gooブログはじめました!キリヤ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
コジキジゲン

ヤスキぶし、イト、おかし・・・「伊都」って?

2013-04-23 18:56:52 | 古事記字源
 「国際関係・国家間関係」がドウのコウの、と言っているうちに諸国家の「国内問題」が「自然災害・鳥インフルエンザ・地震」、「工場煤煙」、「自国内国籍者のテロ、爆弾銃撃」、「飼料工場の大規模爆発」・・・それに大規模な「製粉機内の密輸麻薬」・・・「北のミサイル」なんかは吹っ飛んじゃっている・・・10キログラム3000円以下の米は農協にもスーパーにも無い・・・昨日はTVが映ったのに今日は「E202」で「受信できません」の画面・・・世界は「事件」で人が死ぬ数よりも、「交通事故」で人が死ぬ数がダントツで、「餓え」で死ぬ子供の数はそれ以上にダンダントツ・・・月日の「同数字」が重なる日をニホンでは「おまつり」とするのは「女の子の健康祈願」だが、ナゼ、「女の子」なのか?・・・「男の子」は、多分、ドウでもヨカッタんじゃぁナカろうか・・・?
 「節句」・・・事典、ブログ記事を調べても「節季・節気」からの説明と、それらの「モノガタリ由来」があるが、「節句」そのものの「漢字の語源説明」が「漢字の意味」からは無いようだ・・・「節(ふし・ぶし・セツ)-句(ク)」とは、まさに「文章上の節と句」であろう・・・

 「ウイッキペデア」には「節」とは、

 多くの場合「節目(ふしめ)」とも言う

 変化する箇所や時期など

 節(ふし、せつ)

 竹や樹木など、植物の節(ふし)

 ・・・「文法」として通常は、

 複文のなかで

 主節に対してそれを

 修飾したり、

 内部に含まれたりする

 従(属)節のことをいう

 節 (文法)では

 記事や

 文章における

 構成単位

 ・・・とある・・・

 「安来節」は「泥鰌すくいの謡(うた)い」で、元々は「砂金(砂鉄?→蹉跌?)の洗浄、選別のウタイ」だった・・・

 「津軽ジョンがラブし」は「じょんがら」であるのだが・・・

 「ジョン イズ ラヴ」・・・?・・・

 「津軽三味線」はナゼ、激しく「三味線」を叩くようになったのか?・・・「シンナイ流し」の緩慢な「都都逸」の伴奏とは遥かに異質で「イト、おかし」・・・

 弦楽器(琵琶)の発祥は中東らしく、インド、

 中国南部において「三絃」が成立。

 この「三絃」が

 沖縄を経て

 畿内に持ち込まれ(異説あり)、

 江戸時代中期に日本独特の三味線となった。

 以降、三味線は日本各地の

 土着芸能と融合して様々に発達し、

 当時日本最北端であった

 津軽地方において津軽三味線となる。

 津軽三味線の楽曲の原型は、

 新潟地方の

 瞽女(ごぜ)の三味線

 北前船によって日本海側各地の音楽が

 津軽に伝わり、

 津軽民謡は独特の発達をした。

 津軽地方においては

 ボサマと言われる

 男性

 視覚障害者の・・・「盲目・めくら←差別用語ではなく、歴史的概念として読んでください」・・・

 門付け芸として

 長く蔑まれていた・・・らしい・・・

 「コブシをマワス」・・・って?

ーー↓

 慶長二年(一五九七年)

 二月

 二十日

 浅石城主・・・浅+石→浅井+大石→忠臣蔵?

 十一代の

 千徳

 安芸之助政保が、・・・安芸→安岐→安来→安城

 西根賀田の城主

 大浦為信の大軍に攻められ、

 十日間悪戦苦闘を続け

 二十八日の早朝、

 城後にまわった敵将

 森岡金吾、

 木村越後等の

 一隊に火をかけられ、

 城主政保は

 近侍

 十五名と共に討死し

 家中五百余軒、

 農家八百軒の浅石城は

 仁治元年(一二四〇年)

 千徳

 伊予守・・・愛媛伊予→重秘め異与

       伊予蜜柑・伊予カン・異予感(余寒)

 行重・・・・行が重なる?

 以来

 十一代、

 約三百五十余年間、

 東の

 山根に・・・纂今

 繁栄した

 千徳家は・・・チトク→知徳・知説く・知匿

     ・・・セントク→撰説く・宣徳・宣説→本居宣長

 減亡

 この落城の哀話として

 「じょんから節」が発祥した

 浅石城下には

 天台宗の

 神宗寺外に

 真言宗の

 高賀山大善院、

 法華宗の

 妙経寺等があり、

 その一坊として

 辻堂があった。

 辻堂は

 石名坂道への

 別れ道になっていた。

 慶長二年

 二月

 二十八日

 役僧の

 常椽(じょうえん)和尚は

 大浦勢に攻められ

 山伏姿となり薙刀をもって奮戦したが最期には

 白岩の断崖の頂上から

 浅瀬石川に飛込んで死んだ

 その数年後に川原の砂の中から遺体が発見され、

 その場所に

 「常椽の墓」を造った

 そこを

 「常椽川原(じょうえんかわら)」と称した。

 毎年お盆になると村人はこの墓所に集って供養をなし、

 千徳家全盛時代の昔を偲び、

 城主をはじめ先祖代々の霊を慰める盆踊りを行った。

 これが「じょんから節」である・・・そうだが・・・

 常椽川原(じょうえんかわら)」

     「じょ  んか ら」・・・「うえ」と「わ」が端折られた?・・・訛った?と言うことか?

 「じょんから節」は「くどき(口説き→句解き?)節」の一種であるそうだが・・・「功徳節?」・・・

ーーー↓

「じょんから節」

一 ハアーさぁさこれから読み上げまする

  津軽浅瀬石じょんから節よ

  さてもあわれな落城のはなし

二 ハアー今は昔の七百年前

  南部行重城主となりて

  伝えつたえて十代あまり

三 ハアー頃は慶長二年の春に

  大浦為信大軍率い

  城主政保討死いたす

四 ハアー時に辻堂常椽和尚

  先祖代々位牌を背負い

  高い崖から濁流めがけ

五 ハアーゃがて春過ぎ真夏となりて

  村の子供等水浴びすれば

  砂の中からあわれな姿

六 ハアー村の人達手厚く葬り

  盆の供養をすました後は

  昔しのんでじょんから節よ

七 ハァー春は城山りんごの花よ

  秋の田の面は黄金の波コ

  村は繁昌て家内の笑顔

ーー↓

 では

 「句」とは、

句(く、英語:phrase)とは、文あるいは節を統語論的に分析した際の単位となるもので、機能的に語と等価であるが複数の語からなるものをいう。

英語などでは、文に相当する単位(主語と述語動詞)を含む節とは明確に区別できるが、日本語では必ずしも明確ではない。

 国語文法では

 節に近いものを

 句と呼ぶ場合もある。

 たとえば "the house at the end of the street"(1) は句であって、名詞と同じように機能する。さらにこれは "at the end of the street"(2) という句を含み、これは "the house" を修飾する形容詞と同じように機能する。句(2)は形容詞 "white" で置き換えて、 "the white house" という句に変えることができる。またさらに句(2)は名詞のように機能する句 "the end of the street"(3) を含む。これはたとえば "the cross-roads" で置き換えて "the house at the cross-roads" という句にできる。日本語の場合も、語順の違いなどはあるがほぼ同じように分析できる。

 句は、それを文のほかの部分につなぐ語を含み、これを主要部または主辞 (head) という。英語では主要部は句の最初の単語であることが多い。日本語では普通最後の単語が主要部になる。

 句はその主要部のタイプによって分類できる。

 すなわち句はその主要部に由来する

 統語的性質を有する

 統語的構造である。

 前置詞句 (prepositional phrase: PP)

 前置詞を主要部とする(in love, over the rainbow など)。

 日本語など後置詞(助詞)をもつ言語では代わりに

 後置詞句(postpositional phrase: PP)となる。

 両方合わせて接置詞句ともいう。

 名詞句 (noun phrase: NP)

 名詞を主要部とする句である(the black cat, a cat on the mat など)。

 動詞句 (verb phrase: VP)

 動詞を主要部とする(eat cheese, jump up and down など、動詞に目的語・補語・副詞をつけたもの)。

 形容詞句 (adjectival phrase: AP)

 形容詞を主要部とし、名詞句を修飾する(full of toys など)。

 日本語でこれに対応するのは連体詞句である。

 副詞句 (adverbial phrase: AdvP)

 副詞を主要部とし、動詞句を修飾する(very carefully など)。

ーーー↓

 「重陽(9月9日)の節句」を「くんち」では平仮名表記の「(お)くんち」を正式名称として使っているが、語源の説により「(御)九日」、「(御)供日」「(御)宮日」と幾つかの漢字表記がある。

 九日説

 旧暦の9月9日、重陽の節句に行われた祭であることから「九日(くんち)」という呼び名が定着したという説。

 長崎など、この説を有力としている地区は多いが、九日は通常「ここのか」や「ここんか」と発声される。9月19日、9月29日を含めた日程で三九日(さんくにち、みくにち)としての祭礼を行っている地域もあり、これが元ともいわれる。

 供日説

 収穫した作物を神に供える日、「供日(くにち)」から転じて「くんち」になったとする説。漢字表記がされる場合にはこの表記が使われていることも多いが、後から当て字として考えられたものともいわれる。

 宮日説

 お宮に対して祭を行うため「宮日」ということだが、くんちの呼称が秋祭りに限られることが説明しにくいため、後から当て字として考えられたものともいわれる。

ーーー

 日本の五節句

 人日(じんじつ)/陰暦正月七日「七草がゆ」

 上巳(じょうし)/陰暦3月3 日「桃の節句」

 端午(たんご)/陰暦5月5日「端午の節句」

 七夕(たなばた)/陰暦7月7 日「七夕祭り」

 重陽(ちょうよう) /陰暦9月9日「菊の節句」

 「端午の節句」は「女の子の行事」だった

 中国の「端午」の行事とは

 五月の

 最初の

 「午(うま・ゴ→馬・宇摩)の日」の行事

 日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。

 すなわち、

 端午は元々

 「女性の節句」だった。

 また、

 5月4日の夜から5月5日にかけてを

 「女天下」と称し、

 家の畳の半畳分ずつ

 あるいは

 家全体を

 女性が取り仕切る日とする慣習

 そこから

 5月5日を

 女の家(おんなのいえ)と

 称する風習が

 中部地方や

 四国地方の一部にみられる

 端午の日には

 粽(ちまき)や

 柏餅(かしわもち)を食べる風習

 ちまき(粽)を食べるのは、中国戦国時代の

 楚の詩人

 屈原の命日である

 5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた

 汨羅江(べきらこう)にちまきを投げ入れて供養したこと、また、

 屈原の亡骸を

 魚が食らわないよう

 魚のえさとしたものが

 ちまきの由来とされる。

 柏餅を食べる風習は

 日本独自のもので、

 柏は新芽が出るまで

 古い葉が落ちないことから

 「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。

 中国語圏では、現在も屈原を助けるために船を出した故事にちなみ、

 「龍船節」として

 「手漕舟(龍船あるいはドラゴンボート)」の競漕が行われる。

 ヨモギ(蓬、中国語=艾(アイ)・艾蒿(アイハオ)の束を

 魔よけとして戸口に飾る風習も、広く行なわれている。

    ↑

 ・・・以上の参考参照原文は「スベテウイッキペデア事典」からです・・・

ーーーーー

 枕草子

 (八段)

 正月一日、

 三月三日は、

 いとうららかなる。

 五月五日は

 曇りくらしたる。

 七月七日は

 曇り、夕がたは晴れたる空に

 月いとあかく、

 星のすがた見えたる。

 九月九日は、

 曉がたより

 雨少し降りて、

 菊の露も

 こちたく

 そぼち、

 おほひたる

 綿なども

 いたくぬれ、

 うつしの

 香も

 もて

 はやされたる。

 つとめては

 止みにたれど、

 なほ

 曇りて、

 ややもすれば、

 降り

 落ちぬべく

 見えたるも

 をかし。

ーーーーー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スベテはラン学から、ハジ-マル

2013-04-22 17:49:40 | 古事記字源
 スベテは「丸(まる・ガン)」、
 すべては「球(たま・キュウ)」、
 すべては「卵(たまご・ラン)」、
 スベテは「英(はなぶさ・=花房・はな・エイ・ヨウ)」
     ↓
 「はなしべ=花のしべ・かずい・ズイ・ヌイ・蘂=ハナシベ.はな‐しべ=花蕊(蘂)」
     ↓
 「サ+心+心+心+木」→「種子植物の、雄しべと雌しべ・しべ」
     ↓
 噺し部・話し部→御伽部(おとぎ部)・・・
 「蘂」、「蕋」は俗字であるらしい・・・
     ↓
 話し部・・・・語り部

 数意・・・・・数の意味

 隋・・・・・・隋書倭人伝

 蘂・・・・・・サ、三心、木→草冠、纂審、記紀

 ・・・すべては、「ランガク」からハジマル・・・? 

ーーー

 天初蘂源

 宝徳三年(1451年)

  ~

 大永四年五月十四日(1524年)

 伊達持宗の子

 曹洞宗

 越後

 耕雲寺の

 周剛

 宗厳の法をつぐ

 明応七年

 父がたてた

 陸奥

 伊達郡(福島県)

 輪王寺三世

 耕雲寺の住持

 享年七十四歳

ーーー

 季瓊真蘂

 応永八年(1401年)

  ~

 文明一年八月11日(1469年9月16日)

 臨済宗の僧

 別号に雲沢,松泉

 播磨国(兵庫県)の

 赤松氏一族

 上月氏の出身

 法を

 叔英宗播に

ーー↓

 叔英宗播

 ?~1441年

 室町時代の僧。

 臨済(りんざい)宗

 太清宗渭(たいせい-そうい)の法をつぐ

 将軍足利義持(よしもち)の信任をうけ

 相国寺

 建仁寺

 南禅寺の

 住持となる

 義堂周信、

 絶海中津に学芸を学んだ

 嘉吉(かきつ)元年九月十九日死去

 播磨(はりま・兵庫)出身

 別号

 交蘆道人

 著作

 「五灯会元抄」

 編著

 「禅林曇華集」

ーー↓

 (季瓊真蘂)は

 嗣ぐ(一山派)

 足利義教の命で

 鹿苑院僧録の補佐となり

 五山官寺を統轄し

 後世

 蔭涼職(相国寺内蔭涼軒の軒主職)

 1435年

 真蘂は「蔭涼軒主」を僭称し

 「僧録司」をしのぐ

 「蔭涼職」と呼ばれる官職名で権威をふるい

 「蔭涼軒」焼失後も存続し

 1615年(元和一年)に

 「鹿苑僧録司」とともに廃止された

ーー

 赤松満祐による

 将軍

 義教暗殺の

 嘉吉の乱(1441)が起こり、

 一時職を退く

 義政の代に

 長禄二年(1458年)年に

 復権

 政所執事

ーーー↓

  嘉吉(かきつ)の乱

ーー↓

 1441年~1444年までの年号

 後花園天皇の元号

 前元号は

 永享(えいきょう)

 次元号は文安(ぶんあん)

 1441年

 (永享十三年)二月十七日改元

ーー↓ 

  1441年(嘉吉一年・辛酉年)

  播磨国守護の

  赤松満祐は、

  「結城合戦」の戦勝を祝うとして

  将軍義教を自邸に招いて謀殺

  領国に逃亡したが幕府追悼軍に敗れ自害した

ーーー↓

 季瓊真蘂は

 伊勢貞親とともに

 斯波氏の・・・・・・織田信長の主家

 内紛に介入するなど

 応仁の乱(1467年)の一因を作って

 文正一年(1466年)失脚

 近江国

 牛口山に退居

 義政の信任厚く

 応仁二年(1468)年上洛

 相国寺に戻り

 同寺内

 雲頂院に住し

 院内に

 雲沢軒

 七条柳原に

 禅仏寺を開いた

 日記として

 『季瓊日録』

ーーー

 枕草子

(七段)

 うへに侍ふ御猫は、かうふり給はりて、命婦のおもととて、いとをかしければ、寵(かしづ)かせ給ふが、端に出でたるを、

 乳母の

 馬の命婦

 「あなまさなや、入り給へ」とよぶに、聞かで、日のさしあたりたるにうち眠りてゐたるを、おどすとて、

 「翁丸いづら、

  命婦の

  おもと食へ」といふに、まことかとて、しれもの走りかかりたれば、おびえ惑ひて、御簾の内に入りぬ。朝餉の間にうへはおはします。御覽じて、いみじう驚かせ給ふ。

 猫は御懷に入れさせ給ひて、男ども召せば、藏人忠隆まゐりたるに、

 「この翁丸

  打ち調じて、

  犬島につかはせ。只今」と仰せらるれば、集りて狩りさわぐ。馬の命婦もさいなみて、

 「乳母

  かへてん、

  いと

  うしろめたし」と仰せらるれば、かしこまりて、御前にも出でず。犬は狩り出でて、瀧口などして追ひつかはしつ。

 「あはれ、

  いみじく

  ゆるぎ歩きつるものを。

  三月三日に、頭の

  辨柳の

  かづらをせさせ、

  桃の花かざしにささせ、

  櫻腰にささせなどして、

  ありかせ給ひしをり、

  かかる

  目

  見んとは思ひかけけんや」とあはれがる。

 「御膳のをりは、必むかひさぶらふに、さうざうしくこそあれ」などいひて、三四日になりぬ。ひるつかた、犬のいみじく泣く聲のすれば、なにぞの犬の、かく久しくなくにかあらんと聞くに、よろづの犬ども走り騒ぎとぶらひに行く。

 御厠人なるもの走り來て、

 「あな

  いみじ、

  犬を藏人

  二人して打ちたまひ、死ぬべし。流させ給ひけるが歸りまゐりたるとて、調じ給ふ」といふ。心うのことや。翁丸なり。「忠隆實房なん打つ」といへば、制しに遣るほどに、辛うじてなき止みぬ。「死にければ門の外にひき棄てつ」といへば、あはれがりなどする夕つかた、

 いみじげに

 腫れ、

 あさましげなる

 犬の

 わびしげ

 なるが、

 わななき

 ありけば、

 「あはれ丸か、

  かかる犬やは

  このごろは見ゆる」などいふに、翁丸と呼べど耳にも聞き入れず。

 それぞといひ、あらずといひ、口々申せば、「右近ぞ見知りたる、呼べ」とて、下なるを

 「まづとみのこと」とて召せば參りたり。「これは翁丸か」と見せ給ふに、「似て侍れども、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また翁丸と呼べば、悦びてまうで來るものを、呼べど寄りこず、あらぬなめり。それは打ち殺して、棄て侍りぬとこそ申しつれ。

 さるものどもの

 二人して打たんには、生きなんや」と申せば、心うがらせ給ふ。

 暗うなりて、物くはせたれど食はねば、あらぬものにいひなして止みぬる。つとめて、

 御梳櫛にまゐり、

 御手水まゐりて、

 御鏡もたせて御覽ずれば、侍ふに、犬の柱のもとについ居たるを、「あはれ昨日、翁丸をいみじう打ちしかな。死にけんこそ悲しけれ。何の身にかこのたびはなりぬらん。いかにわびしき心地しけん」とうちいふほどに、この寢たる犬ふるひわななきて、涙をただ落しにおとす。いとあさまし。さはこれ翁丸にこそありけれ。よべは隱れ忍びてあるなりけりと、あはれにて、をかしきことかぎりなし。御鏡をもうちおきて、

 「さは

  翁丸」・・・・おきなまる・オウガン

 といふに、

 ひれ

 伏して

 いみじくなく。

 御前にもうち笑はせ給ふ。

 人々まゐり集りて、右近内侍召して、かくなど仰せらるれば、笑ひののしるを、うへにも聞し召して、渡らせおはしまして、

 「あさましう

  犬なども

  かかる

  心あるもの

  なりけり」と笑はせ給ふ。うへの女房たちなども來りまゐり集りて呼ぶにも、今ぞ立ちうごく。なほ顏など腫れためり。「物調ぜさせばや」といへば、「終にいひあらはしつる」など笑はせ給ふに、忠隆聞きて、

 臺盤所のかたより、

 「まことにや侍らん、かれ見侍らん」といひたれば、

 「あなゆゆし、さる者なし」といはすれば、「さりとも終に見つくる折もはべらん、さのみもえかくさせ給はじ」といふなり。さて後畏勘事許されて、もとのやうになりにき。猶あはれがられて、ふるひなき出でたりし程こそ、世に知らずをかしくあはれなりしか。人々にもいはれて泣きなどす。

ーーーーー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コジキ・キュウヤク

2013-04-21 22:03:38 | 古事記字源
 ナゼ、「クフ」王なんだろう?・・・
 なぜ、「アベル」がグループなんだろう?・・・
 ナゼ、「五層」なんだろう?・・・
 なぜ、「地平線のクフ」なんだろう・・・?
 「アペル・アル」は
 「アメンヘテプ三世」と、後には彼の息子である
 「アクエンアテン王」の、「大臣」・・・
  アペル・・・アベル・・・あべる・・・阿部留・・・
ーーー

 「于定國」が律令「960巻」を編纂・・・

 「于定国(うていこく・?~紀元前40年)

 中国の前漢時代の人

 父の于公は裁判が公平であった

 生きているうちから

 祠が作られる

 住んでいる里の門を

 再建するとき、

 于公は

 「門は立派な車も通れるように大きくしてほしい。

  私は公平な裁判で陰徳をつんでいるから、

  子孫が立派な車に乗れるくらい出世するだろう」と言った。

 于定国は父より法を学び、父の死後は父と同じ

 獄の役人となった。

 その後、

 廷尉史となり、御史中丞の従事に選ばれて

 反乱者の獄を担当した。

 能力が高いということで

 侍御史、

 御史中丞と

 昇進した

 元平元年(紀元前74年)に

 昭帝が死亡し

 昌邑王

 劉賀が即位したが

 劉賀は

 淫乱な行いがあり、于定国はそれを諌めた。

 劉賀が廃位され

 宣帝が即位すると、劉賀を諌めた者は皆抜擢され、

 于定国も抜擢されて

 光禄大夫、

 平尚書事となり、おおいに任用

 本始三年

 (紀元前71年)に

 水衡都尉、

 地節元年

 (紀元前69年)に廷尉となった。

 于定国は師を迎えて

 春秋を学び、儒者を重んじるようになった。また裁判における判決は弱者を憐れみ、罪が疑わしい場合は軽い方に従うことを常とし、慎重であった。そこで朝廷では「張釈之が廷尉となると天下に冤罪の民はいなくなった。于定国が廷尉となると民は冤罪を心配することがなくなった」と称えた。

 また

 于定国は酒飲みであったが、酒を飲んでいる方が込み入った案件をはっきりと裁けるほどであった。

 廷尉を

 十八年務め、

 甘露二年

 (紀元前52年)に

 杜延年に代わり

 御史大夫となった。

 翌年には死亡した

 黄覇の後任の丞相となり、

 列侯(西平侯)に封じられた。

 宣帝が死亡し

 元帝の代になると旧臣であることから尊重された。また

 御史大夫

 陳万年は于定国と議論することはなかったが、新たに任命された

 貢禹はしばしば

 于定国に反対意見を述べた。ほとんどは丞相の方が取り上げられたが、折からの天災やそれによる流民の発生が大臣のせいだという議論が起こると、元帝は丞相や御史大夫を叱責した。

 永光元年

 (紀元前43年)

 日食の発生などを再度叱責された于定国は職を辞した。

 永光四年

 (紀元前40年)に死亡し、

 安侯と諡された。

 子の

 于永が列侯を継いだ。于永も後に御史大夫となった。

ーーーーー

 「枕草子」

(六段)

 大進生昌(だいじんなりまさ)が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿(みこし)は入らせ給ふ。北の門より女房の車ども、陣屋の居ねば入りなんやと思ひて、頭(かしら)つきわろき人も、いたくもつくろはず、寄せて下るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びりょうげ)の車などは、門ちひさければ、さはりてえ入らねば、例の筵道(えんどう)敷(し)きておるるに、いとにくく、腹だたしけれど、いかがはせん。殿上人、地下なるも、陣に立ちそひ見るもねたし。

 御前(おまえ)に參りて、ありつるやう啓すれば、「ここにも人は見るまじくやは。などかはさしもうち解けつる」と笑はせ給ふ。

 「されど、それは皆(みな)

 目(め)慣れて侍れば、よくしたてて侍らんにしこそ驚く人も侍らめ。さても、かばかりなる家に、車入らぬ門やはあらん。見えば笑はん」などいふ程にしも、「これまゐらせん」とて、御硯(おんすずり)などさしいる。

 「いで、いとわろくこそおはしけれ。などてかその門狹く造りて、住み給ひけるぞ」といへば、笑ひて、

 「家のほど

  身のほどに合せて

  侍るなり」と答ふ。

 「されど、門の限を、高く造りける人も聞ゆるは」といへば、

 「あな

  おそろし」と驚きて、

 「それは

 于定國がことにこそ侍るなれ。古き進士などに侍らずば、承り知るべくも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、

 かう

 だに

 辨(わきま)へられ侍る」と言ふ。

 「その御道もかしこからざめり。

  筵道

  敷きたれば、皆おち入りて騒ぎつるは」と言へば、

 「雨の降り侍れば、實にさも侍らん。よしよし、また仰せかくべき事もぞ侍る、罷(まか)り立ち侍らん」とていぬ。

 「何事ぞ、生昌が

  いみじう

  おぢつるは」と問はせ給ふ。

 「あらず、車の入らざりつることいひ侍る」と申しておりぬ。

 同じ局に住む若き人々などして、

 萬(よろづ)の事も知らず、

 ねぶたければ皆寢ぬ。東の對の西の廂(ひさし)かけてある北の障子には、かけがねもなかりけるを、それも尋ねず。家主なれば、案内をよく知りてあけてけり。あやしう涸(か)ればみたるものの聲にて、「候(さぶら)はんにはいかが」と數多(あまた)たびいふ聲に、驚きて見れば、儿帳(きちょう)の後に立てたる燈臺の光もあらはなり。障子を五寸ばかりあけて言ふなりけり。いみじうをかし。更にかやうのすきずきしきわざ、ゆめにせぬものの、家におはしましたりとて、無下(むげ)に心にまかするなめりと思ふも、いとをかし。

 わが傍(かたわら)なる人を起して、

 「かれ見給へ、かかる見えぬものあめるを」といへば、頭をもたげて見やりて、

 いみじう笑ふ。

 「あれは誰ぞ、顯證(けしゅう)に」といへば、

 「あらず、家主人、局主人と定め申すべき事の侍るなり」と言へば、

 「門の事をこそ申しつれ、障子開け給へとやは言ふ」

 「なほその事申し侍らん、そこに侍はんはいかにいかに」と言へば、

 「いと見苦しきこと。更(ことさら)にえおはせじ」とて笑ふめれば、

 「若き人々おはしけり」とて、引き立てていぬる後に笑ふこといみじ。

 あけぬとならば、唯(ただ)まづ入りねかし。消息をするに、

 「よかなり」とは誰かはいはんと、

 げにをかしきに、つとめて、御前に參りて啓すれば、「さる事も聞えざりつるを、昨夜のことに愛でて、入りにたりけるなめり。あはれ彼をはしたなく言ひけんこそ、いとほしけれ」と笑はせ給ふ。

ーーー

 姫宮の御かたの童女に、裝束せさすべきよし仰せらるるに、「わらはの袙(あこめ)の上襲(うわおそい)は何色に仕う奉るべき」と申すを、又笑ふもことわりなり。

 「姫宮の御前のものは、例のやうにては

  惡氣(にくげ)に候はん。

  ちうせい折敷(おしき)、

  ちうせい高杯(たかつき)にてこそよく候はめ」と申すを、

 「さてこそは、上襲(うわおそい)著たる童女もまゐりよからめ」と言ふを、

 「猶(なお)例の人のやうに、かくないひ笑ひそ、いときすくなるものを、いとほしげに」と制したまふもをかし。

 中間なるをりに、「大進ものきこえんとあり」と、人の告ぐるを聞し召して、「又なでふこといひて笑はれんとならん」と仰せらるるもいとをかし。

 「行きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜の門のことを中納言に語り侍りしかば、いみじう感じ申されて、いかでさるべからんをりに對面して、申しうけたまはらんとなん申されつる」とて、またこともなし。

 一夜のことやいはんと、心ときめきしつれど、「今しづかに御局(おつぼね)にさぶらはん」と辭していぬれば、歸り參りたるに、「さて何事ぞ」とのたまはすれば、申しつる事を、さなんとまねび啓して、「わざと消息し、呼び出づべきことにもあらぬを、おのづからしづかに局などにあらんにもいへかし」とて笑へば、「おのが心地に賢しとおもふ人の譽めたるを、嬉しとや思ふとて、告げ知らするならん」とのたまはする御氣色(おんけしき)もいとめでたし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虎杖(いたどり・イタドリ・痛取・Fallopia japonica)・・・大分・・・植物図鑑

2013-04-19 12:25:54 | 古事記字源
 ・・・いと、おかし、いと、おもしろし・・・ナゼ、まくら(枕)の(之・埜・乃・野・廼・能)そうし(創始・相思・草子・双史・草紙)なのか・・・?・・・「枕草子(チンソウシ)」・・・「沈総史」・・・「トラ(虎)のツエ(杖)」とはイト、おかしい・・・ナッ、・・・「一五四段・いたどり(虎杖)」・・・「コジョウ」って・・・? ・・・
 ・・・「根室」に地震、震源地「千島列島」、震度四・M7(12時6分)・・・
ーーー

 虎杖(いたどり・イタドリ・痛取・Fallopia japonica)

              タデ科の多年生植物

              別名、スカンポ、イタンポ、ドングイ

              茎を折るとポコッと音が鳴り、

              食べると酸味があることから、

              スイバをスカンポと呼ぶ地方もある

ーーー↓

 茎にはかすかな紅色の斑点があり、

 葉は卵形で先がとがる

 雌雄異株

 夏、白色または淡紅色の小花が円錐状につく

 別名は「明月草」で花が紅色のもの

 根を漢方で虎杖根(こじょうこん)

 利尿・通経薬

 別名は「さいたづま・たじい・すかんぽ」

ーーー↓

 御虎子(おまる)・・・ギョコシ=義与(漁・魚)虎視

 オン

 ・トラ

  ・コ

ーーー↓

 虎列刺(コレラ)・・・虎狼痢(コロリ)・コロリ病

            暴瀉病・見急

            三日コロリ

            古呂利=元禄十二年の頃の流行病で

                「白山童」氏の研究によれば

                頓死・卒倒の意味だったらしい

 「安政五年(1858)~六年」の「時疫」は

 「清国の流行地・東シナ海沿岸地方を経由して長崎に入港したアメリカ海軍軍艦ミシシッピー号の水兵がコレラを発症、これが日本全土に広まったもので、世界的流行の第三派にあたるものであった」(「白山童」氏のブログ記事を抜粋添付)

ーーー↓

 虎耳草(ゆきのした)・・・雪の舌・雪の下

              白い舌状の花の形から

              まだらで毛の丸い葉っぱ

ーーー↓ 

 トラフ (trough)

 細長い海底盆地

 深さが6000m以下

 舟状海盆

 細長くないものは単に海盆と呼び、

 深さ6000mを超えるものは海溝という

 南海トラフ

 四国の南の海底

 水深4,000m級の深い溝(トラフ)

 地震発生帯

 南海トラフ北端部の

 駿河湾内に位置するのは

 駿河トラフ

 トラフ(Trough)

 細長い飼い葉桶

 飼い葉桶の形状から転じて

 舟底のような形状のこと

 トラフ (地形)

 細長い海底盆地で深さが6000mより浅いもの

 気象学では上空の気圧の谷

ーーー↓

 トラキア・・・地名、古代ギリシャ~トルコ(土耳古)

ーーー↓

 トラファルガーの海戦

 (The Battle of Trafalgar・Bataille de Trafalgar)

 1805年

 10月

 21日

 スペインのトラファルガル岬(トラファルガー岬)の沖での海戦

 ナポレオン艦隊とホレーショ・ネルソン提督艦隊の海戦

 イギリス艦隊は「ヴィクトリー」を

 旗艦とする

 27隻

 ピエール・ヴィルヌーヴ率いる

 フランス・スペイン連合艦隊は「ビューサントル」を

 旗艦とする

 33隻

 連合艦隊のヴィルヌーヴ提督は捕虜

 イギリス艦隊のネルソン提督はフランス狙撃兵の銃弾で死亡

 ナポレオンはこの海戦の敗退を

 二ヶ月後の

 アウステルリッツの勝利で挽回

 イギリスのピット首相は敗北で、翌年病死

 1815年のワーテルローの戦いでナポレオンが勝利

ーー↓

 トラウマ←トラファルガー海戦によるフランス国民の心情

 トラウマ(trauma、古代ギリシア語で「傷」の意で

 この海戦の敗北を比喩的に

 「心の傷」

 「trauma(1887年ピエール・ジャネが使用)」とした

 フロイトの精神疾患の病名

 心的外傷

 外的内的要因による衝撃的な

 肉体的、精神的ショック後に引きずる心傷

 外傷体験

 (traumatic experience)

ーー↓

 トラベル・・・旅行・旅(たび=足袋・度・田尾)

 (Travel)

ーーーーー

 「枕草子」

 (五段)・・・・・・語談

 思はん・・・・・・・主版・重版・面判

 子を・・・・・・之・詞・詩・史・支・巳・師・死

           至・覗・只・柴・芝・弛・砥

           偲・漬・賜・脂・肢・糸・笥

           獅・次・止・髭・雌・諮・指

 法師に・・・・・・・褒詞・法嗣・奉仕・胞子・芳志

 なしたらん・・・・・成し足らぬ・名詞多等無

 こそは、・・・・・・古蘇葉・呼措葉

 いと・・・・・・・・意図・異図・伊都

 心苦しけれ。・・・・真句詞懸例

 さるは、・・・・・・申・沙流・然る・作留葉

 いと

 たのもしき・・・・・他の摸詞記・多之模史記

 わざを、・・・・・・倭作緒・環座尾(緒)

 唯(ただ)・・・・・多拿・只・徒・惟

 木の・・・・・・・・記之・紀之

 はし・・・・・・・・葉詞

 などの・・・・・・・名度之・名殿・納殿

 やうに・・・・・・・埜有似・用似・葉爾

 思ひたらんこそ、・・重い多等務呼措

 いといと・・・・・・意図・異図・伊図

 ほしけれ。・・・・・星懸例・補史仮例

 精進物の・・・・・・正真模廼埜

 あしきを食ひ、・・・阿(亜・蛙)史記を句意

 寐ぬるをも、・・・・練る重・音留嗚模

 若きは物も・・・・・模史記葉模埜模

 ゆかし・・・・・・・諭歌詞・喩掛史

 からん。・・・・・・掛蘭

 女などの・・・・・・音名名土廼

 ある所をも、・・・・蛙留賭呼賂嗚模

 などか・・・・・・・名土掛

 忌みたるやうに、・・意味足る用似

 さし・・・・・・・・作史

 のぞかずも・・・・・埜措数模

 あらん。それをも・・亜蘭

 安からずいふ。・・・夜須唐図意附

 まして・・・・・・・真詞出

 驗者などの・・・・・建者名土之

 かたは、・・・・・・過多葉

 いと

 苦しげなり。・・・・句留詞解名理

 御獄(みたけ)、・・音語句

 熊野(くまの)、・・球磨之・句真埜

 かからぬ・・・・・・掛化等務

 山・・・・・・・・・纂

 なく・・・・・・・・名句

 歩く・・・・・・・・亜留句

 ほどに、・・・・・・補度似

 恐しき・・・・・・・緒措賂史記

 目も見、・・・・・・真名模見

 驗(しるし)・・・・記史・知詞・印詞・標詞

 ああり、・・・・・・亜阿理

 聞こえ・・・・・・・記古重・紀超重

 出で・・・・・・・・意出

 きぬれば、・・・・・記務例葉

 ここ・・・・・・・・個々・呱々・戸々・此処

 かしこに・・・・・・化詞呼似

 呼ばれ、・・・・・・与葉例

 時めくに・・・・・・解き目句似

 つけて、・・・・・・通仮出

 安(やす)・・・・・案・行・按

 げ・・・・・・・・・解・仮・懸・毛・家

 もなし。・・・・・・模名詞

 いたく・・・・・・・委託・依託・遺沢・意多句

 煩(わずら)ふ人に・倭図等附比図似

 かかりて、

 物怪(もののけ)・・模埜之懸

 調(ちょう)ずるも、

 いと

 苦しければ、

 困(こう)じて・・・公示出

 うち眠れば、

 「ねぶり・・・・・・音付理・音振・根付利

  などのみして」と・名度之詞出

 咎(とが)むるも、・図画務留模

 いと

 所狹く、・・・・・・常呂施真句・戸頃世馬句

 いかに・・・・・・・異化似

 思はんと。

 これは

 昔の・・・・・・・・務化詞

 ことなり。

 今樣(いまよう)は

 やすげなり。・・・耶諏解名理

          夜須解名理

          野洲解名理

          家主解名理

       徳川家康の解名理

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本書紀」を貫く・・・人物?

2013-04-17 19:15:43 | 古事記字源
 「壱千壱百壱拾壱」・・・「壱壱壱壱」・・・「千百十一」・・・「一一一一」・・・「位置・市・位地・移地」・・・「異地・意知・委値・亥致」・・・
 「土佐日記」の作者は「紀貫之(キのツラユキ)」だそうだが、「紀・貫・之」って「名前」がボクにとっては「?」である。「紀(き)」を「貫(つらぬ)」く「之(し)」・・・怪しい・・・「日本書紀」を貫く「史・詞・詩・支・死・師・始・諮・施・私・指・氏」・・・「ヲトコ(音呼)、もす(模諏・百舌)なる(名留)・日(比)の記・とい(問)・ふ(符)・も(模)の・を、オンナ(音名)・も(模)して・みむ(見務)・とて(賭出・図氐・斗弖)・する(諏留)・なり(名理)」・・・「氐=氏+一」も「弖=弓+一」も怪しいカンジである。
ーー

 ミンナがウソつきにナレば・・・どうなるのか?・・・「アガサ・クリスティ」に訊いてみたい・・・答えは「皆で仮の紀貫之を創作し、実在の人物として、各々がツルンで日記に書いたら如何でしょう」で、あった・・・「六歌仙」・・・とは「陸河川」・・・

ーー

 「土佐日記・(とさにっき)」

 「紀貫之」が

 「土佐国」から京に帰る最中に起きた出来事を、

 「虚構」を交えて綴った日記文学(?)

 成立は

 承平五年(935年)頃

 古くは

 「土左日記」と・・・「十一」は「よこしま(左)」の「比の記」

 表記されていた。

 「紀行文」に近い要素をもっており、

 その後の

 「仮名」による表現、特に

 「女流文学」の発達に大きな影響を与えた

 『蜻蛉日記』

 『和泉式部日記』

 『紫式部日記』

 『更級日記』

 などの作品に影響を及ぼした可能性が大・・・?・・・

 延長八年(930年)から承平四年(934年)

 「貫之」は

 土佐国に国司として赴任

 土佐から京へ帰る

 「貫之」ら

 一行の

 五十五日間の旅路の話を、

 書き手を

 女性に・・・・助成・助勢・女婿・女声

        序所為・序歳→「古事記序文」

 仮託し

 ほとんどを

 仮名で

 日記風に綴った作品

 五十七首の

 和歌を含む

 土佐国で亡くなった

 愛娘を思う・・・・「愛娘」=まなむすめ・まなこ(愛子)

 心情、

 旅の行程の遅れによる

 帰京を・・・・・・棄教・奇矯・桔梗・気胸・記今日

 はやる思い

 諧謔表現

 (ジョーク、駄洒落などといったユーモア)を

 多く用いている

ーー

 帰京の途上で

 漢文の日記をつけ、

 「土佐日記」を執筆する際にはそれを

 参照したと考えられる

 「土佐日記」そのものは

 虚構を交えたものであり、

 実録の日記そのものではない

 文学作品である

 ・・・あるらしい・・・

 当時の

 男の

 日記は漢文であった・・・?

 和歌は男女ともに

 仮名文字を用いていた・・・

 で、あるらしいが・・・

 誕生

 貞観八年(866年)・・・・貞て観る葉知を撚(よ)る

 または

 貞観十四年(872年)・・・貞て観る重て詞(シ・ことば)を撚る

 頃?

 死没

 天慶八年五月十八日

 (945年6月30日)?

 ・・・「文学史上の大家」なのに「生死没」が「不明」とは、実在の人間ではなかった・・・?・・・

 改名

 阿古久曽

 (幼名・あこくそ)・・・「阿」は「お」とも発音

       出雲の国の→「阿国(おくに)」

              お子のクソ(糞)→句素

 貫之

 官位

 従五位上

 木工権頭

 贈従

 二位

 主君

 醍醐天皇・・・醍醐=酉(是+胡)

 朱雀天皇・・・朱雀=(牛木+少隹)・朱雀=諏作句(索・座句)

 氏族

 紀氏

 父

 紀望行・・・・紀の行を望む

 子

 時文・・・・・トキのフミ

ーー

 紀望行の子。幼名を「内教坊」の「阿古久曽(あこくそ)」と称した。貫之の母が「内教坊」出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。

ーーー↓

 母が「内教坊」出身の女子なのは判るが、彼の幼名の「阿古久曾(麻呂)」の説明にはなっていない。「くそ=屎(シ)・糞(フン)」なら、当時は魔物は汚物は嫌うので魔除のためわざと「屎」を名前に使う習慣があった。「丸」も同じ理由で「おまる」は接頭語の「御」と、「まる」の結合で、「まる」は「大小便をする排便、排尿」の動詞「まる(放る)」であるそうだ・・・アイヌ語の名前「ポイション(ポンション)」も「小便たれ」で、豊臣秀吉も淀君の子供には「おすて(お捨て)」と名づけた。厄払いの風習である。ボクも三角山のふもとの橋の下で蜜柑箱に入れられて、捨てられていたのを拾われたと、伯母から聞かされて育った・・・「うんこ・しっこ」をするとは古語では、「まる」と呼んでいた。 漢字の当て字は「おまる=御虎子」だが、「うんこ」は「虎の黄色と、その座している姿か、尻尾の丸まった形?」の相似かららしい・・・音を採るなら「運弧・運児」だろう。

 だが、「まる」は動詞の「かが-まる(屈まる)」、「し-まる(締まる・絞まる・閉まる、「はじ-まる」、「おさーまる」もある。トイレでの排便には「力んだ踏ん張り」が必要だ。この「力んだ踏ん張りの様子や形相」は「憤怒の形相」に近いだろう。「おまる=御虎子」は「虎の子」を傍(側・そば)にした「母虎」の威嚇の形相であるカナ。「虎の子」とは一般的に「お金」だが、歴史的には「天武天皇(虎に翼をつけた人物)の子」だろう・・・では「阿古」とは何か?・・・「東京都三宅島三宅村阿古700-6」、「宮城県仙台市青葉区国分町2丁目11−11の料理店名?阿古」、「英虞湾」・・・人物を調べると、「阿古耶姫物語」・・・「阿古耶姫」は大職冠・「藤原鎌足の曾孫」、陸奥の信夫(現 福島県)の国司・中納言「豊光卿の娘」・・・そして、

ーー↓

 「阿古御局(おこごのつぼね・あこごのつぼね)」

 天正十八年(1590年)

  ~

 慶長二十年五月八日(1615年6月4日)

 戦国時代から江戸時代初頭に生きた女性

 名は菊

 淀殿のちに豊臣秀頼の侍女

 「大上臈」

 「中将」

 「弁宰相阿古大上臈」

 「和期の方(あるいは和期の局)」

 (ともに「わご」と読む)

 十二歳で秀頼のもとへ出仕。翌年、秀頼公参内に同車にて参内。公家衆より武士の娘を参内するとはと非難されたが、陽光院勅定により平重盛の子孫のため仮親を立てずとも参内可能という特例を得た。

 三ヶ月奉公し、弁宰相阿古大上臈」の官位を得る。

 「大坂の役」では

 「山里曲輪の糒蔵」で・・・・・・・糒(ほしいい・ヒ・ビ)

 秀頼・淀殿と共に命運を共にした

 大坂城の祠には

 「三十二義士」の一人と記録

 院号は青松院

 菩提寺は

 北野神社および青松院 

ーー↓

 「内教坊(ないきょうぼう)」は

 日本古代の

 律令制における

 令外官である。・・・両解の刊

 略称は

 坊家。・・・・・・・坊=(十一方)=亥(北北西)の家

 内教坊は

 設置時期は明らかではないが、

 淳仁天皇の時代には存在していた

 職掌は

 舞踊・音楽の教習

 内教坊では主に

 女性に対して教習

 教坊(きょうぼう)

 唐以降の中国王朝における宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関をさす。

 楽曲や歌舞の習得を主な目的とするが、

 官妓にあたる

 妓女を統括する役割もあった。

 その後の王朝に引き継がれ、清代まで続いたが、

 雍正帝の時に廃止された。

 唐の

 李淵の統治時代である

 武徳年間に

 宮城内に・・・宮城(みやぎ)県

 内教坊が

 創設され、

 玄宗の

 開元二年(714年)に、

 音楽を司る

 太常寺から伝統的な音楽である雅楽を残し、俗楽と散楽を分けて、それを習得するために

 長安と洛陽にそれぞれ左右教坊が設置

 また、

 内教坊は

 大明宮に移され、

 梨園も設立

 長安の

 右教坊は、光宅坊に置かれ、歌に長けたものが多く、

 左教坊は延政坊にあり、舞に巧みなものが多かった。

 「安史の乱(安禄山の乱・755年~763年)」以降に衰退したが、その後の王朝でも、引き続いて設置されたが、清代初期に民間から楽人をつのることとなり廃止された。

 現代の「女子十二楽坊」の名前の由来

唐代・教坊の妓女

 崔令欽「教坊記」によると、唐代の教坊に在籍する妓女は、宮妓だけでなく、広い範囲から選ばれ、容貌と芸に優れ、選抜されて、太極宮にある宜春院に入ったものが「内人」(または前頭人)と呼ばれた。内人は重んじられ、その中でも

 皇帝から寵愛を得たものを

 「十家」と呼ばれ、宮城に屋敷を与えられた。

 「内人」は毎月、

 二または十六日、

 もしくは

 誕生日に家族と面会できた。

 また、

 他の妓女とは異なり、

 「魚袋」を身につけていた。

ーーー↓

 「魚袋」・・・日本語訓読みでは「まなぶくろ・さかなぶくる」?

 束帯装束に用いる装飾品。

 石帯に・・・石帯(せきたい)・・・関の鯛→壬申の乱の十市媛の秘文

       束帯装束のときに用いられる黒皮製の帯

       皮製の帯部分に、

       瑪瑙(メノウ)や犀角(サイの角)などの

       飾り石を縫い付けている

 吊るすもので、

 古代中国で用いられた

 割符が装飾品化したものといわれる。

 唐の初期には魚の形に帛(絹)を結んだ

 武后(則天武后)の時代には

 亀袋にかえられたこともあった・・・

 一説に亀(かめ・キ)を玄武、魚(うお・さかな・)を鯉(こい・リ)即ち唐の皇室の姓「李(リ)」の音通とする説もある

 形状

 右腰に下げる(二個を同時に用いることはない)。

 原型は定かではないが、

 現在のものは

 拍子木のような

 木製の

 芯の四方に

 鮫皮を張り、表面に

 金属製の

 四つの

 魚と

 波型の飾りを付け、

 裏側には

 魚を一つだけつける。

 輪状の革紐を取り付け、これを旅行かばんのタグのようにして石帯にひっかける(近世では石帯着装に先立ちあらかじめ石帯にかけておく)。

 普通の体格なら右端の石から1石半くらいの位置になる。

 四位の参議以上の公卿は

 金魚袋といって飾りが金製のものを、

 殿上人とは

 銀魚袋といって銀製の飾りのものを使う。

 これの原型は中国の律令で定められた

 魚に似た形の割符(曹魏では亀の形という)と皮袋に由来すると言われるが、日本では装飾品として扱われた。したがって節会参列の公卿・五位以上の官人や賀茂祭の勅使をはじめとする

 重儀の奉仕に際してのみ使用され、束帯着用時でも通常は使用しなかった。近代では即位関連儀礼でも使用はなく、

 唯一

 賀茂祭の・・・・賀茂真淵?

 勅使が使用するだけである。

 ・・・で、あるらしい・・・

ーーー

 延喜五年(905年)、

 醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である

 『古今和歌集』を

 紀友則

 壬生忠岑

 凡河内躬恒

 と共に編纂

 仮名による

 序文である

 仮名序を執筆

 (真名序=漢文の序を執筆したのは

      紀淑望)

 「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。

 理知的分析的歌風を特徴とし、・・・・なに、コレ?

 家集『貫之集』を自撰した。

 勅撰歌人としては

 「古今和歌集・(壱百壱首)」以下の

 「勅撰和歌集」に「四三五首の和歌」が入集している

 「三代集」時代の絶対的権威者であった

 ・・・らしいのだが?

ーーー↓

 土佐日記

 男もすなる日記といふものを、

 女もしてみむとてするなり。

 それの年

 (承平四年)の

 しはすの

 二十日

 あまり

 一日の、

 戌の時に門出す。

 その

 よし

 いさゝか

 ものに

 かきつく。

 ある

 人縣の

 四年五年はてゝ

 例のことゞも

 皆しをへて、

 解由など

 取りて

 住む

 たちより

 出でゝ

 船に乘るべき所へわたる。

 かれこれ

 知る知らぬ

 おくりす。

 年ごろ

 よく

 具しつる

 人々(共イ)

 なむ

 わかれ難く

 思ひてその

 日頻に

 とかく

 しつゝ

 のゝしる

 うちに

 夜更けぬ。

 廿二日(にイ有)、

 和泉の國までと

 たひらかに

 ねがひたつ。

 藤原の

 言實

 船路なれど

 馬の餞す。

 上中下ながら

 醉ひ過ぎて

 いと怪しく

 しほ海の

 ほとりにて

 あざれあへり。

 廿三日、

 八木の

 康教といふ人あり。

 この人

 國に

 必ずしも

 いひつかふ者にも

 あらざる(二字ずイ)なり。

 これぞ

 正しきやうにて

 馬の餞したる。

 かみがら

 にや

 あらむ、

 國人の心の常として

 今はとて

 見えざなるを

 心あるものは

 恥ぢずき(ぞイ)

 なむ

 きける。

 これは物によりて

 譽むるに

 しも

 あらず。

 廿四日、

 講師馬の餞しに

 出でませり。

 ありとある

 上下

 童まで醉ひしれて、

 一文字を

 だに

 知らぬ

 ものしが、

 足は

 十文字に

 踏みてぞ遊ぶ。

 廿五日、

 守のたちより

 呼びに

 文もて來れり。

 呼ばれて

 至りて日

 ひとひ夜

 ひとよ

 とかく

 遊ぶやうにて明けにけり。

ーーーーー

 「枕草子」

 (四段)

 ことごとなるもの

 法師の詞(ことば)。

 男女の詞。

 下司(げす)の詞に、

 かならず

 文字

 あまり

 したり。

 (五段)

 思はん子を

 法師になしたらんこそは、いと心苦しけれ。

 さるは、

 いとたのもしきわざを、

 唯(ただ)木のはしなどの

 やうに思ひたらんこそ、

 いといとほしけれ。

 精進物の

 あしきを食ひ、寐ぬるをも、

 若きは

 物も

 ゆかしからん。

 女などのある所をも、

 などか

 忌みたるやうに、さしのぞかずもあらん。それをも安からずいふ。まして驗者などのかたは、いと苦しげなり。

 御獄(みたけ)、

 熊野(くまの)、

 かからぬ山なく

 歩くほどに、

 恐しき目も見、

 驗(しるし)ああり、

 聞こえ出できぬれば、ここかしこに呼ばれ、

 時めくにつけて、

 安(やす)げもなし。

 いたく

 煩(わずら)ふ人に

 かかりて、

 物怪(もののけ)調(ちょう)ずるも、いと苦しければ、

 困(こう)じて

 うち眠れば、

 「ねぶりなどのみして」と

 咎(とが)むるも、いと所狹く、いかに思はんと。

 これは昔のことなり。

 今樣(いまよう)は

 やすげなり。

ーーーーー

 ・・・「異常」の参照、参考原文は殆んどが「ウイッキペデア」です・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする