「餅なし正月」消える風習 滋賀など局地的に伝わる お雑煮の餅。正月にあえて餅を食べない「餅なし正月」の風習は薄れてきている(京都市内)
正月に餅を食べない「餅なし正月」という、ちょっと変わった風習が全国各地で局所的に残っている。京都府内では伝承が確認されていないようだが、滋賀県では受け継ぐ地域がある。餅を食べない理由は地域によってさまざまというこの風習は、核家族化の進行に伴い、消えかかっている。
■信長の時代から
東近江市鯰江(なまずえ)町に住む鈴村重史さん(66)宅では例年、元日から3日まで餅を食べず、イモが入ったみそ汁を出す。「昔からうちではこうです。代々、ずっと続けています」
なぜ正月に餅を食べないのだろうか。
鈴村さんが住む鯰江町にかつてあった鯰江城が織田信長勢に攻められ、落城した。「その死者を追悼するために始まったと父から聞いています」
鯰江町では多くの家が「餅なし正月」の風習を受け継いできたが、近年は失われつつあるという。「70軒ほどありますが、今も受け継いでいるのは10軒ほどではないでしょうか」と鈴村さんは話す。
「餅なし正月」を研究する民俗学者の金田久璋さん(72)=福井県美浜町=によると、滋賀県内でこの風習を受け継ぐのは鯰江町と、その近くの東近江市青山町、湖南に位置する栗東市出庭の3地域が確認されている。
京都では伝承や事例が報告されていないことについて、金田さんは「かつてはあったかもしれないが、長く都が置かれた地で、文化がめまぐるしく変化する中で消えたのではないか」と推測する。
栗東市の出庭地域の風習などを記録した「出庭の民俗」によると、出庭では五つの家で餅を食べない風習が伝えられていた。理由は各家で異なり、「敵の急襲に備えて、のどを詰まらせないようにする」「貧しくて食べられなかった」がある。
餅なし正月の由来として、稲作文化の象徴といえる餅を畑作文化が拒んだとする説がある。しかし、滋賀県内の3地域はいずれも山地と琵琶湖の間に広がる扇状地の平野部に位置する豊かな水田地帯で、必ずしも畑作文化と稲作文化の対立とは結論づけにくいようだ。
そして栗東でもこの風習は薄れているようだ。栗東歴史民俗博物館に問い合わせたところ、5家のうち複数が今は餅を食べていると答えたという。
そもそも昨今は、正月に餅を食べたり、おせち料理を食べたりといった食の伝統が薄れつつある。まるで餅が伸びるように連綿と受け継がれてきた「餅なし正月」の風習が断絶の危機にあるのも時流なのかもしれない。
<餅なし正月>「日本民俗大辞典」(吉川弘文館)によると、元日を中心に、餅をつかず、食べず、供えずという禁忌を継承すること。その伝承は全国各地で確認されており、餅なし正月研究の第一人者である故坪井洋文氏の研究によると、最北端は宮城県で、最南端は鹿児島県という。
【京都新聞 2016年01月27日 17時04分 】