森西城
- お城のデータ
- 所在地:高島市(旧:高島郡)マキノ町森西 map:http://yahoo.jp/czzAov
- 現 状:畑地+宅地
- 区 分:平城
- 築城期:鎌倉期
- 築城者:田家氏
- 遺 構:土塁
- 目標地:大處(おおところ)神社・極楽寺
- 駐車場:大處神社の鳥居前の広場に駐車
- 訪城日:2016.5.28
- お城の概要
- 生来川上流のにある大字森西に城跡遺構の土塁が残る。
- 山城から居城への道は大處神社の北脇を通り、付近にはいくつかの竹藪があった。現在も大處神社の鳥居の北東方向の小字出雲の薬師堂の裏手に土塁が残る。この薬師堂本尊は沢村の常楽寺から当地の極楽寺に移されとも。森西山中にあった安楽寺の本尊とも伝わる。
- 大處神社の神主峰森氏が代々出雲守を称したいうには興味深い。
- また、当地を古代北陸道が通ったところらしく、同社の摂社酒波神社を天正3年に再建した大施主は田屋吉頼で、他に田屋淡路守重頼、田屋山城守元頼の名が見える。
- 明治期の「海津之城私考」は、「其ノ後多屋淡路守世々之ヲ兼守ス、天正ノ比、織田信澄廃城ト為ス」と考察しており、長法寺城と森西城が田屋重頼の持城で、天正6年から同10年に高島郡を領した織田信澄がこれを廃城にした。
- しかし、賤ヶ岳の合戦時に羽柴秀吉の命で丹羽長秀が地内・沢村・森安の各城を修復し、地内浜に村上義明が入った。したがって、当城に丹羽長秀の被官(家臣)が入城した。天正11年は、加藤光康が高島郡を領し、当城のその後は不詳。
- お城の歴史
大字森中(残存土塁の斜め向かい)の大處神社は、元大處庄の総社神で、大處神社所蔵の応永9年の奥書がある大般若経に「当社前下司左金吾清原行長沙弥審翁義評」とある。また、天文4年銘の同社棟札にも「田屋清原頼秀、時之奉仕金有生年八十四才」とみえ、大處庄下司清原一族の居館が想定できる。清原氏と田屋清原氏、幕臣の海津衆田屋氏の一族が同家であったかは不詳だが、沢村に田屋氏の居城があり、森西の山中に田屋氏の山城(田屋城)あったとするため、山城と居城の中間にある森西に田屋一族、又はその被官(家臣)が、居を構えていたか?
西方山極楽寺
浄土宗鎮西派黒谷金戒光明寺の末寺にて、宝徳元年の創立なるを以て初め宝徳山と称えたり。後、延徳三年四月本山より山号を西方山と改称せらる。
天正六寅年本堂を再建し、又安永四年五月再建し、現在の建物即ち是なり。 鐘堂は享保二年七月再建す。梵鐘は享保四年七月二十五日鋳造す。
天正六寅年本堂を再建し、又安永四年五月再建し、現在の建物即ち是なり。 鐘堂は享保二年七月再建す。梵鐘は享保四年七月二十五日鋳造す。
生来川の右岸、古墳群の存在する山裾に鎮座する。
拝殿の奥、右側が本社であり、左側には式内日置神社の論社、酒波神社の本殿がある。由緒によると高島郡十郷の一つ、高島大處(おおところ)郷の惣社であったとされる。
滋賀県マキノ町(現高島市)にある。森西に鎮座、境内入口は東向きにあり、林の奥へ続く参道を歩き橋を渡ると境内がある。
境内中央に拝殿。その後方には、同サイズ・同形式の二棟の社殿。右が本社・大處神社で、左は境内社・酒波神社。
- 参考資料:滋賀県中世城郭分布8(高島の城)、遺跡ウォーカー
- 本日の訪問ありがとうございす!!