城郭探訪

yamaziro

志那(しな)城    近江国(草津)

2014年10月22日 | 平城

お城のデータ 

所在地:草津市志那町990      map:http://yahoo.jp/4Enyo4

現 状:個人宅・宅地

区 分:平城

築城期:南北朝期

築城者:志那氏

城 主::志那弥三郎範重

遺 構:堀跡・屋敷跡

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.10.21


お城の概要

 志那城は、県の遺跡分布図では志那集落990番地の邸宅付近となっている。このお宅には城門のような長屋門が建ち、前には深い水路が走っていて、いかにも城構えのように見えるが、本当のところは不明である。



この向かいの邸宅には「宗鑑翁屋敷」の石碑が建つが、宗鑑翁とは足利義尚に仕えた志那氏の一人で弥三郎範重の通称であり、志那氏がこの付近にあったことは間違いないようだ。

志那は、山田や矢橋よりも琵琶湖に突き出た場所にあり、すぐ対岸には比叡山お膝元の坂本があることから往時は非常に栄えていたであろうことが想像できます。

 志那城址については、現在その位置も定かではなく、滋賀県埋蔵文化センターの遺跡マップに記載されている志那城遺跡の場所です。すぐ近くの民家の門脇には、家主が自費で建てたと思われる宗鑑屋敷跡の立派な石碑があります。が、志那をはじめ浜街道沿いの集落は、近世に道の拡幅されてます。
           

           

歴 

志那氏は、近江源氏佐々木氏の分派である。佐々木秀義の5男五郎左衛門義清を祖とし、志那浜に屋敷を構え志那氏と称したとされる。

『日本城郭大系』では、志那氏の存在は確認されるものの、詳細は不明としている。志那は、矢橋や山田と並ぶ、琵琶湖の重要な湖港であったため、港を支配した在地領主の城館があったことは想像に難くない。

 戦国時代初期の連歌師山崎宗鑑は、初名を志那範重といい、志那の出身であるといわれる(諸説あり)。範重は、はじめ将軍足利義尚に仕え、延徳元年(1489)に義尚が鈎で陣没すると、近江を去ったといわれる。これが正しければ、宗鑑は元志那城主かその一族であったと推測される。志那城と志那氏についてはこのようにほとんど詳細は不明である。

志那港と志那街道は、対岸の坂本や比叡山との連絡で栄えていたため、織田信長の比叡山焼き討ち後は徐々に衰退したといわれる。


山崎宗鑑
室町後期の連歌師・俳人。本名志那弥三郎範重。室町幕府9代将軍足利義尚に仕えた。長永3年(延徳元年1489)義尚が、六角高頼の討伐中の鈎陣屋にて陣没したことを愁いて出家した。山城国山崎に閑居し「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「新撰犬筑波集」の編者。荒木田守武とともに俳諧の祖とされる。

 

西側は、干拓されています、

ここhttp://yahoo.jp/nH6YD7 志那城・・・(南の真珠養稙湖から遠望)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大

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