返しと言う事で、
10枚組の葵の皿を預け、1枚だけ隠した
怪談・「皿屋敷」の「お菊」
↓↑ ↓↑
姫路城内の
播州皿屋敷
お菊の
井戸
姫路城の
上山里(かみのやまさと)
曲輪に、
お菊井戸があり
播州皿屋敷で知られる
お菊の井戸
皿屋敷譚の主人公
主人秘蔵の皿をわったため
惨殺され
井戸になげこまれた
のちに
怨霊となって
皿をかぞえる
物語は
元和(ゲンナ)~元禄(ゲンロク・1615~1704)
のころ
江戸、播磨(はりま=兵庫県)
をはじめ全国各地に伝承
ーーーーー
菊の御紋・紋章
↓↑
後鳥羽上皇(1183~1198)
が
身の回りのものに
菊に関するモノを施し、
その時期に
天皇および皇室の紋となった
鎌倉時代には
蒔絵や衣装の文様として流行
日本の南北朝時代以降には
天皇より下賜されることにより
公家や武家の間で家紋として使用
↓↑
九州豪族
菊池氏も・・・本姓、藤原氏、本拠地
↓↑ 久々智(鞠智)
九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)
西郷隆盛も菊池一族の末裔
藤原則隆が
御三条天皇の
延久二年
肥後の国菊池郡に下向
阿蘇山麓下流に流れている
菊池川の畔深川の地に構え
地名をとって
菊池氏を称した
↓↑ 菊池氏
四代
経宗
五代
経直は
鳥羽院武者所に任じられ奉仕
室町時代
岩手への下った
菊池氏の支流が「菊地」に改姓
肥後の菊池は昔は
「ククチ」と読んで
↓↑ 「久々智(鞠智)」と書いた
家紋に
「菊花」
もしくは
「菊葉」
を使用
↓↑
宮中では
菊の節句
重陽の節句
(旧暦九月九日)
黄色の菊→記句⇒「おぼろげな思い出」
「失恋」
献花として菊が使用
(慣習として故人への供花とされ、
病室への見舞いの花としては忌避される)
↓↑
「万葉集」には
157種の植物が登場
菊を詠んだ歌は一首もない・・・「菊の紋章=太陽?」は
オリエンタル
メソポタミア
飛鳥時代・奈良時代の日本に
菊がなかった・・・
「古今和歌集(905年)」
「枕草子(996年頃)」
清少納言の随筆
「源氏物語(1010年頃)」
紫式部
の時代になって登場・・・
「源氏物語」に多く登場する草花は、
ナデシコ(撫子)
キク(菊)
オミナエシ(女郎花)
の順・・・
↓↑
菊の
異称
↓↑
隠逸花(インイツカ)・・・「隠し逸(それる)花」?
周敦頤の
愛蓮説の一文
「菊、花之隠逸者也」・・・
陰君子(インクンシ)=隠遁する有徳の人
菊の異称
「逸=それる・はやる・イン・イツ
ある場所からさっと抜け去る
逸出・逸走・後逸
横にそれて逃れる
抜けて見えなくなる
逸脱・散逸
世間に知られていない
逸事・逸聞・逸話」
↓↑
星見草(ほしみぐさ)・・・菊の異称
霜見草(しもみぐさ)・・・菊の異称
特に「寒菊」の異称
↓↑
千代見草(ちよみぐさ)
菊、松の異称
↓↑ ↓↑
花言葉
「高貴」「高潔」「高尚」
「清浄」・・・清(水の青)+浄(水の争)
清の山水(纂隋)の争い?
「真の愛」
↓↑
菊の名前
「窮まる(きわまる)」が語源・・・?
「一年の最後に咲く花」という意味
学名=「Chrysanthemum(クリサンセマム)」
ギリシア語の
「chrysos(黄金)」
と
「anthemon(花)」
が語源・・・
↓↑
「菊石」=アンモナイト・・・三笠ダム周辺から発掘多
↓↑ ↓↑
春藤流(しゅんどう-りゅう)
廃絶した
能楽ワキ方の一流儀
↓↑
金春流座付のワキ
後にここから
下掛宝生流が分流
ワキ方
高安流の初世
高安重政が師事した
下掛り系統の
ワキの源流
家譜では
畠山家に仕えていた
春藤六郎次郎長慶を初世
長慶は金春流の脇の仕手
金春源七郎に学んで一家を興し
後に
金春座の
「虎-菊大夫」の子が・・・「虎の菊大夫」って?
長慶の女婿となって
春藤遊巽と名乗り(「隣忠見聞集」)
師家金春源七郎家が廃絶し、
同家は金春流の本ワキとなった
↓↑
三世道覚
「髭春藤」のアダ(綽・渾)名
四世寿朴の代に至って、
徳川綱吉の命により弟
権七(祐玄)が
別家して
下掛宝生流を興し、
宝生流の座付となった
六世は
五世道定の子で中興の祖
↓↑
明治維新後
十二世春藤高明が
1893年に後嗣を欠いたまま没
門弟の
浅草
鳥越神社神職
鏑木祚胤が
伝書・伝来品などを
預かって芸系を守った
1922年
祚胤の子
建男が宗家代理となるものの流勢ふるわず
子の
岑男の代からは
下掛宝生流に転じ、
同流は廃絶
ーーーーー
↓↑ ↓↑
鴨長明
賀茂御祖神社の
禰宜の
鴨長継の次男
京都で生まれた
高松院の愛護を受け、
応保元年(1161年)
従五位下に叙爵され
承安二年(1172年)頃
長継が没した後、
安元元年(1175年)
長継の後を継いだ
禰宜・鴨祐季
と
延暦寺との間で土地争いで
祐季が失脚
長明は
鴨祐兼とその後任を争うが、
敗北
↓↑
和歌を
俊恵の門下として、
琵琶を楽所預の
中原有安に学ぶ
歌人として活躍し、
歌林苑の会衆として
賀茂重保撰の
『月詣和歌集』に入撰
『千載和歌集』にも
「よみ人知らず」・・・「よみ人知らず」とはナニか?
として入集
以降、
石清水宮若宮社歌合
正治後度百首、
新宮撰歌合、
和歌所撰歌合、
三体和歌、
俊成卿九十賀宴、
元久詩歌合などに
出詠し、
建仁元年(1201年)八月
和歌所寄人に任命された
↓↑
元久元年(1204年)
河合社(ただすのやしろ)の
禰宜の職に欠員が生じ
長明は就任を望み
後鳥羽院から推挙の内意も得えたが
賀茂御祖神社
禰宜の
鴨祐兼が長男の
祐頼を推し
長明の神職は閉ざされた
長明は出家し、
東山次いで大原、
日野に閑居生活を行った
出家後は
蓮胤(レンイン)を名乗った
建暦元年(1211年)
飛鳥井雅経の推挙を受け
将軍
源実朝の和歌の師として
鎌倉に下向したが、
受け入られず失敗・・・
↓↑
建暦二年(1212年)
「方丈記」は和漢混淆文
他に歌論書の
「無名抄」
説話の
「発心集(1216年以前成立)」
歌集の
「鴨長明集(養和元年(1181年)」
「千載和歌集(1首)」以下の
勅撰和歌集に
25首が入集
↓↑
光行賀茂社の歌合で
「石川やセミの小川」
を出詠し、賀茂川の異名と顕昭に告げ、
蟬(せみ・蝉)の小川を使用した歌を多作し
禰宜の鴨祐兼から非難された
↓↑
「文机談」
長明が出家遁世した経緯の伝
琵琶の師の死亡後
演奏禁止の秘曲
「啄木」を演奏したため・・・「啄木」?
↓↑
建暦元年(1211)十月大十三日辛夘
鴨社氏人
菊大夫
長明入道(蓮胤)
依雅經朝臣之擧。此間下向。
奉謁、將軍家。及度々云々。
而今日當于幕下將軍御忌日。
參彼法花堂。念誦讀經之間。
懷舊之涙頻相催。
註一首和歌於堂柱。
「草モ木モ 靡シ秋ノ 霜消テ 空キ苔ヲ 拂ウ山風」
↓↑
代表作品
「方丈記」、
その他に
「発心集」、「無名抄」
通称、
「菊大夫(きくだゆう)」
出家後の法名
「蓮胤(レンイン)」
↓↑↓↑
北極北米のオオカミ
白い毛皮を持ち尾の先端が黒い
(wolf of Arctic
North America having white fur
and a black-tipped tail)
↓↑
北極狼
ホッキョクオオカミ
(学名:Canis lupus arctos)
北極圏周辺に棲息するオオカミの亜種の一
↓↑
the Arctic Ocean=北極海・北氷洋
Arctic Circle=北極圏
23°27′の圏内
antarctic=南極
語源はギリシャ語
「大熊座に近い」の意・・・熊本・大隈・羆・月の輪熊
熊襲
「the Antarctic Pole=南極」.
ギリシャ語「北と対をなす」の意
「(ANTI‐+Arktikós =大熊座に近い・北の」
ーーーーー
・・・???・・・「キク(クク)のチの名前」・・・