冨波城
お城のデータ
所在地:野洲市(旧野洲郡野洲町)冨波
比定地は不明
別 称:富波城
区 分:平城
現 状:
築城期:
築城者:
遺 構:
目標地:
駐車場:路上駐車
訪城日2016.9.14
旧祇王村にあったとされる平城。冨波集落にあったとされるが、場所は 詳細は不明だが、
関白・近衛政家の日記に名前が登場することから室町時代中期に存在したものと考えられる。(さきろぐ)
近江・佐々木氏
鎌倉中期以後庶子家がつぎつぎに独立し、京極家が関東とのつながりを深める中で、六角氏は近江国内の支配体制の整備に着手した。その結果、秀義流の馬淵氏、佐々貴氏から分かれた三上・平井・真野・木村・伊庭・楢崎氏、他姓出身と考えられる目賀田氏や高井氏らを家臣団に編成した。彼らの大半は蒲生・神崎・愛知川に集中しており、近江国北部には存在していない。
中でも馬淵氏は、六角泰綱のころから守護代の地位にあった。その本拠地は蒲生郡馬淵荘(近江八幡市)で、佐々木庶子家の中では六角氏の居館小脇(八日市市)に近いことが、馬淵氏の早い段階での家臣化、守護代化につながったのであろう。当時の守護は在京しているのが通例であったので、国元で守護の職務を代行する守護代の存在を必要としたのであり、泰綱以後一部の例外を除いて、代々馬淵氏が守護代に補佐されている。六角氏は守護代の下に、郡単位で守護の遺志を執行する「郡守護使」と呼ばれる代官を設置して領国経営にあたった。任国におけるこのような支配体制の整備は、同時代の他の守護には認められない動きである。六角氏が独自の領国経営を模索した背景のひとつとして、泰綱の時代に家督相続をめぐる相論をきっかけとして近江国内の所領の多くが幕府に没収されたことが挙げられよう。勢力交代の危機感の現われが六角氏に任国の支配体制の整備を急がせた要因と考えたい。
一方、京極氏は泰綱の弟氏信から始まる。母は泰綱と同じく北条泰時の妹で、三庶子家の中でもっとも優勢を誇ったのはこのためである。その名称は在京御家人をして京都に構えた屋敷が高辻京極にあったことに由来する。おそらく父信綱が泰綱に六角東洞院、氏信に高辻京極の邸宅を分け与えたのであろう。坂田郡柏原荘(山東町)に本拠を置いたが、京極氏の主たる活動の舞台は近江国ではなかった。泰綱と信綱に分配されたのは京都における邸宅だけではなかった。父の担った職務に関しても、両者は分かち持つことになるのである。
泰綱が信綱の近江守護職を継いだのに対し、氏信は父同様、幕府から評定衆に選ばれるとともに、伯父広綱以来の検非違使に任命された。氏信の子孫も続いて続いて評定衆や検非違使に補任されており、京極氏の活動の場は京都や鎌倉にあったのである。鎌倉は、西国主出身の御家人という秀義以来の佐々木氏の血筋をかって、公武関係の調制を京極氏に期待したものと思われる。しかもそれを京極氏に割り当てることで、近江国における佐々木氏の勢力を分断する意図が働いたに違いない。このような幕府側の意図が、室町期の六角・京極の並存という状態を生み出したのである。
謎の平坦地=遺構か?
後法興院記
後法興院記(ごほうこういんき)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白・太政大臣を務めた公卿近衛政家の日記。
概要
現在、陽明文庫には寛正7年(1466年)の年始から永正2年6月4日(1505年7月5日、政家死去の半月前)までの自筆原本30巻(ただし、文明元年(1469年)から10年間分は欠失)が残されている。また、宮内庁書陵部・静嘉堂文庫・京都大学などに写本も残されている。
応仁の乱・山城国一揆・明応の政変などの動乱期の政治情勢、家領の経営・維持に関する記事、当時の公家社会の伝統行事や風俗に関する記事など、その内容は多岐にわたっているため、当時の状況を知る上で貴重な史料となっている。
戦国期の近江 六角討伐
戦国期の近江における勢力は、六角氏が江南八郡を京極氏が江北三郡を占め、十五世紀後半、対立の続く六角氏と京極氏が再び相対する事態がおとずれた。応仁元年(一四六七)、将軍家と管領家との権力争いに端を発し、細川勝元と山名宗全に二分して京都において激突した。いわゆる応仁・文明の乱である。この折、細川勝元以下、京極持清・赤松政則・武田信賢などの東軍方に、山名宗全以下、近江国守護六角高頼、畠山義就・斯波義廉・土岐為頼などが西軍となって相対した。
応仁の乱始まった時、六角の当主は亀寿丸(高頼)で、まだ幼少であったために一族の山内政綱が補佐してこの乱にのぞんだ。もちろん近江もこの戦乱にまき込まれたことはいうまでもない。
家臣の子息(伊庭満隆の子)を殺害したために家督をおわれた六角政堯と江北の京極勝秀は東軍に属して、応仁元年(一四六七)六角の本城観音寺城を攻めた。六角勢は翌二年守山城で大敗し、観音寺城も落城した。
六角氏内部でも家督相続を続けていた高頼の叔父政堯・持清が観音寺城・近江八幡長光寺城・守山などで戦ったほか、野洲の三上で数十回にわたって陣をはった。蒲生・野洲郡をめぐる戦いでは、守護高頼が伊賀に逃げ、足利義視を擁した政堯が一時的に江南の守護となったが、細川勝元の叔父としてその中枢にあった京極持清の権威が増し、応仁三年(一四六九)、江北三郡に江南九郡を加えた近江一国の守護職となり、政堯は持清の代行者に落ちた。
六角高頼は、この間も蒲生・愛知・神崎郡内で京極持清と戦い、文明二年(一四七〇)持清の死によって高頼は再び湖南を制した。しかし守護職は持清の子孫童子丸(勝秀)に譲られ、更に幼少の孫童子丸に危機を感じた幕府は、政堯に守護職を補佐させた。ここで再び高頼と政堯が蒲生・野洲郡内(三上など)で戦い、政堯の死によって高頼の江南支配は確立した。しかし、幕府は高頼の荘園横領に立腹する山門勢力の支援を受けて、京極政高に守護を任じ高頼討伐を行った。しかし、西軍の斯波・土岐の支援を受けた高頼の支配は変わらず、文明七年(一四七五)幕府と和議が成立し、実に十一年に及んだ争乱は幕府に屈することのなかった高頼の守護再任で一応収拾をみた。
しかし、荘園押領を続ける高頼に業を煮やした将軍義尚(義煕)は、長亨元年(一四八七)近江六角征伐を決し、将軍自ら坂本から栗太郡鈎に陣した。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査3、遺跡ウォーカー、『後法興殷記』、さきろぐ
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