遺跡ウォーカーの比定地(竹蓮寺の北の個人宅)
お城のデータ
所在地:長浜市(旧東浅井郡)高月町西阿閉 map:http://yahoo.jp/pLmSVC
区 分:平城
現 状:宅地
築城期:室町期
築城者:阿閉新兵衛
目標地:竹蓮寺
駐車場:竹蓮寺前に路上駐車
訪城日:2016.9.9
お城の概要
西阿閉集落の竹連寺の北側に、門構えの個人宅が、遺跡ウォーカーの比定地となっている。
西阿閉城は山本山城の東麓に築かれていたという。現在の西阿閉集落で「新兵衛屋敷」「蟻屋敷頭」などの地名が残されているものの遺構はない。
西阿閉集落の西 山本山城の山腹(210m)に阿閉城http://www.isekiwalker.com/iseki/102149/(高月町西阿閉阿閉山)に遺構あるようだ
お城の歴史
山本山城主阿閉貞征(長之)の家臣阿閉新兵衛の居城。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「伊香郡 西阿閉城主 佐々木末隋兵 阿閉五郎・同 阿閉三河守・佐々木浅井旗頭 阿閉淡路守」の名を記す。
\\\信長公記 巻六 元亀四年 11、決壊 阿閉謀叛の事\\\
8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城(現滋賀県虎姫町月ヶ瀬)へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山(現浅井町・湖北町間)に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山(現余呉町~木之本町)方面に布陣しなければならなかった。
また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。
\\\信長公記 巻六 元亀四年 12、追撃 大筒・丁野攻破らるるの事\\\\
信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。
降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。
信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。
大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。
このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山(現滋賀県木之本町内)でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。
参考資料:遺跡ウォーカー、信長公記、滋賀県中世城郭分布調査1、『日本城郭大系』11
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