城郭探訪

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信長公記  巻十二 11~18

2013年03月03日 | 番外編

信長公記

巻十二

天正七年

11、刑と誅  人売りの事

 この頃、下京場之町の門役①の女房が数多の女をかどわかし、日頃より和泉国堺湊で人売りしていたことが明らかになった。
これを聞いた村井貞勝は女房を召し捕らえ、事件の糾明に乗り出した。すると女房は女の身ながら今までに八十人ほどを売り渡したことを白状した。これにより村井はただちに女房を成敗したのであった。

 また9月29日には加賀国一揆の門徒で大坂へ向かっていた者を正親町中納言殿が捕らえ、信長公へ身柄を引き渡してきた。信長公はこれをよろこび、門徒を即刻誅殺した。

 ①町の区切りにある木戸(門)の番人

 

12、応報  謀書の事

 10月1日、山崎の町人某が、先年明智光秀・村井貞勝の裁きによって判決を下された公事を訴状をいつわって信長公へ直奏してきた。ところが訴えを受けた信長公が村井に下問し、村井がその判決の次第を言上したため、偽訴であることが判明した。事の次第を知った信長公は、曲事許しがたしとして町人を成敗した。

 その後信長公は10月8日戌刻になって二条を発ち、夜もすがら道を下って9日の日の出どきに安土へ帰城したのであった。

 

13、伊丹亀裂  伊丹城謀叛人の事

 10月15日、伊丹で滝川一益の調略が奏功した。一益が佐治新介を使者として荒木方の中西新八郎を味方に引き入れ、さらにその中西の才覚によって足軽大将の星野・山脇・隠岐・宮脇も謀叛に同調したのである。中西らは守備していた上臈塚砦へ滝川勢を導き入れ、敵勢数多を斬り捨てた。

 この謀叛により荒木勢は崩れ、取るものも取り敢えず有岡城①へと逃げ入った。将士たちは親子兄弟を討たれて泣き悲しむばかりであった。これに対し織田勢は伊丹の町を損害なく奪取し、城と町との間にあった侍屋敷に火をかけて城を裸城にすることに成功した。

 一方岸の砦を守っていた渡辺勘大夫は上臈塚砦の陥落を受け、砦を出て多田の館に退去した。しかし信長公は渡辺がかねて降伏を申し出ていたわけでもないことを曲事であるとし、渡辺を殺害してしまった。

 また鵯塚の砦は野村丹後が大将となって雑賀衆の加勢を得て守備していたが、士卒は戦闘によってことごとく討死し、窮した野村は織田勢へ降伏を打診してきた。しかし信長公はこれも許さず、野村を殺害して首を安土へ運ばせた。荒木村重の妹で、今は後家となった野村の妻は有岡城中でこのことを聞き、憂きも辛きもわが身一人と嘆き悲しんだ。生きて甲斐なき身ながらも、この上一体いかなる憂き目を見ることになるのかと思い嘆く姿は、目も当てられぬ哀れさであった。

 一方寄せ手は四方より攻囲の輪を縮め、井楼・金堀衆をもって攻め上げ、命お助け候えとの降伏嘆願にも容赦なく攻撃を続けたのだった。

 そのような中の10月24日、明智光秀が安土へ参り、信長公へ丹後・丹波両国一円の平定を報告した。このとき光秀は志々羅百反を献上した。

 ①伊丹城。1574年村重により有岡と改名

 

14、駿河路鳴動  氏政甲州表へ働の事

 10月25日、相模国の北条氏政が信長公に好を通じ、約六万の軍勢を率いて武田氏攻撃のため出陣し、甲斐に向かって黄瀬川を隔てた三島①に陣を取ったとの報が届いた。この動きに武田勝頼も甲州の兵を出勢させ、富士山麓の端三枚橋②足懸りの砦を築いて在陣した。また徳川家康も北条勢に呼応して駿河へ攻め入り、諸所に火煙を揚げたとのことであった。

 10月29日、越中の神保長住が黒葦毛の馬を献上してきた。

 また10月30日には備前の宇喜多直家が帰服を許され、その名代として宇喜多与太郎が摂州小屋野まで上り来て信忠殿へ御礼を申し上げた。なお取次は羽柴秀吉がつとめた。

 11月3日、信長公は上洛の途に着き、その日は瀬田橋の御茶屋に宿泊した。そして番衆や伺候してきた客たちへ白の御鷹を披露し、翌日になって京へ入ったのだった。
 入京した信長公は11月5日、二条御新造を改築造営して禁裏へ献上したい旨を奏聞した。これを受けた禁裏では陰陽博士に日取りを調べさせたうえ、吉日の11月22日を選んで親王様が新御所へ行啓されることに定まり、その準備が進められていった。

 11月6日、信長公は白の御鷹を連れて放鷹に出かけ、北野近辺で鶉鷹を使って狩りを行った。また8日にも東山から一乗寺まで鷹狩を行い、この日初めて白の御鷹を放って獲物を狩ったのだった。なお放鷹の最中、上京裁売の町人が一献を進上してきたが、これに対し信長公は一々ねんごろに言葉をかけてやった。かたじけなき次第であった。

 その後11月16日亥刻になり、信長公は二条御新造を出て妙覚寺へ座を移した。

 ①現静岡県三島市 ②現沼津市内

 

15、悲歌  伊丹の城にこれある年寄共、妻子・兄弟捨置退出の事

 11月19日、有岡城の荒木久左衛門ら村重配下の歴々衆が妻子を人質として城中に残し置き、尼崎に入って村重に意見し、尼崎・花隈両城を明け渡すよう説得することが定まった。説得が成功した際には、各々の妻子たちは助命されるという約束であった①。
 そうして久左衛門らは尼崎へと向かった。なお有岡を出る際、久左衛門は次の一首を詠み置いていった。

いくたびも毛利を憑みにありをかやけふ思いたつあまのはごろも②

 久左衛門らが出たあと、織田信澄は有岡城中に警固の軍勢を差し入れ、櫓々に番衆を配置した。いよいよ籠詰めの身となった女たちは互いに目を見合わせ、あまりの物憂さに歌を詠みかわしていった。
 その歌は次のごとくであった。

村重の妻だしが、村重のもとへ送った歌
 霜がれに残りて我は八重むぐらなにはのうらのそこのみくづに

村重の返歌
 思いきやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは

あここからだしへの歌
 ふたり行きなにかくるしきのりの道風はふくともねさへたへずば

お千代から村重への歌
 此ほどの思ひし花はちり行きて形見になるぞ君が面かげ

村重の返歌
 百年に思ひし事は夢なれやまた後の代の又後の世は

 ①結局この説得は不調に終わり、荒木久左衛門らは有岡に戻ることなく逐電してしまう。 ②「毛利を頼みに有岡で籠城を続けたが、もはやそれも窮まったので尼崎へ行くことを思い立った。」

 

16、二条御所行啓  親王様、二条御新造へ行啓の事

 天正7年己卯11月22日。この日は誠仁親王様が二条新御所へ移座される日であり、行啓の時間は卯刻から辰刻①に至るまでと定められていた。

 当日、親王様の行列は一条から室町小路を抜ける経路を取った。その行列は、

先頭に近衛前久殿参る

次いで
近衛大納言信基殿
関白九条兼孝殿

五摂家
一条左府内基殿
二条右府昭実殿
鷹司少将信房殿

 以上輿で参り、輿添えには侍衆歴々が従う。介添衆や中間達も輿の後に付いて随行した。

それに続き
大藤左衛門尉
大藤備前守

奉行衆
林越前守
小河亀千代丸

触口② 折烏帽子に素襖・袴姿で袴の股立を取って歩く。
御物 五尺四方ほどもあり、上下皆朱の唐櫃に納め台に乗せて運ばれる。
雑色 触口に同じく折烏帽子に素襖・袴で、これも袴の股立を取って歩く。

 なおこれらの衆は思い思いに拵えた金手棒を手にし、見物の群衆の中で刃物を持った者や腰高く見物している者達を抑えるべく下知しながら通っていった。

さらに引き続き
天王寺楽人 御琴を錦の袋に入れて運ぶ。持ち手は風折烏帽子・布直垂を身に着けていた。

次いで間に一人置き
唐傘・白御笠 これも袋に入る。持ち手の仕丁③は立烏帽子に白張の狩衣。

そして輿が参り
一番板輿 五の宮様・若御局様が相輿して乗る。
二番 中山の上臈・勧修寺上臈
三番 大御乳母
四番 御やや
五番 中将殿
六番 五の宮様御乳人

 以上六丁の輿が進んだ。輿周りの仕丁たちは十徳を着用し、その脇は侍衆が左右を固めていた。また輿に従う御供の女房衆六十人は絹のかずきで顔を隠し、皮足袋に一枚皮の草履を履いていた。その華麗さは誠に光り輝くばかりで、衣香辺りに薫じて結構この上ないものであった。彼女たちの中には下僕衆に上差しの袋④などを持たせている者などもあった。

さらに堂上方の公家衆が続く。

御供衆に加わった公家は、

飛鳥井大納言殿・庭田大納言殿・四辻大納言殿・甘露寺大納言殿・持明院中納言殿・高倉藤中納言殿・山科中納言殿・庭田源中納言殿・勧修寺中納言殿・正親町中納言殿・中山中納言殿・中院中納言殿・烏丸弁殿・日野中納言殿・水無瀬治部卿殿・広橋頭弁殿・吉田右衛門督殿・竹内右兵衛督殿・坊城式部少輔殿・水無瀬中将殿・高倉右衛門佐殿・葉室蔵人弁殿・万里小路蔵人右少弁殿・四辻少将殿・四条少将殿・中山少将殿・六条少将殿・飛鳥井少将殿・水無瀬侍従殿・五条大内記殿・中御門権右少弁殿・富小路新蔵人殿・唐橋殿

 以上の歴々であり、みな徒歩立ちで御供をしていた。その出立ちは立烏帽子・絹直垂に各家さまざまの紋を染め、素足に緒太の草履を履くというものであった。また風折烏帽子を着用した方々はおのおの帽子の懸緒を紫の平紐で結んでおり、飛鳥井大納言殿などは紫の四本組紐の懸緒を使用していた。なおこのとき吉田神社の神主吉田兼和殿は堂上方に加えられていたが、こちらは白の八本組紐で結んでいた。

そしてそのあとに、

輿添衆

御方御所たる親王様の御輿 輿かきは立烏帽子に白張の狩衣を着用。輿周りには北面の武士十一人が折烏帽子・素襖・袴・足半草履で従う。また輿のやや後には牛飼も付き従った。

さらに清華家からは
徳大寺大納言殿・西園寺大納言殿・三条中納言殿・大炊御門中納言殿・久我中納言殿・転法輪三条中納言殿・花山院宰相中将殿

 以上の面々が従い、立烏帽子に色とりどりの絹直垂を身に付け、素足に緒太の草履を履いて御輿のやや後方を歩いていた。そしてその後には公家衆の抱える侍・中間たちが続いて歩いており、その数は三百人ほどにも上ると思われた。

 なおこのとき親王様が乗る輿の御簾へは折よく朝日が差しこんでおり、そのため信長公のいる物見所からも親王様の御尊顔を拝することができた。その出立ちは眉を描き上げて立烏帽子をかぶり、練り抜きの香色小直衣に白の袴を召すというもので、このように間近く御姿を拝することができる機会は前にも後にも起こりえないことであった。儀式のすばらしさは、もはや申すも及ばぬものとなった。

 なお御輿には伯中将殿・冷泉中将殿の両人が付き従い、菊亭内府殿が御簾を上げる役を担っていた。また御剣は中院中納言殿が持ち、御礼申次は勧修寺中納言殿が務めたということであった。

 そのようにして行啓の儀を終えた後の11月27日、信長公は北野辺で放鷹を楽しんだ。このとき秘蔵の端鷹がいずこかへと飛び失せてしまったが、方々を捜索させたところ12月1日になって丹波で発見され、無事信長公のもとへ戻されたのだった。

 一方この時期、伊丹有岡城には村重縁者の女達を警固するため村重配下の吹田村氏・伯々部左兵衛・池田和泉の三名が留め置かれていた。しかしこのうち池田和泉は城中の有様をどう悲観したのか、

露の身の消えても心残り行くなにとかならんみどり子の末

との一首を詠み残したのち、鉄砲に火薬を込めて自分の頭を撃ち抜き自害してしまった。このことで残された女房衆はいよいよ憂いを深くし、心もままならず尼崎からの迎えを今や遅しと待ちわびたのだった。その哀れさはまことに言葉にも表せぬほどであった。

 12月3日、信長公は家中の上下諸侍ことごとくを妙覚寺へ召し寄せ、座敷に積み上げた千反に余る縮羅・巻物・板物等の織物類を馬廻・諸奉公人へ分け与えた。侍たちはいずれも品物をかたじけなく頂戴していった。
 そののちの12月5日、信長公は青木鶴を使者として北国に遣わし、昨年有岡に入って荒木方へ味方した高山飛騨守を不忠のかどで柴田勝家のもとへ預けさせたのだった。

 ①午前6~10時のうち ②命令を伝える役人 ③雑用をする役人 ④衣服等を入れる袋

 

17、八幡宮造営  やわた八幡宮造営の事

 12月10日、信長公は山崎に座を移したが、翌11日・12日が雨となったためそのまま山崎の宝積寺に逗留することとなった。

 ところで、この宝積寺に近い石清水八幡宮の内陣と外陣①の間には古来より木製の樋が渡されていた。しかしこの当時その樋は朽ち果て、雨漏りがひどく社殿が荒廃してしまっていた。

 そのことは宝積寺に滞在する信長公の耳にも入った。すると信長公は新たに社殿を造営することを思い立ち、すぐさま山城国内で代官を務める武田佐吉・林高兵衛・長坂助一を召し寄せた。そして末代まで腐らぬように長さ六間の樋を金物製の鋳物五本で作り上げるよう命じ、また大工の棟梁や諸職人の頭たちが余分に費用を取ってあらぬ浪費をしたためろくに作業が進まなかった前例にかんがみ、しかるべき作料の他には少しも費やすことのないよう各所に奉行を配したのだった。その上で信長公は、造営が半刻でも早く完了するよう念を入れて作業すべき旨を固く命じたのであった。

 こうして各所から鍛冶・番匠・大鋸引・葺師・鋳物師・瓦焼等の諸職人が召し寄せられ、大和三輪山から材木が切り出されていった。が、そうして準備が整ったところで信長公が社僧に鋸初めの吉日を尋ねたところ、恒例として禁中より日取りを申し付けてもらうことになっているとの返答であったため、着工はしばし待たれることとなった。そののち禁中からは吉日良辰を選んで天正7年己卯12月16日卯刻を鋸初めとするとの勅諚が降りたため、そこから造営が開始されることとなったのだった。

 なお、これと前後して信長公は八幡の片岡鵜右衛門という者が所持していた珠光香炉を召し上げ、代物として銀子百五十枚を与えた。

 ①本殿のうち神体を祀る場所とその外側

 

18、荒木党刑戮  伊丹城相果だし御成敗の事

 今度の謀叛において荒木村重が尼崎・花隈の両城を明け渡さず、歴々の重臣たちの妻子・兄弟を見捨ててわが身一人のみ助かろうとするさまは、まことに前代未聞の始末というほかなかった。

 そのような村重の動向を知った数多の妻子たちは、これは夢かうつつかと嘆き惑った。恩愛の者との別れを感じての悲嘆ぶりは、もはや例えようもないものであった。この先の運命を予想して嘆く彼女たちの中には幼子を抱く者もあれば、懐妊している者もあったが、それらが煩悶して声も惜しまず泣き悲しむ有様は、まったく目も当てられぬものであった。彼女らを拘禁する猛き武士たちもさすがに岩木ではなく、この様子に涙を流さぬ者はなかった。

 信長公も彼女たちの様子を聞き、不憫さを禁じ得なかった。しかし奸人を懲らしめるため、あえて処刑を決断し山崎で指示を下していったのだった。
 信長公は荒木一類の処刑を都で行うことを命じ、人質たちを12月12日の晩刻から夜もすがら京へ上らせた。そして妙顕寺に広牢を構えて三十余人の女達を押し込め、また吹田村氏・伯々部左兵衛・荒木久左衛門の息子自念の三名を村井貞勝の屋敷で入牢させた。さらに摂津国では分限の侍の妻子を集めて磔にかけるよう命じ、滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀の三名にその執行を申し付けたのだった。

 そのような中、荒木五郎右衛門という者が「日頃夫婦の仲はさほど親しくなかれども、かと申して妻女を捨て置くことは本意にあらず」として明智光秀のもとへ頼み入り、女房の命に代わらんと様々に嘆願してきた。しかし信長公はこれを許さず、結局夫婦は共々に成敗されることとされてしまった。まことに哀れな結末であり、是非なき次第というほかなかった。

 かくして処刑の準備は進められていった。人質たちは思い思いに最期の文をしたため、親子兄弟へ向け涙とともに書き送ったのだった。

 そして12月13日辰の刻に尼崎近くの七松という地で百二十二人が磔にかけられることとなり、刑場へ向け人質たちが引き出されていった。さすがに歴々の上臈衆であり、いずれも美々しき衣装を身にまとい、すでに命叶わぬを悟って美しき姿で静かに居並んでいた。

 やがて、その身を荒々しき武士たちが引き掴み、あるいは母親に抱かせて台に引き上げ突き殺し、あるいは鉄砲をもってひしひしと撃ち殺し、あるいは槍と長刀で刺殺して処刑していった。百二十二人の女房衆が一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、見る人は目もくらみ心も消えて涙を抑えきれなかった。処刑の様子を目にした者は、二十日三十日の間はその有様が瞳に焼きついて忘れられなかったということであった。

 この他にも端侍の妻子とその付々の女三百八十八人と、歴々の女房衆に付いていた若党以下の男百二十四人の合わせて五百十余人が矢部家定検使のもとで家四軒に押し込められ、周囲に乾き草を積んで焼き殺された。男女は風向きに従って魚の群れのように上へ下へと並び動き、灼熱の炎にむせび、躍り上がり跳ね飛び、その悲鳴は煙とともに空へと響きわたった。その有様は地獄の獄卒の責めもかくやと思わせるもので、みな肝魂を失い、二目と見ようとする者がなかった。その哀れさは、もはや申すこともできないほどであった。

 摂津での処刑は、そうして終わった。処刑ののち信長公は伊丹有岡城の警固を小姓衆に二十日交替で命じ、12月14日になって山崎から京都妙覚寺に移った。そして12月16日に荒木一類の者達の処刑を京で行うことを申し渡したのだった。

 ここに至るまでの物語の哀れさは、申し様もないものであった①。

 前年10月下旬に村重が天魔の導きによって謀叛を起こすと、信長公は11月3日に上洛して同9日には鎮定のための出馬をし、天神馬場に砦を構えた。しかし村重に与した高槻・茨木の両城は堅城であり、このため織田勢も簡単には攻められぬと村重もその配下達も考えていた。ところが、村重がそうしてに杖にも柱にもと頼りにしていた茨木城主の中川清秀と高槻城主の高山右近は、意外にも信長公へ帰順してしまったのだった。村重はそれでもさほどには逼迫を感じなかったが、そのうちに織田勢は小屋野まで陣を寄せ、伊丹有岡城を隙間なく囲む陣を築いてしまった。

 12月1日の夜になると、今度は安部二右衛門が変心して大坂・尼崎から伊丹への通路を遮断した。これにより伊丹は上下とも大いに苦しんだ。しかし安芸の毛利氏から「正月15日過ぎには必ず出馬して西宮・越水近辺に本営を構え、吉川・小早川・宇喜多を尼崎に置き、雑賀衆と大坂勢に先手をさせて両所から攻めかかる。そうして織田勢の陣を追い払い荒木殿を解放する。このこと案のうちである」との旨がいかにも真実らしく誓紙をもって伝えられてきており、荒木勢は神仏へ祈りをかけてこの誓紙にすがったのだった。

 一方信長公は2月18日に上洛し、3月5日になって再度の出馬をして池田に陣を構えた。また中将信忠殿も出陣して加茂岸の敵勢近くに付城を築き、伊丹有岡城の四方に堀をうがち、堅固な塀と柵を二重三重に構えていった。攻囲の輪に閉じ込められた有岡の城は、まさに籠の中の鳥にほかならなかった。

 荒木方は行末の運命を考えて憂いを深くしたが、それでも春夏のうちに毛利氏が出勢すれば一筋の道が開けるに相違なし、と信じてひたすら待った。彼らは「いかなる森林でも、春になれば花も咲き出でるものだ。さればこの地も、いずれ百花開いて国静まろう」と毛利勢を待ち焦がれたものであったが、春が暮れて楊梅・桃李の花が散り、梢茂みが模様を変え、卯の花が咲いて郭公が飛来し、五月雨の雨が物思いを募らせる時季になっても、毛利勢が来援することはなかった。そのように月日が過ぎゆく間に城兵たちは各所の戦闘によって親を討たれ、子に死に遅れ、どの者も一層嘆きを深くしていったのだった。

 窮した荒木方は、「出陣の件はいかに」と中国路へ重ねて使者を送った。これに対し毛利勢からは「人馬の糧食も調ったので、7月中には出勢する」との返答が返ってきたのだが、結局7月中も動きはなく、8月になって今度は「国許に問題が起きた」と通達されてきたのだった。

 すでに木々も葉を落とし、森も次第に枯木を増す時節となっていた。城兵はもはや力を失い、戦意も無くしていた。この様子に村重は、「磔にされし波多野兄弟がごとく易々とは終わらぬ。兵粮ことごとく尽きる前に城手の人数を出して小屋野・塚口へ向け一戦させ、その間に伊丹に控える三千の軍勢を三段に備え、女子供を守りつつ退くことに何の不都合もない。また仮にその策が叶わなかったときは、尼崎・花隈の城を明け渡して助命されればよい」といって城内を励ました。

 ところが9月2日の夜になり、当の村重が供の者五・六人のみを連れて伊丹有岡城を忍び出で、尼崎に移ってしまった。この事実に城中はいよいよ落胆し、いずれの者も前途を案じて顔色を暗くしたのだった。

 そのような中の10月15日、足軽大将の星野・山脇・隠岐の三名が謀叛を起こした。荒木方では日頃は物頭級の者たちの妻子を人質として夜間城中に留め置くことにしていたのだが、運の尽きた証か、この日は払暁に人質たちを各砦へ帰してしまった。するとこれを機会とみた三名らが謀叛に走り、上臈塚の砦へ織田勢を引き入れたのだった。砦へ乱入した織田勢は敵勢数多を斬り捨て、伊丹の町を手中に収め、城と町との間にあった侍屋敷に火をかけて城を裸城にした。さらに信長公は岸の砦を開いて多田の館まで退いていた渡辺勘大夫を殺害し、また鵯塚の砦に籠っていた野村丹後守も降伏したものの、赦免することなく腹を切らせたのだった。

 もはや有岡の落城は定まった。この状況を見た明智光秀は尼崎・花隈の開城と引きかえに城内の者達を助命することを進言して許され、信長公へ感謝しつつその旨を荒木方へ申し送った。荒木方でも他に一途の道も残されておらず、「妻子を人質に残し置いた上で尼崎に入り、荒木に理を申し聞かせて両城を進上させ申す。もし村重同意せざるときは、それがしらが御人数を引き受けて先陣をつかまつり、即時に城を落として御覧に入れる」とこの条件を承知した。そして女達の警固に伯々部左兵衛・吹田村氏・池田和泉を残し、11月19日他の老臣らが尼崎の村重のもとへ説得に向かったのだった。
 しかし城に残った三名のうち、このような事態となったことを悲観した池田和泉は鉄砲に弾を込め、おのれの頭を撃って果ててしまった。

 世の中に、命ほど情を失わせるものはなかった。城に残された者達の元へはほどなくして、尼崎へ向かった歴々の侍たちが日頃の強弁もむなしく妻子・兄弟を捨て、我が身一つ助かるべく姿をくらましたということが伝わってきたのだった。

 残された人質たちはもはや助かる道もないことを覚った。そしてこの上は仏道・導師にすがろうと考え、寺々の僧へ思い思いに頼み入って数珠・経帷子を授かり、戒を守りながら残された時を過ごしたのだった。布施には金銀を贈る人もあれば、着ていた衣装を贈る人もあった。人質たちにとって、かつて着た綾羅錦繍よりも経帷子のほうが今となってはありがたかった。世にありし頃は見聞きするのも忌まわしかった経帷子と戒名が、今は頼もしく感じられていた。千年万年までもと契った夫婦・親子・兄弟の仲を断たれ、図らずも都で諸人を前に恥をさらすこととなった人質たちであったが、村重の妻だしらはこれ以上村重を恨まず、前世の因業の結果こうなったのだとばかりに、歌のみを多く詠み残していったのだった。

 それらの歌は、

 だし作
きゆる身はおしむべきにもなき物を母のおもひぞさはりとはなる

 同
残しをくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけり

 同
木末よりあだにちりにし桜花さかりもなくてあらしこそふけ

 同
みがくべき心の月のくもらねばひかりとともににしへこそ行け

 だし付きの局・京殿おちい作
世の中のうきまよひをばかき捨てて弥陀のちかひにあふぞうれしき

 村重の娘隼人女房作
露の身の消え残りても何かせん南無阿みだ仏にたすかりぞする

 村重の娘おほて作
もえ出づる花は二たびさかめやとたのみをかけてあり明の月

 同
歎くべき弥陀のをしへのちかひこそひかりとともににしへとぞ行

 さい作
先だちしこのみか露もおしからじ母のおもひぞさはりとはなる

 以上のごとくで、いずれも思い思いに文に書き残したものであった。

 そして、処刑の日がやってきた。12月16日辰の刻、人質たちは車一両に二人ずつ乗せられて洛中を引かれていった。その順番は、

一番
 歳二十ばかり 吹田村氏  村重の弟
 歳十七 野村丹後後家  村重の妹

二番
 歳十五 隼人女房  村重の娘で、このとき懐妊中
 歳二一 だし

三番
 歳十三 だご  村重の娘で隼人女房妹
 歳十六 吹田女房  吹田因幡の娘

四番
 歳二一 渡辺四郎  荒木志摩守の甥で、渡辺勘大夫の娘に縁組して養子に入る
 歳十九 荒木新丞  渡辺四郎の弟

五番
 歳三五 伊丹安大夫女房  伊丹源内宗祭の娘で、子は八歳
 歳十七 北河原与作女房  瓦林越後の娘

六番
 歳十八 荒木与兵衛女房  村田因幡の娘
 歳二八 池田和泉女房

七番
 歳十三 荒木越中女房  だしの妹
 歳十五 牧左兵衛  だしの妹

八番
 歳五十ばかり 伯々部左兵衛
 歳十四 自念 荒木久左衛門の息子

 以上であり、この他にも車三両に子供七・八人ずつが乗せられ引かれていた。車は洛中を上京一条辻から室町通りまでを引かれてゆき、刑場の六条河原に行き着いた。

 刑場には奉行を命じられた越前衆の不破・前田・佐々・原・金森の五名のほか、諸役人・触口・雑色や青屋・ら数百人が集まり、甲冑を身に着け、抜き身の太刀・長刀を持ち、弓には矢をさしはさんで厳重に周囲の警護を行っていた。

 女房達はみな経帷子を身にまとい、その上に色よき小袖を着て出立ちを美しくしていた。いずれも歴々の女房衆であり、すでに命免れえぬを悟って取り乱すことなく神妙な態度を保っていた。
 その中でも、村重の妻だしという者は聞こえ高き美人であった。彼女はかつて衆目にさらされることもなかった身であったが、このたびは乱世の習いにより、さも荒々しき雑色の手で小肘をつかまれて車に引き乗せられた。しかし最期の時になると、だしは車を降りざまに帯を締め直し、髪を高々と結い直し、自ら小袖の襟をくつろげ、まことに尋常に首を打たれたのだった。

 このだしの例を始めとして、女房たちはいずれも潔い最期を遂げていった。しかしながら下女や婢者はそうも行かず、人目をはばからず悶え悲しみ、泣き叫ぶさまは哀れとしか言いようがなかった。

 荒木久左衛門息子の自念十四歳と伊丹安大夫の倅八歳の二名は、若年ながらおとなしく処刑の場に臨んだ。「最期の所はここか」と言って敷皮に座し、首を伸ばして断首された様子は、貴賎の間で褒め称えぬ者がなかった。「栴檀は二葉より芳し」②とはこのことであった。

 かくして村重一人の仕業により、荒木一党は一門・親類上下を知らず四鳥の別れ③に血の涙を流すこととなった。人々はその怨み恐ろしやと舌を巻いたものであった。
 処刑後、遺体は生前人質たちが頼んでおいた寺々の僧たちが引き取っていった。これほどおびただしい人数の処刑は、上古より初のことであった。

 その後12月18日の夜になり、信長公は二条御所へ参内して金銀・巻物等数多くを献上した。そして翌19日に京を出、終日の雨の中を進んで安土へ帰城したのだった。珍重至極であった。

 ①以降数十行は落城までの経緯を総括した文章となる。 ②優れた者は幼時より秀でていることの喩え ③親子の別れ

 

転載 (ネット情報に感謝・感涙)


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