城郭探訪

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観音寺城2 近江国(安土)   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年09月16日 | 山城

観音寺城

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その後の観音寺城の戦闘年表

和暦西暦主な出来事
文亀2年 1502年 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。
その後和議を結ぶ。
永正13年 1516年 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。
大永5年 1525年 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。
この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。

廃城

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢義治父子の頃には浅井長政野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。

永禄11年(1568年)、尾張織田信長足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。一方で、構造的に元亀年間(1570年頃)に改修された可能性がある石垣の跡が見られるため、観音寺城の戦い後もしばらくは織田氏の城として機能していた可能性がある[2]

構造

現在のような観音寺城になるまで幾度かの改修が実施されたことが、文献や発掘調査などから明らかになっている。

観音寺城改修の歴史
回数年代主な特徴
築城当時 建武2年(1335年) 観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった。
第1次改修 応仁・文明年間
(1467年 - 1487年)
城郭らしきものが推定されるが遺構等は検出されていない。
第2次改修 大永5年(1525年) 城といえる城郭が完成していたと推定されている。
第3次改修 天文元年(1532年 12代将軍足利義晴を迎えるため大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が
誕生していたと推定されている。
第4次改修 天文19年(1550年)前後 鉄砲の出現により、山城に石垣を作り、今日に見られる城構えが完成していたことが
発掘調査から確認されている。

観音寺城は現在、正確な曲輪の数はわからないが1000箇所以上の曲輪があり、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城であったと見られている。山城の特徴として、居住に便利なように山麓に居館を設け、山上付近に戦闘、防備施設があるのが一般的だが、観音寺城は山麓全体に分譲地、もしくは団地のような居住性の高い曲輪が配されている点が他の山城とは大きく異なる。

これは六角氏の政治的立場と関係が深いと考えられている。もともとこの地域は自立意識の高い国人衆が多く、彼らと連合政権のような政治を実施していくために、城郭も広い屋敷をもつ曲輪が必要であったと思われている。

昭和57年の繖山カラー空中写真

このため規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも、権威づけ、政治色の強い城ではあったため、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と言われている。六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた。

これに対して『戦国の堅城』では、一定の防備が整っていたのではないかとしている。観音寺城の攻め口は、南側と北側になる。南側、つまり楽市や六角氏の居館があった方向から攻め上ろうとすると、そこには強固な石垣がある平井丸、池田丸があり、また山裾の平地部分に部隊を展開しようとすると、観音寺城の支城、箕作城、長光寺城があり挟撃される可能性がある。また北側、安土山(現在の安土城)の方向になると、曲輪はないものの尾根沿いに切岸と巨大な土塁をもって防衛ラインを形成したと考えられている。つまり山の尾根そのものを土塁としていたのではないかと『戦国の堅城』は指摘している。

この後、山城も大きく進化していき、一線防備でなく曲輪の配置や形状に工夫が見られて拠点防備になっていくが、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている。

本丸

標高は395m、面積は約2000m2、主な遺構としては、礎石、暗渠排水、溜枡(ためます、貯水槽)、幅4mの大手石階段などがある。またここには「二階御殿」と言われた施設があったのではないかと思われている。

平井丸

平井丸は、標高375mで面積は約1700m2、平井氏の居館があったのではないかと思われている。観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。その中で特徴的なのが、高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡があり、2m以上の石も使用されている。また南側には幅0.8m、高さ1.3mの潜り門もある。また北東には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見された。

池田丸

池田丸跡

池田丸は標高365m、面積は約2700m2で、最南端に位置し、本丸にある御屋形へ通じる城戸口になっている。またこの曲輪は南曲輪と北曲輪に分けられ、周囲は土塀をめぐらし、南面には庭園をもつ主殿や溜枡等が発掘されている。

淡路丸

観音寺城の東の端に一郭独立したような形で、府施氏の居館淡路丸の曲輪跡があり、丁度観音寺城の鬼門の方向に当たるとされている。

大きさは、東西43m×南北50mの規模があり、周囲には土塁、東西、南側には土塁の内、外側に石垣を築いている。この曲輪は、南西、西の中間、北東の3か所の虎口を設けている。また南外側では、道路を挟んで上下斜面に腰曲輪跡が残っているが、この淡路丸に付随したものと考えられている。

曲輪を土塁で囲む、構築法がシンプルであるなど、府施氏の城であった府施山城、大森城と類似点が多いのもこの曲輪の特徴である。

佐々木古城跡繖山観音山画図

その他曲輪

その他曲輪として数多く存在する。

  • 伊藤丸
  • 沢田丸
  • 馬渕丸
  • 三井丸
  • 馬場丸
  • 大見付丸
  • 三国丸
  • 伊庭丸
  • 進藤丸
  • 後藤丸
  • 観音寺

このように曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されている。これは、六角定頼の時代に家臣団、国人衆を観音寺城へ居住させ、文献上では初めて「城割」を実施したためではないかと推定されている。

繖山山頂からの眺望

後方が安土山
 
天満宮の参道
 
六角氏の御館跡

六角氏の御館

観音正寺への巡礼参道である赤坂道の参道入り口を右におれ、突き当りの石段を上がると六角氏の御館跡がある。ここも3方向を土塁と切岸で囲まれた「上御用屋敷」という地名の場所があり、南東には高く積まれた石垣が残されている。

繖山の山麓にあり石寺城下町付近になる。

 
石寺楽市の案内看板
 
石寺楽市の推定地

石寺楽市

現在の近江八幡市安土町石寺に、石寺楽市が開かれていた。楽市とは、非課税等を通じて自由な売買を可能にした市のことである。石寺楽市は日本国内での文献上の初見で城下町に築かれたとされている。この地域は下御用屋敷、犬の馬場、馬場道、講口といった、城下町をうかがわせる地名が伝えられている。

これに対して『日本城郭大系』では、近江八幡市安土町石寺以外に、もう1カ所、楽市があったのではないかと指摘している。この石寺の地域には多くの武家屋敷もあり、ここに楽市も混在していたとすれば、規模が小さいとしている。また石寺楽市の古文献には「保内町」という記載が見受けられ、石寺にはない。石寺の隣になる近江八幡市安土町東老蘇には「保内町」という地名が伝わる場所があり、この周辺には3千軒も家が建ち並んでいたと伝承されている。これらのことにより、当初石寺に築かれていた楽市は、後に東老蘇にも新市として増設されたのではないかと指摘している。

この石寺楽市は、近隣にある安土城の楽市にも影響を与えることになる。

この石寺には楽市以外にも犬追物馬上跡があり、ここで佐々木流馬術を伝授していたと思われている。また犬追物絵図が現存しており、本丸の屋形二階に飾られていた土佐光茂が描いた障壁画の写しであるといわれている。

犬追物図/本丸の屋形に飾られていた絵図の写しと伝承されている

支城

観音寺城に数多くの支城があるのが特徴の一つである。

佐々木城の石碑

城郭、出城としての役割を果たした城もあれば、居館程度の城など様々な支城があったと推定されている。

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観音寺城 1 近江国(安土)   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年09月16日 | 山城

観音寺城

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観音寺城
滋賀県
食い違い虎口跡
食い違い虎口跡
別名 佐々木城
城郭構造 山城
天守構造 なし(屋形二階)
築城主 六角氏頼
築城年 応仁文明年間(1467年 - 1487年
主な改修者 佐々木六角氏
主な城主 佐々木六角氏
廃城年 永禄11年(1568年
遺構 本丸、二の丸、曲輪、土塁、石垣、堀、門跡等多数
指定文化財 国の史跡
再建造物 なし
位置 北緯35度8分43.6秒
東経136度9分46.55秒

観音寺城は、近江八幡市安土町にあった山城支城和田山城佐生城箕作城長光寺城などがある。

概要

佐々木氏の家紋(目結紋「平四つ目」)

近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。

標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

歴史・沿革

正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを打ち破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している[1]

応仁の乱

室町時代応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦い

第一次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日応仁2年(1468年)4月1日
場所:観音寺城一帯
結果:京極持清・京極勝秀連合軍の勝利
交戦勢力
京極持清軍
京極勝秀軍
六角高頼
指導者・指揮官
京極勝秀 伊庭行隆
 
   
 
  観音寺城は開城

細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

観音寺城の模型 / 滋賀県立安土城考古博物館所蔵

第二次観音寺城の戦い

第二次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日:応仁2年(1468年)11月8日
場所:観音寺城一帯
結果六角政堯・京極持清連合軍の勝利
交戦勢力
六角政堯軍
京極持清軍
六角高頼軍
指導者・指揮官
六角政堯
京極持清
山内政綱
 
   
 
  観音寺城は開城

応仁2年11月初め、陣代山内政綱がようやく京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守り切ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。

繖山

第三次観音寺城の戦い

第三次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日文明元年(1469年)5月
場所:観音寺城一帯
結果:六角高頼軍の勝利
交戦勢力
六角高頼軍 六角政堯軍
京極持清軍
指導者・指揮官
六角高頼、山内政綱
伊庭貞隆、伊庭行隆
多賀高忠
六角政堯
 
   
 
   

東軍の細川勝元は8代将軍足利義政を擁して官軍となった。この権威を利用して文明元年(1469年)5月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。守護に任命しただけではなく、持清に従わない者は知行地を没収する特権も持った。

これに激怒した高頼とその被官は焼失した観音寺城を修築、3度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になった。攻囲軍は猛攻であったが高頼軍も防備し、三度目の正直、ついに京極軍を撃退することに成功する。

その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は2度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。

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野田城 近江国(中主)

2016年09月16日 | 平城

野田城

お城のデータ
所在地:野洲市(旧野洲郡中主町)野田 map:http://yahoo.jp/tLH0KF
区 分:平城
現 状:宅地・集落
築城期:
築城者:
遺 構:
目標地:八幡神社・正法寺
駐車場:自治会館前(八幡神社隣)
訪城日:2016.9.14
お城の概要

旧兵主村の野田集落にあったとされる平城、詳細不明。

集落内の正法寺付近が城域と考えられるが、宅地造成により遺構は?。

お城の歴史
正法寺

 

八幡神社
自治会館前に駐車
考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、さきろぐ
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吉川城 近江国(中主)

2016年09月16日 | 平城

お城のデータ

所在地:野洲市(旧野洲郡中主町)吉川  map:https://yahoo.jp/SVNcc1

区 分:平城

現 状:宅地・集落

築城期:室町期

築城者:進藤山城守貞治・進藤賢盛

遺 構:堀痕・微高地

目標地:安楽寺

駐車場:安楽寺の前

訪城日:2016.9.14

お城の概要

吉川東出集落の西端に堀に囲まれた一画あり、城館の可能性あり。

 進藤神社周辺は、吉川東出遺跡とよばれ、中世の城館跡と考えられている。また、字「進藤屋敷」と呼ばれるところが進藤神社の西側にあり、こちらを吉川城址とする向きもある。遺跡ウォーカーでは常照寺付近を、『中世城館調査報告書集成』では安楽寺付近を城址に比定している。
南西すぐのところに進藤氏の「小浜城(守山市小浜)」があり、「吉川城は小浜城の出城」か?。

常照寺と光輪寺の間に進藤神社があり、吉川城の比定地は不明。 

進藤神社と常照寺の間に水路がL字型に走っており、これを堀跡か?、光輪寺のあたりが城の南東隅になる。

六角氏の重臣・進藤氏の居城のひとつ。小浜城の出城として築城されたと考えられる。

集落の西側に「進藤屋敷」の旧地名が残り、進藤神社を中心に光輪寺から常照寺・安楽寺に至る集落一帯が城域。

お城の歴史

佐々木六角氏の重臣 進藤氏は木浜・小浜の要津を領した、六角氏の重臣として観音寺城内に上屋敷を構えていた。

参考資料:遺構概要城郭分布調査1・3、遺跡ウォーカー、さきろぐ

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朝日山陣屋 近江国(湖北)

2016年09月16日 | 陣屋

お城のデータ

所在地: 長浜市(旧東浅井郡)湖北町山本(朝日小学校) map:https://yahoo.jp/ugeuqV

区 分:陣屋

現状:朝日小学校付近 

築城期:明治期(明治3年(1870)

築城者:水野忠弘

遺 構:堀痕(水路)・道路より50cm程の微高地?

目標地:朝日小学校・朝日山神社

駐車場:朝日小学校の職員駐車場(朝日山神社駐車場)

訪城日:2016.9.9

お城の歴史

明治3年(1870年)水野忠弘によって築かれた。

明治3年(1870年)出羽国山形藩水野忠弘は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と交戦したが降伏、近江国浅井郡で五万石を領して転封となった。
明治4年(1871年)には廃藩置県で朝日山県となり存続期間は僅か1年であった。

朝日山神社 御由緒
明治5年朝日山の山頂に鎮座されていた白山宮と中腹に鎮座の八幡宮を合祀し、且つ古殿地に古くから奉祀していた綏靖、安寧、懿徳の3帝をも合せ祀り、明治41年村社となった。山本山を背にした朝日郷は古くから開け開化天皇の皇子彦坐命の4世の孫が当地に住せられた時祭神の3帝を祀られたと伝承されている。平安期に僧最澄が山頂に白山比売神を勧請し、山本源氏義定同義経が中腹に源氏の守護神である八幡宮を奉斎したといわれる。あった。現社殿は天永年間の建造と伝えている。当社には古くから放生会という祭儀が伝えられており9月15日の例祭に行なわれる。朝日山は山本山ともいゝ、近江高天原の一説がある。
 
【山本源氏山本義定義経のよろいかけの松】が残る。

お城の概要  

現在は長浜市立「朝日小学校」となり遺構は?。

  

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、史跡ウォーカー、朝日山神社の由緒

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今西城 近江国(湖北)

2016年09月16日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町今西  map:https://map.goo.ne.jp/place/25003051921/

区 分:平城

現 状:神社・宅地・集落

築城期:室町期

築城者:今西野弥次郎直光

目標地:比伎多利神社

駐車場:比伎多利神社の横に駐車

訪城日:2016.9.9

お城の概要

今西城の場所は詳らかではないが、今西集落の東端にある比伎多利神社の境内には東辺から南辺に掛けて土塁と堀が残されている。西側には小字「政所」、「熊谷屋敷」、「弓削屋敷」などが残る。

 

お城の歴史

京極氏の家臣今西氏代々の居館で、今西野弥次郎直光、その子今西忠兵衛などが知られる。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 今西 住 佐々木浅井隋兵 熊谷小市郎・熊谷弥次郎」の名を記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』11、遺跡ウォーカー、『江州佐々木南北諸氏帳』

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旧・蒲生・神崎郡:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月16日 | INDEX

近江八幡市 23


蒲生郡 安土町 10

安土城見学会観音寺城御屋形・ 武藤氏屋敷(安土城山麓館)香庄館(香庄城)観音寺城(佐々木城) 観音寺城木村城(常楽寺城)金剛寺(こんごうでら)城 金剛寺城根来陣屋桑実寺(仮幕府)
武藤氏屋敷(安土城山麓館)

蒲生郡 蒲生町 9

大塚城・大森館・岡本城(岡本館)葛巻(かずらまき)城川合城河合城・越後城・寺村城(寺村館)横山館(横山氏館)上南(かなみ)城木村城鈴村館寺村氏(蒲生)

蒲生郡 日野町 45

新野砦太田氏館勝長氏館・神戸氏館(西大路-位置不明)・森氏館・遠城(杣‐位置不明)・木津森西城/森安城四つ谷城(奥師城)薬師堂遺構(妙楽長興寺)・落合城(落合-位置不明)・音羽城跡雲迎(うんこう)寺(音羽城出丸)鎌掛城 鎌掛城・残念!鎌掛山屋敷・鎌掛長野館・鎌掛古館・木津岡山城(岡宗左衛門屋敷)小谷山城小谷館・駒月館(位置不明)・駒月城(位置不明)・小御門(こみかど)城佐久良城桜谷城中山陣屋・外池氏館・園(おん)城鳥居平(とりひら)城長寸(ながす)城 長寸城(上の城)中野城(日野城) 日野城跡(中野城跡)音羽城(日野城/智閉城/智関城)・中郷城(中之郷城)・仁正寺陣屋西大路城西大路館馬渡氏城内池館山本館木津岡山城(岡屋敷・木津館)丸山城(澤山城)矢野屋敷上迫(かみはざま)城/(儀俄(ぎが)氏城)下迫(しもはざま)城(三木氏屋敷/三木氏城)小井口城(原氏城・原城)清田城御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)勝長氏館仮称)中山城清源寺(定秀の別邸桂林庵・西大路藩/仁正寺藩主市橋氏の菩提寺)興敬(こうきょう)寺遺構信楽(しんぎょう)院標(しめ)の松塚(蒲生貞秀の墓所)蒲生氏ゆかりの地十禅師館(下司坊)

蒲生郡 竜王町 8

鏡城(井上館)川守城(吉田城)・大木城・星ケ崎城 星ヶ崎城弓削城林城(赤座城)村田氏館信濃館丸山城岡屋城鵜川館鏡陣所裏山遺跡・西川館山副氏館(山副館)・山之上館・竜王山遺跡(野寺城下屋敷)

八日市市  29

池田城林田館瓜生津城大森城 大森城(上大森城) 大森城仙台藩代官屋敷上羽田陣屋建部氏館 建部館 (松尾神社庭園)柏木館狛氏館小脇館小脇城後藤氏館 後藤氏館小脇山城布施山城 布施山城布施館南城(柴原屋敷)上村館安村館最上陣屋(大森陣屋)雪野山城 雪野山城建部城岡田館

織田 信次の墓織田淡水の墓(供養塔) 織田淡水の墓船岡山」古戦場なり川合寺館(津田氏邸)

神崎郡 永源寺町 26

石谷城市原野城(野村氏館)市原野白鳥社城上二俣城高松御所一色城・一式城・黄和田(きわだ)城(黄蘗城)九居瀬城甲津畑城・・池之脇城・高木城・高野城高野館(お鍋館=姫屋敷)殿屋敷城相谷城山城(鶴尾山城) 相谷万灯山城山上城(山上陣屋) 山上藩は山上陣屋和南城山田城八尾城箕川館杠葉尾城坂の頭関所蛭谷館(蛭谷城)佐目館
信長の千種越え 千草峠にて鉄砲打ち申すの
神崎郡 五個荘町 7
金堂陣屋箕作城(箕作山城)和田山城 和田山城小幡館塚本館宮荘清水ヶ井(しずがい)城宮荘殿屋敷遺構建部城(建部伝内屋敷)奥村館七里館下日吉城辻伊賀守墓

神崎郡 能登川町 16
福堂館阿弥陀堂城伊庭城(伊庭陣屋)今村城猪子館 佐野館小川城垣見城川南(かわなみ)城種村城新村城(志村城)八仏手城山路城徳永城(徳永氏館)躰光寺館伊庭古城(いばふるしろ)城須田館佐生日吉城(佐野山城・佐生城) 佐生日吉城 近江国(能登川・五個荘)
仮称)伊庭山城仮称)北須田山城仮称)石馬山城