明神社の矢穴ある石板
お城のデータ
所在地:東近江市(旧八日市市)三津谷町 (遺跡ウォーカー比定地)map:http://yahoo.jp/ej4ieM
現 状:宅地
区 分:居館
築城年 :
築城者:狛氏
遺 構:不明
目標地:三津屋町公民館
駐車場:三津屋町公民館に駐車
訪城日:2016.4.8
お城の概要
狛氏館は、三屋屋集落に位置し、観音寺城から5km、瓶割山城から2kmにあり、遺構や伝承は不明である。
滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生郡・神崎郡の城)では、詳細不明。ながら頁97には三津屋集落に赤丸がある。
遺跡ウォーカーでは、三屋町公民館の裏の北東を比定地としている!
三津屋の狛氏の末裔が、佐々木六角氏の末期の重臣狛氏であったか?、六角氏の滅びてしまうと名は見えない。
佐々木六角の重臣に狛氏が名がある「六角氏式目の宛所となった狛丹後守」「弟の狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった」「箕作城の戦い」にも守将として狛修理亮は名を残す。
狛氏館 狛氏館遺跡:遺跡ウォーカー
- 時 代:中世細分不明
- 所在地:滋賀県東近江市三津屋町
- 緯度経度:35.099250, 136.161083
- 遺構概要:城郭分布調査1、城館。平地。不明。 map96:平地。
- その他概要:旧、八日市市。 県教委編「旧野洲・神崎郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』4 県教委1986.3)。map96:205-038、30。
遺跡ウォーカーの比定地
以上、
永禄三年七月廿一日
承禎
平井兵衛尉殿
蒲生下野入道殿
後藤但馬殿
布施淡路入道殿
狛修理亮殿
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『六角義堯書状』・・・・甲賀武士の子孫に伝えられた黒川文書に、『義堯書状』、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す。
狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
猶賢可申候、謹言、
二月廿日 義堯(花押)
黒川修理進殿
義堯が黒川修理進に宛てた内容は、次のようなものである。狛修理亮まで報告した旨は確かに聞き届けた。神妙である。東北のことはこの通りであるから、忠義に励むことが肝要である。なお義賢入道(承禎)が詳しく述べるであろう。
この書状から、
①六角氏の重臣狛修理亮が義堯と甲賀武士の連絡役をしていたこと、
②義堯が東国や北国と連絡を取っていたこと、
③義堯が承禎(義賢)を使者としていたことが分かる。
文中に見える狛修理亮は六角氏重臣であり、布施淡路守(公雄)とともに六角氏式目の宛所となった狛丹後守の弟である。狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった。このときも狛修理亮が承禎の使者となって黒川氏を訪問し、そこでの黒川氏の言葉を、義堯の許に行って口上した。それに答えて義堯は書状を簡潔に書き、承禎(義賢)が詳しい内容を書いた副状を添えて、狛修理亮が黒川修理進へ持参した。狛修理亮は六角氏重臣であり、六角氏の言葉を正確に伝えるだけではなく、交渉もしたと考えられる。
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箕作(みつくり)城の戦い(信長上洛戦)
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織田勢に対して六角勢の防禦態勢は、和田山城に主力を配置して、ここで織田勢を釘付けにし、観音寺・箕作両城の兵で挟撃しようとするものだった。信長は状況を視察した後に秀吉の意見を採用することにした。義賢の思惑の裏をかき、和田山城と観音寺城には牽制のための軍勢を送り、信長自ら丹羽長秀や羽柴秀吉らの諸隊を率いて箕作城に迫り、9月12日の午後4時頃より攻撃を開始したのである。
箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。
駐車の三津屋公民館
遺跡ウォーカーの比定地
村社明神者社」
拝殿道標が神社内に(圃場整備で移設か?)
本殿
八坂社
削岩のノミ跡の残る石板
陸軍大将鈴木荘八書最近ほとんど見ない、半鐘塔!
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、箕作城の戦い、六角書状、遺跡ウォーカー
本日の訪問ありがとうございす!!