お城のデータ
別 名:伊幾須城
現 状:印岐志呂神社
区 分:寺院城郭
築城期:南北朝期:建武二年(1335)
築城者:山門僧
遺 構:堀、曲郭・土塁・石垣
駐車場:神社駐車場
訪城日:2014.10.21
お城の概要
伊岐代城は、琵琶湖岸を走る浜街道と、中山道と湖港志那港を結ぶ志那街道の交差点付近にあります。北東300mほどのところに、琵琶湖の船奉行を務めた芦浦観音寺が鎮座しています。
現在は立派な印岐志呂神社があるというほかは、城らしき面影もとくにありません。周囲は深田となっていることから、往時はそれこそ芦の浦に浮かぶ島のような神社だったのではないかと思われます。
『日本城郭大系』では、近江には寺院が城郭化した例が多い(芦浦観音寺、百済寺、弥高寺など)として、神社が城として取り立てられたことに注目しています。しかし、私はそれより建武二年の戦いで神社に篭ったのが比叡山の僧兵であった。往時は、非常時は宗教の違いなど気にならなかったか。
歴 史
印岐志呂神社を利用した城である。建武二年(1335)十二月、足利尊氏が朝廷に反旗を翻すと、比叡山の僧兵1000人余が印岐志呂神社などに拠って尊氏軍と戦った。 尊氏軍は一夜で勝利し、神社は焼失したとされる。
戦国時代に入り、元亀三年(1572)に六角氏の残党が反乱を起こした際、織田信長の軍勢が神社に乱入したことが縁起に記されている。このころ、足利義昭の信長包囲網計画により、湖南では六角氏残党の反乱や金ヶ森一向一揆が発生した。金ヶ森城は、伊岐代城から東に2kmほどのところにあるため、先の信長勢の行動は一向一揆との関連も考えられる。
慶長以降になって、当地の領主であった芦浦観音寺や、五奉行の1人長束正家などによって社殿が復興された。また、大坂の陣(夏冬不詳)に際し、徳川家康は志那街道を経由し、印岐志呂神社に立ち寄り武運長久を祈願したと伝わる。
印岐志呂神社参道伊岐代神社山門
印岐志呂神社拝殿
印岐志呂神社本殿
奥御前社
神社東側の堀
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大系
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