城郭探訪

yamaziro

信長公記 巻十五 11~24

2013年03月04日 | 平城

11、飛火始末  越中富山の城、神保越中居城謀叛の事

 この頃、越中国富山城は神保長住が居城としていた。

 今回信長公父子が信州表へ動座した際、武田勝頼は越中へ向け「われらは節所を抱えて一戦を遂げ、敵勢ことごとく討ち果たしたゆえ、越中においてもわれらに呼応して一揆を蜂起させ、国内を支配されよ」と偽りの情報を伝えていた。するとこれを真に受けた越中では小島六郎左衛門・加老戸式部の両人を大将とする一揆が蜂起して神保長住を城内へ追い詰め、3月11日になって富山城を占拠し、近在へ火をかけたのだった。

 しかしそれから時日を移さず、信長公のもとへは「柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政らの軍勢が一揆方の富山城を包囲し、落去もほどなし」との注進が伝えられてきた。これに対し、信長公は以下のように返書を送った。

 武田四郎勝頼・武田太郎信勝・武田典厩・小山田・長坂釣閑をはじめ武田の家老衆をことごとく討ち果たし、駿・甲・信州は滞りなく平定されたゆえ、気遣いは無用である。
以上飛脚があったので申し伝えたが、そちらからも十分に情勢を申し越すべきことは勿論である。

  三月十三日
      柴田修理亮殿
      佐々内蔵介殿
      前田又左衛門殿
      不破彦三殿

 3月13日、信長公は岩村から根羽へ陣を移し、14日になって平谷を越え浪合①に陣を取った。ここで関与兵衛と桑原助六が武田勝頼父子の首を持ち来たり、信長公の目にかけた。信長公は矢部家定に命じ、首を飯田まで運ばせた。
 翌15日は午刻より強い雨となったが、信長公は飯田に陣を移した。勝頼父子の首はこの地に懸け置かれ、上下諸人の見物するところとなった。

 ①現長野県浪合村

 

12、雲散  武田典厩生害、下曾禰忠節の事

 16日、信長公は飯田へ逗留した。

 ところで信州佐久郡の小諸には下曽根覚雲軒が籠っており、武田信豊はこの下曽根を頼ってわずか二十騎ほどで小諸へやって来た。下曽根はこれを受け入れて二の丸へ呼び入れたが、途中非道にも心変わりし、建物を取り囲んで火をかけた。

 この信豊の若衆に朝比奈弥四郎という者がいた。弥四郎は今度の戦で討死を覚悟し、上原在陣時に諏訪の要明寺の長老を導師として引導を受け、道号を付けて首に下げており、ここを最期と心得て斬って回ったのちに信豊を介錯し、みずからも追腹を切って果てた。比類なき名誉であった。

 同時に信豊の姪婿の百井という人も一緒に腹を切り、合わせて侍分十一人が殺害された。信豊の首は下曽根が忠節の証に持参して織田方へ引き渡され、長谷川秀一によって信長公のもとへ運ばれた。

 その首は3月16日の飯田滞在時に信長公の目にかけられた。同時に仁科盛信が乗っていた秘蔵の芦毛馬と武田勝頼の大鹿毛の乗馬も進上され、大鹿毛は中将信忠殿へ下賜された。また勝頼が最後に差していた刀も滝川一益方より届けられて信長公へ進上された。信長公はその使者として伺候してきた稲田九蔵に小袖を与えて返した。かたじけなき次第であった。

 信長公は長谷川宗仁に命じ、武田勝頼・武田信勝・武田信豊・仁科盛信の四人の首を京へ運んで獄門にかけるよう申し付けた。これにより首は京へと上っていった。

 翌3月17日、信長公は飯田から大島を通り、飯島に至って陣を取った。

 

13、御次公  中国表羽柴筑前守働きの事

 3月17日、御次公こと羽柴秀勝殿が具足初めを行い、羽柴秀吉の相伴のもと備前国児島①に一ヶ所残っていた敵城へ攻めかけたとの報がもたらされた。

 信長公は3月18日に高遠城へ陣を張ったのち、翌19日になって上諏訪の法花寺に陣を移し、ここで諸勢を段々に連ねて陣張りさせていった。

 ①現岡山県倉敷市内

 

14、覇陣  人数備への事

 上諏訪に在陣した諸勢のうち、人数持ちの将は、

織田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一・福富秀勝・氏家源六・竹中久作・原長頼・武藤助・蒲生氏郷・細川忠興・池田元助・蜂屋頼隆・阿閉貞征・不破直光・高山右近・中川清秀・明智光秀・丹羽長秀・筒井順慶

 以上であった。周囲にはこの他にも馬廻衆の陣が幾重にも連なっていた。

 その後の3月20日、信長公のもとへ木曽義昌が出仕し、馬二頭を進上した。木曽の申次①は菅屋長頼であったが、その場の奏者役は滝川一益が務めた。
 木曽には信長公から腰の物が下された。梨地の蒔絵に鍍金②・地彫りの金具、目貫・笄③は後藤源四郎作の十二神将像というもので、黄金百枚とともに与えられたのだった。信長公はこの場において木曽へ新知分として信州の内に二郡を与え、帰りは屋形の縁まで見送った。木曽にとっては冥加の至りであった。

 ①外様・他家との担当取次役 ②メッキ ③目貫は刀の柄部分に入れる金具、笄は鞘に別付けする金属製の道具

 

15、帰服参礼  木曽義昌出仕の事

 木曽と同じ3月20日晩、今度は穴山梅雪が御礼に参じ、馬を進上してきた。これに対し信長公は梨地蒔に鍍金・地彫り金具の脇差と、柄まで梨地蒔が施された小刀を下された。そして「似合いである」といって下げ鞘①・火打ち袋も付けて与えた上、さらに所領を宛行ったのだった。

 また松尾の小笠原信嶺も御礼して駮の馬を進上したが、この馬は信長公の目にかなって秘蔵されるところとなった。信長公は小笠原を「こたびの忠節、比類なし」と評価し、矢部家定・森乱を使者として本領安堵の朱印状を下した。かたじけなき次第であった。

 翌3月21日には北条氏政の元より端山という者が遣わされ、信長公へ馬及び江川の銘酒・白鳥その他の品々を進上してきた。取次は滝川一益が務めた。

 ①鞘を覆う袋

 

16、関八州警固  滝川左近、上野国拝領の事

 3月23日、信長公は滝川一益を召し寄せ、かれに上野国と信州の内二郡を与えた。

 信長公は老境の身で遠国へ遣わされる身を思いやりながらも一益へ関東八州の警固を命じ、「老後の覚えに上野へ在国せよ。東国の儀の取次として、さまざまに仕置を行うべし」との上意を下した。そしてかたじけなくも秘蔵の葡萄鹿毛の馬を与え、「この馬に乗って入国するがよい」との言葉を伝えたのだった。都鄙の面目これに過ぎたるものはなかった。

 

17、三位中将  信忠諸卒に御扶持米下さるゝの事

 3月24日、信長公は「諸勢とも在陣が続き、兵粮等に困じていよう」との言葉を発し、菅屋長頼を奉行として物資の運送を行わせ、信州深志において諸勢の人数に従い扶持米を下げ渡した。かたじけなき次第であった。

 翌25日には上野国の小幡信貞が甲府へ参り、中将信忠殿へ帰服の礼を申し述べた。小幡は信忠殿の許しを受け、滝川一益の同道のもと帰国していった。また26日には北条氏政より馬の飼料として米千俵が諏訪へ届けられ、信長公へ進上された。

 信長公は今度の戦において高遠の名城を陥落せしめた手柄への褒賞として、三位中将信忠卿へ梨地蒔の腰物を与えた。そして「天下の儀もそのほうへ譲ろう」と申し添えたのだった。これを受けた信忠殿は、東国で手間取る事案もなくなったため信長公のもとへ御礼に赴くことを決めた。

 

18、諸勢散会  諸勢帰陣の事

 かくして3月28日、中将信忠殿は甲府を発して諏訪へ馬を納めた。しかしこの日は猛雨となって風も吹きすさび、一方ならぬ寒さとなったため、多くの凍死者を出す事態となってしまった。

 ここにおいて信長公は、「諏訪を出て富士の山裾を見物し、駿河・遠江をめぐって帰洛するゆえ、諸兵はこれにて帰陣させ、将のみ供をつかまつれ」との上意を発し、諏訪で軍勢を解散した。これにより諸勢は3月29日より木曾口・伊那口から思い思いに帰陣していったのだった。

 

19、甲信平定  御国わりの事

 3月29日、新領の知行割が以下のごとく発せられた。

甲斐国は河尻秀隆へ付与。但し穴山氏本知分は除く。

駿河国は徳川家康殿へ付与。

上野国は一益へ付与。

信濃国のうち、高井・水内・更科・埴科の四郡は森長可へ付与。
  長可は以後川中島へ在城。今度の戦で先陣として粉骨したことに対する褒賞であり、面目の至りであった。

同木曾谷二郡は木曾本知として、また安曇・筑摩の二郡は新知として木曾義昌へ付与。

同伊那郡は毛利秀頼へ付与。

同諏訪郡は河尻秀隆・穴山梅雪の替地として付与。

同小県・佐久の二郡は滝川一益へ付与。

  以上をもって信濃十二郡が知行割りされた。

美濃国岩村は今回の功績により団平八へ付与。

同金山・米田島は森蘭丸へ付与。これは森長可にとってもかたじけなき次第であった。

 また同時に国掟も発布された。

国掟 甲・信州

一、関銭、駒口①を取るべからざること。

一、百姓前②には本年貢の外に不当な課役をすべからざること。

一、忠節人を立て置くほか、理屈を並べて懈怠する侍は殺害もしくは追放すべきこと。

一、公事はよくよく念を入れて詮議し、落着させるべきこと。

一、国侍は丁重に扱いつつ、さりとて油断なきよう気遣いすべきこと。

一、元来、欲のままに治めれば諸人は不満を覚えるものである。所領の引き継ぎに当たっては多くの者に知行を与えて支配せしめ、広く人数を抱えさせるべきこと。

一、本国より奉公を望む者があった場合は、よく履歴を改め、前の主人へ届けた上で扶持すべきこと。

一、諸城は堅固に普請すべきこと。

一、鉄砲・玉薬・兵粮を蓄積すべきこと。

一、各々支配する郡内ごとに分担して道を作るべきこと。

一、境界が入り組むゆえ、多少の所領争いが起きようとも私怨を持つべからざること。

以上の他、悪しき事態が出来した折には、罷り上って直に訴訟すべきことである。

天正十年三月 日

 信長公は帰陣に際し、中将信忠殿を信州諏訪に残し、みずからは甲州より富士の裾野を見つつ駿河・遠江を巡って帰洛する旨の上意を伝えていた。そして4月2日、強い雨が降りつつも、かねて予告していた通りに諏訪を出発して台ヶ原③へ陣を移したのだった。御座所の普請や賄いその他は滝川一益が担当し、上下数百人分の小屋を立て置き、出された馳走も並々ならぬものであった。

 なお同日、北条氏政が武蔵野で追鳥狩を行い、信長公へ雉五百余匹を進上してきた。これを受けた信長公は菅屋長頼・矢部家定・福富長勝・長谷川秀一・堀秀政の五人を奉行とし、馬廻衆を集めたところへ雉を運び込ませ、その遠国の珍物を皆へ分配したのだった。ありがたきことであった。

 信長公は翌4月3日になって台ヶ原を出立したが、そこから五町ほど行ったところで山あいより名山が姿を現した。一目でそれと知れる富士の山であった。煌々と雪が積もるその姿はまことに壮麗で、どの者も見上げては耳目を驚かせていた。

 そののち信長公は武田勝頼の居城であった甲州新府の焼け跡を見つつ、古府中へ陣を移した。古府中では信忠殿が武田信玄の館跡に入念な普請を施して美々しい仮御殿をしつらえており、信長公はそこへ居陣したのだった。

 ここにおいて信長公は丹羽長秀・堀秀政・多賀新左衛門に休暇を与えた。三人は草津へ湯治に向かった。

 ①馬や貨物に関する関所。この場合はそこで徴収される税 ②租税を負担する自作農・豪農 ③現山梨県白洲町内

 

20、恵林寺  恵林寺御成敗の事

 このような中、中将信忠殿は六角次郎義治をかくまった咎により恵林寺①僧衆の成敗を命じ、奉行人として織田九郎次郎・長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉を任じた。

 奉行衆は恵林寺に乗り込むと、寺中の人間を老若問わず山門へ上らせた。そして回廊より山門へ干し草を積み上げ、火を放ったのであった。

 はじめ室内は黒煙が立ち、周囲の見分けもつかぬほどとなった。しかし次第に煙は治まり、やがて紅蓮の炎へと姿を変えていった。

 その炎が人々を照らし出す中にあって、快川紹喜長老は少しも騒がず、端座したまま微動だにしなかった。しかし他の老若・稚児・若衆たちは踊り上がり飛び上がり、互いに掻き抱きながら焼かれていったのであった。焦熱・大焦熱の地獄もかくやの炎にむせび、三途の苦を悲しむ様は到底目が当てられるものではなかった。

 この炎により長老十一人が果てるところとなった。そこには宝泉寺の雪岑長老・東光寺の藍田長老・高山長善寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・快川長老など高名な僧も含まれていた。中でも快川長老は名声隠れなき高僧であり、その声望によって内裏より円常国師補任の綸旨を頂戴し、国師号を賜る名誉を得ていた人物であった。

 かくして4月3日、恵林寺は破滅した。老若上下百五十余人が焼き殺されるところとなった。

 武田方の処断は恵林寺にとどまらず各所で行われ、諏訪刑部・諏訪采女・段嶺某・長篠某らは百姓たちによって殺害され、その首が織田方へ進上されてきた。百姓たちには褒美として黄金が与えられたため、そのことを耳にした者たちは名のある侍を先々まで尋ね出しては殺害し、次々と首を持参してきたのであった。

 ①現山梨県塩山市内。乾徳山

 

21、因果  いゝばさま右衛門尉御成敗の事

 こうした残党狩によって飯羽間右衛門尉が生け捕られ、織田方へ身柄を引き渡されてきた。飯羽間は先年明智城にて謀叛を起こした際、坂井越中守の親類衆を数多討ち果たした者であったため、信長公はその処刑を坂井越中に任せた。

 この他にも秋山万可・秋山摂津守が捕らえられた。かれらの処断は長谷川秀一に命ぜられた。

 そのような中、北条氏政から馬十三匹、鷹三足が進上されてきた。その中には鶴取りの鷹もいるとのことであった。ところが使者の玉林斎が伺候したところ、信長公はいずれの品にも取り合うことなく、そのまま持ち帰らせてしまったのだった。

 

22、荒薙  信州川中島表、森勝蔵働きの事

 4月5日、森長可が川中島の海津城①へ入城し、稲葉貞通が飯山に在陣していたところへ、にわかに一揆が蜂起して飯山を囲んだとの報がもたらされた。これに対し、信長公はすぐさま稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝氏らを援軍として飯山へ遣わした。また中将信忠殿の手からも団平八が派遣された。一方織田方の来援を知った敵方は山中へ引き、大倉②にあった古城を修復し、芋川という者を一揆の大将として立てこもったのだった。

 4月7日、一揆勢のうち八千ほどが長沼口③まで進出してきた。その報に接した森長可はすかさず出撃し、敵勢に合間見えると一気に攻撃を仕掛けた。そして七、八里にわたって追撃を行い、敵勢千二百余を討ち取った上、大倉の古城になだれ込んで女子供千余を斬り捨てたのであった。この一戦により森勢の挙げた首は二千四百五十余にものぼった。

 こうした惨状となったため、飯山を囲んでいた一揆勢も当然ながら引き上げていった。解放された飯山の地は森長可が引き受けて人数を入れ置き、稲葉貞通は本陣のある諏訪へと帰陣していった。また稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝氏は江州安土へ帰陣し、留守居の衆へ現地の様子を報告した。

 森長可はその後も日々山中へ分け入っては諸所より人質を取りかため、百姓たちに帰村を命じてまわる粉骨ぶりを示した。

 ①③現長野市内 ②現長野県豊野町内

 転載 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho18.html


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