城郭探訪

yamaziro

中野城   近江国(虎姫)

2016年09月15日 | 陣城

お城のデータ 

所在地:長浜市(旧東浅井郡虎姫町)中野 map: http://yahoo.jp/Z1u6Cu
区 分:陣城
現 状:平地+山地・山林・山麓
築城期
築城者:
遺 構:
目標地:時游館
駐車場:時游館
訪城日:2016.1.10・2016.3.20,

お城の概要

比定地は、虎御前山魂の南山麓に、中野集落に位置する。

お城の歴史

詳細不明だが、『江北記』に「長享元年四月三日に大成濃州より入国候。陣所は中野・・・中野より人数と於国友河原被及御合戦数多被討補候。即刻中野へ御馬を被向」と記す。 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』1、遺跡ウォーカー、『江北記』
本日の訪問ありがとうございす!!
 

旧・高島・滋賀・栗太郡:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月15日 | INDEX

高島郡 マキノ町 6

安土城・奥田城・白谷館・山中館・牧野城(栗瀬城)・野口城・小荒路の遺構・小荒路館・小荒路の遺構・海津山城・海津東内城・海津願慶寺城・海津(海津西内・海津東)城知内浜城(知内城)西浜城 ・西浜砦・中庄浜城・中庄城・沢村城(饗庭氏館)田屋城  田屋城中ノ谷(馬かけ場)の遺構長法寺館(田屋氏館) 長法寺館(田屋氏館)・知内浜城・石庭城蛭口館・新保城・森西城・角川館・角川(丸山)城砦・薬師堂遺跡・野口館・寺入保館・
西 与一左衛門と海津浜

高島郡 今津町 5

伊井城(鑓城(やじろ)・今津城・構(かまえ)城・高田城(高田館)・三谷城・角館・北仰城・角川砦(丸山砦)・中之町城・河上城・
仮称)井伊支城・砦(伊井奥ノ城)

高島郡 朽木村 4

   朽木本陣(朽木城) 朽木城(朽木陣屋) 岩神館(秀隣寺庭園) 岩神館西山城・野尻坂砦 ・坊殿館・桑野館・村井城

   池ノ沢の遺構・涌出館・大野館・入部谷城

  ・信長の隠れ岩 信長の隠れ岩

高島郡 安曇川町 

高島郡 高島町 8

伊黒城打下(うちおろし)城長法寺(城)遺構大溝城 大溝城 ・大溝陣屋武曽館横山城宮野城永田城・長法寺北遺構・白髭のA遺構・白髭のB遺構・白髭のⅭ遺構・白髭のⅮ遺構・
大溝城発掘調査現地説明会

高島郡 新旭町 6

五十川(いかがわ)城清水山城 清水山城(日高山城・比叡谷城)新庄城(大善寺遺構)日爪城(日爪城山)日爪の遺跡(南谷遺構=日爪のねごや)平井城吉武城(針江城)・今宿城・森館・深溝城饗庭(あいば)館井ノ口館(清水山城館)・麻畑の遺構・大善寺遺構・今市城・新庄城(大善寺遺構)・清水寺の遺構・地蔵谷の遺構・御屋敷遺構・

滋賀郡 志賀町 7

大津市 42

草津市 14

守山市 13

栗東市 25/29

野洲郡 中主町 8/12

 

野洲郡 野洲町 19/28


旧坂田・東浅井・伊香郡:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月15日 | INDEX

坂田郡 米原町 

朝妻城(朝妻湊)磯山城/虎が城磯城鎌刃城 鎌刃城 鎌刃城 鎌刃城見学会醒井城・醒ヶ井神籠石・地頭山(ぢどうやま)城枝折(しおり)城(土肥城)番場城殿屋敷福島城 福島城太尾山城西円寺館醒井山城上野館門根城六波羅山(ろくはらやま)砦

坂田郡 山東町 20/53

・池下城・大野木館大原氏館・大峰砦・柏原城柏原御殿猪鼻城(河内城)上平寺館(京極氏館)西山城(城山城・源氏山の遺構)須川城須川山城須川山砦長比城(野瀬山城)高屋城高屋砦・長岡館・本郷城 本郷城箕浦氏館八講師城(八講師砦)梓の関・石田館・野一色城・夫馬館・本庄中村城・村居田館・油里城・堂谷西の砦(岩祖山城)・美濃こえ(山の神)遺構・堂谷東山砦・千畳敷東の遺構・千畳敷砦・滝ヶ谷城・小田城・市場城・黒谷遺跡・間田城・堀氏館・竹越氏館・向山の砦・竜宝院の関連遺構・総山城・井ノ口城・大庭還・鳥脇還・常谷城・年吉(としみ)城・殿村氏館・長岡城(京極氏館・加賀屋敷)・旗本西郷氏邸小川(こかわ)の関箕浦氏館
新発見『焼尾茶屋城』新発見『白鳩城』

坂田郡 伊吹町 

向山城治山城・天清城・河瀬館・弥高寺城上平寺城(桐ヶ城) 上平寺城(桐ヶ城・霧ヶ城・刈安尾城)上平寺屋敷(京極氏屋敷) 上平寺館(京極氏館)・太平寺館・太平寺城(霧ガ城)

 

坂田郡 近江町 

顔戸山砦・飯村城(嶋氏館)・多和田山城・福田寺長沢城 長沢城箕浦城(新庄城)若宮城(若宮氏館)宇賀野長野家 宇賀野長野家宇賀野館三田村屋敷寺倉城世継館岩脇(いわぎ)館

長浜市 

横山城石田館(石田屋敷)・今川城・今村城・榎木城・垣見氏館加田七殿屋敷(加田館・七殿屋敷)・加納城・上坂城・小足館・三田村城下坂氏館(下坂館)・十里館・常喜城・長浜城(湖中城) 長浜城・名越館・八幡山中館・広瀬氏館・堀部山城・小堀氏館・堀部館・南田付城・宮川陣屋(宮川氏館)宮川陣屋(宮川氏館)横山城 ・室町城居立城鳥羽上城国友城 山室砦(名越ごえの山城)姉川の合戦茶臼山砦姉川の合戦信長本陣「陣杭(じんご)柳」姉川の合戦家康本陣岡山(勝山)姉川古戦場浅井長政と陣田・血川・野村新庄寺城馬場城口分田(くぶた)古殿城口分田(くぶた)城ノ根城(口分田氏館)

東浅井郡 浅井町 

  大依山城瓜生館(海北氏館)・主計館・木尾城・草野城小室城・佐野館・須賀谷館尊勝寺城(多賀古屋敷)・種路城・野田館・丸山城・三田村城大田館(赤田氏草野田館)西村館 尊野城平塚城(平塚館)内保城瓜生館(海北氏館)田根城東出館北野砦北野館竜安寺山城黒部館黒部砦竜安寺城長泉寺館

東浅井郡 虎姫町 8/12

大井城月ヶ瀬城宮部城(宮部砦)八相山城滝川陣屋(滝川氏館)三川城唐国城大寺城・田村城・中野城・彦部氏館・

東浅井郡 湖北町 

山本山城・山本氏館・浅見氏館・朝日山陣屋・月所丸大嶽(おおずく)城福寿丸山崎丸・海老江館・小倉館・伊部館・今西館・今村館・大野木氏館・尾上城小谷城 小谷城 小谷城~水の手道から京極丸へ焼尾砦・佐野城・城山城・田中館・虎御前山(砦)・速水館・雲雀山砦丁野館山脇城/山脇砦・渡辺氏館、丁野山城 丁野山城中島城八幡の岡陣城・河毛城・芝山城(芝山古城)・下山田城・高田館(渡辺氏館)・田中館・種路城・丁野城・脇坂館・比伎多理神社遺構・大興(光)寺・八太夫屋敷・延勝寺館(飯開(いびらき)神社遺構)・猫今城(今村館)・速水城(西の宮館)南速水城(伯母屋敷)雲雀山砦・二俣館・馬渡城・薮田城・山脇屋敷(佐野城)・高月城・西野城・高田館(渡辺氏館)

東浅井郡 びわ町 4/15

安養寺城 安養寺城・落合城・川道城・曽根城・富田城・錦織城・新居城・南浜城・早崎城・細江城・下八木城・弓削城・益田城八木浜城(中村氏屋敷)

伊香郡 高月町 

磯野山城大森山城陣所赤尾山城・井口城・磯野館宮沢城・森本館・持寺館・柏原城・唐川城・宇根館・柏原城・片山館・陣屋の馬場城・高田城・高月城・富水館・西阿閉城・西野城・西物部城東柳野城西柳野館・保延寺館・馬上城・馬上山城・熊野城・松尾山城・横山城高野館

伊香郡 木之本町 

田上山城(砦)(木之本城)赤尾氏館赤尾城丸山城大音(おおと)館・川合城・小山館・杉野館・田居前館・菅山寺城・木之本城・黒田屋敷 黒田 官兵衛(黒田屋敷)賤ヶ岳城仮)西山砦賤ヶ岳砦 賤ヶ岳合戦と城郭 賤ヶ岳古戦場・千田城・田部山城/田部城仮称西山砦・西山城・布施城・古橋城・石田三成の隠岩窟(オトチ洞窟)・飯浦山城(位置不明)・法華寺遺構・飯福寺遺構(鶏足寺別院)・古橋裏山遺構

伊香郡 余呉町 

玄蕃尾城(内中尾山城)・秋葉超え遺構・秋葉神社砦・高尾山砦・イ地点遺構・ロ地点遺構・峰通りP地点遺構・峰通りℚ地点遺構・峰通りℝ s地点遺構・溝谷砦・余呉館・大谷山砦・笠上城・柏谷山砦(1の砦)・雨森城・池原山砦・芝上城・川並城・坂口砦・行市山砦・下余呉砦・神明山砦 神明山陣城(大杉山砦)天神山砦神明山砦今市上砦(久太郎小屋)東野山砦=陣城(実山砦=左禰山砦)菖蒲谷砦茶臼山砦城堂木山砦 堂木山砦(堂木山陣城)橡谷(くぬぎたに)山砦中谷山砦林谷山砦東野館別所山砦山寺山砦・柳瀬城・摺墨越え遺構菅山寺城・官山寺遺構・茂山陣所と権現坂・賤ヶ岳砦・角鹿山遺構・大将宮山遺構・椿坂遺構・大岩山砦(陣城) 大岩山砦(陣城)岩崎山砦 岩崎山砦・植谷山城-坂口(余呉合戦記)・大野路山城-(余呉合戦記)・河置山城-(江余)・谷山城-(江余)・丸山城-(江余)・
・岩崎山の大岩(烏帽子岩・お膳岩伝説)

伊香郡 西浅井町 

塩津城山城(塩津城)塩津城(大平山城・山麓遺構)塩津浜城(塩津浜山城)塩津城東出丸塩津城出丸(祝山(ほおりやま)城)西岡城集福寺若山城・永原城・沓掛北砦沓掛南砦沓掛(くつかけ)西砦(集福寺北城)応昌寺城(応正寺城)・岩熊城・月出坂砦/月出浜砦・深草越え遺構
菅浦惣村葛籠尾崎湖底遺跡

 

伊勢国
伊賀国
美濃国

越前国

 戌山城跡村岡山城疋壇城(疋田城) 


延勝寺館(飯開(いびらき)神社遺構) 近江国(湖北)

2016年09月15日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町延勝寺 map:

別 称:延勝寺館

区 分:平城

現 状:神社

築城期:室町期

築城者:

遺 構:堀・土塁・曲廓・

目標地:飯開神社

駐車場:飯開神社に路上駐車

訪城日:2016.9.9

お城の概要

「滋賀県中世城館調査報告」によれば、飯開神社一帯に三つの曲輪らしき遺構を持つ。神社境内・東側・そして北東隅に

境内の南側に水路(堀・池)があり、北東部と境内の東隣の竹藪には土塁の土盛がある。周囲より若干高い地形ではある。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 延勝寺 住 日下善介・関谷宇平次・佐々木京極隋兵大塚末 川上長門守・佐々木浅井隋兵安芸守ト云 大橋善次郎」の名が見える。  

飯開神社 御由緒
当社の地域は都宇郷に属し、この郷の総社として信仰の中心であった。往古湖中に在るオコノ州に鎮座されていて境内には多くの大木が生い茂っていた。正暦3年の大洪水でオコノ州は湖底に沈み神社は流出して御神体は当地の野田浜に流れつかれたといわれている。この神迎へに神輿が担がれ途中今西のお旅所で御休息になり、夢の告げで現在の地に奉斎することになった。 社殿の造営は大治5年といゝ伝えている。
 鎌倉時代源頼朝の下知により荘園内の虫供養が行われ、当社に五十石が下附されそれ以来6月6日を虫供養の日と定め現にこの祭儀は存続している。小谷城主浅井家三代の崇敬篤く元亀元年長政は祈願を捧げ大刀並に躑躅胴鼓を寄進している。小谷城落城の際兵火に遭ったが、宝永3年代官西郷市正社殿再建の大施主となって再建した。

飯開神社には応永11年(1405年)の朱書銘のある神輿が伝えられている。

境内東側の池(堀か?)

東側の土塁

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『江州佐々木南北諸氏帳』飯開神社由緒

 本日の訪問ありがとうございす!!


江部城  近江国(野洲)

2016年09月15日 | 居館

江部城

お城のデータ 
所在地:野洲市(旧野洲郡野洲町)江部
区 分:平城
現 況:宅地
築城期:織豊後
築城者:江部氏
遺 構:
目標地:祇王寺
駐車場:北村自治会館横空きスペース
訪城日:2016.9.14
お城のデータ
 野洲の祇王寺の南へ約100mが遺跡ウォーカーの比定地にはなっているが?
お城の歴史
『近江国輿地志略』永原御殿跡の項に、「本は江部氏の者の居宅の跡といへり」とある。
 

土安神社
約八百年程前、江部の荘(現在の永原)の荘司で橘時長の娘、妓王と妓女は京の都へ出て平清盛に仕えていた。
ある時、妓王はふるさとの用水不足の嘆きを清盛公に申し上げたところ、さっそく、三上山の麓の野洲川より分水して水路を開通せしめた。工事の途中で蹉跌した時、夢に現われた一童子が、工事の手法を授けたことによって完成したもので、上流を妓王井川、下流を童子川と名づけ、この童子を土安神社に祀ったのであります。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3、遺跡ウォーカー、『近江国輿地志略』
本日の訪問ありがとうございす!!

永原御殿 近江国(野洲)

2016年09月15日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:野洲市(旧野洲郡野洲町、)永原 map:http://yahoo.jp/nK6-06

築城期:織豊期

築城者:徳川氏

区 分:御茶屋御殿(平城)

遺 構:土塁、堀、石垣、門(浄専寺に移築された永原御殿の移築門)

城 域:200m×200m

目標地:野洲北中学校

駐車場:永原御殿前駐車場

訪城日:2012.12.14・2015.3.28、2016.9.14

お城の概要

本丸は竹林となっている。 本丸を取り囲む水堀の一部と民家の畑の土台として石積の一部が残っている。

 城域は永原御殿一帯から野洲北中学あたりまでが城域とされます。

永原城として紹介されている。城址は御殿跡一帯から野洲北中学あたりまでが城域とされます。

 永原御殿は、慶長6年(1601)に徳川家康が最初に宿泊した。

永原御殿の歴史

 永原氏が室町中期に永原城(上永原城)を築城し、文明12(1480)年頃には永原越前守重秀が、筑前守重頼が活躍をした。佐々木六角氏の氏族永原氏の居城。 佐々木六角氏が織田信長に滅ぼされると、永原氏は永禄11(1568)年の織田信長近江侵略に、六角氏と共に永原氏も衰退した。永原氏は野洲・栗東・甲賀の一部にまで勢力を持っていた。元亀元(1570)年には織田信長の重臣・佐久間信盛がこの永原城に入城する、のち永原氏は信長に許しを得て復活。

 永原城廃城後、天正14(1586)年に信長後天下を支配した豊臣秀吉が、徳川家康に永原のこの地を与え、後の「大坂冬の陣(1614)」・「夏の陣(1615)」などで家康、秀忠らが利用した。徳川将軍の宿泊地として永原御殿が築城された。

江戸時代には将軍が上洛するおりの宿舎として「永原御殿」が築かれた寛永11年(1634)年に徳川三代将軍家光が上洛するにあたり6倍の規模に大改修を行うも、徳川将軍が上洛の必要が無くなり、家光が最後に幕命で、貞享3年(1686年)廃城となった。

・・・その後現在に至る。

 

 なお、永原御殿の移築門は、野洲市北町の「浄専寺」移築されている。 

 

移築門

永原御殿の移築門は、野洲市北町の「浄専寺」移築されている。

永原御殿の概要

永原御殿は御茶屋御殿の遺構です。御茶屋御殿(おちゃやごてん)とは徳川将軍が上洛(じょうらく)の際に整備した宿泊所を指し、近江には東海道に水口城が、中山道に柏原(かしわばら)御殿、朝鮮人街道に伊庭(いば)御殿が、そして中仙道と朝鮮人街道の近くに、この永原御殿が整備されました。1国(旧国)に4ヶ所も御茶屋御殿が整備されたのは近江だけです。これは近江が京都に近く、朝廷を牽制(けんせい)するのに最も適した所だったためでしょう。永原御殿を始め各御殿は、いずれも石垣や土塁(どるい)を用いた城郭の構造を示しており、御殿が、単なる将軍の宿泊施設だけではなく、有事に備えた軍事施設の性格を併せ持っていたことを示しています。幕藩体制(ばくはんたいせい)が確立した三代将軍以降、将軍上洛の必要性がなくなり、これらの御殿は役目を終え、廃されることになります。

永原御殿の特徴

 永原御殿(永原城)は、慶長6年(1601)に徳川家康が最初に宿泊し、以後、家康が6回、二代秀忠2回、三代家光が寛永11年(1634)に泊まったのを最後として、計10回利用されました。
 現在は、石垣の一部と塀の一部と地割が残るだけですが、「御茶屋御殿指図」(おちゃやごてんさしず)が残され、堀・土居・塀・石垣に囲まれた郭の四隅に矢倉を設け、本丸、二ノ丸、三ノ丸がありその広さは約1万459坪に及んだことがわかります。

1634年(寛永11年)には徳川家光の上洛に備え、大規模な整備が行われています。永原御殿の施設としては、    草津市の史跡芦浦観音寺の中にある、重要文化財の書院が、ここから移されたものであるとの記録があります。
 また、御殿の復原模型が野洲市歴史民俗博物館に展示されています。

遺跡名:永原御殿跡(ながはらごてんあと)所在地:野洲市永原

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、現地説明板

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!!


旧:犬上郡・愛知郡:近江国にはどれ位のお城があったのか?(全国に2万5千あったらしい?)

2016年09月13日 | INDEX

彦根市 56

安養寺館磯城・磯崎城・松原城 旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)彦根城外堀 彦根城 彦根藩主井伊家墓所(清凉寺)今村城宇尾城(大宇城)堀城大堀城大藪城(大藪館)・男鬼城・岡村館尾末山砦甲崎城甘呂城(甘露城)小泉館越川城佐和山城 佐和山 佐和山城 佐和山城 佐和山城物生山(むしやま)城 物生(むし)山城松原内湖遺跡原城地蔵城新海城・新海館・高宮城田附城(田付城)葛篭(つづら)城(岡部城)百々屋敷小野城沼波(のなみ)館・野田山館・彦富城(藤田屋敷)・・彦根館肥田城平田城平田山城(雨壺山城・徳川家康陣城)・本庄城・河瀬城仮称)南川瀬城三ツ屋城茂賀山(もがやま)城(茂賀山砦)荒神山城山脇古城山城山崎山城北町城里根山城蓮台寺城山屋敷清水城太堂(たいどう)城平流(へるい)城中川館薩摩館日夏城(詰め城)日夏城(泉城・泉古屋敷)長江館上西川館洲越館佛生寺城荘厳寺(しょうごんじ)城菖蒲嶽城キドラ谷砦長久寺陣所北町城島左近屋敷丸山城(丹羽砦)
佐和山城跡伝本丸における範囲確認調査現地説明会

犬上郡 豊郷町 5

高野瀬城那須城八町城(赤田館)吉田城
四十九院陣所

犬上郡 甲良町 

尼子城(館)在士館藤堂高虎・「虎高」の居館下ノ郷城勝楽寺城横関館佐々木道誉の居館

犬上郡 多賀町 20

一の瀬城久徳城 久徳城 久徳城来栖舘・栗栖城・小林城猪鼻城(河内城)猿荻氏館曽我城多賀城土田館 土田館・富之尾城・楢崎(ならさき)城敏満寺城桃原(もばら)城佐目館(明智屋形通称:十兵衛屋敷)高室山城一円館・一円城・一円屋敷籠城山(ろうじょうやま)城八尾山城(八ツ尾山城)・殿城(位置不明)・大賀城・中原城(位置不明)・藤瀬城(仮称仮称)桃原北山城仮称)下水谷丸山城 


 愛知郡 愛東町 15

百済寺城平尾館井元城 井元城 井元城山口城(外村城)小倉城勝島城青山城曽根城中戸城大萩城 上岸本城鯰江城 鯰江城鯰江森村城池之尻城北坂本城(北坂城)下山城下山本館下山館

       愛知郡 湖東町 12/14

     愛知郡 秦荘町 10

    愛知郡 愛知川町 7


小谷館 近江国(日野)

2016年09月11日 | 居館

小谷館

                                                            

お城のデータ 
所在地:蒲生郡日野町小谷 map:http://yahoo.jp/6-PgFe
区 分:平城
現 状:宅地・集落
築城期:鎌倉期
築城者:小谷次郎三郎
遺 構:
標 高:155m 比高差:―m
目標地:竹田神社・円林寺
駐車場:竹田神社の鳥居前
訪城日:2016.4.8
お城の概要
小谷城は、東海道の「土山宿と中山道愛知川宿の小幡(五個荘町)を結ぶ脇街道である御代参街道」沿いにあって、小谷地区集落の西、小高い林の中にある竹田神社と円林寺の一帯が小谷城。で、下屋敷が、小谷館。
お城の歴史

「江州佐々木南北諸士帳」に、「蒲生郡 小谷 住 蒲生末 小谷次郎三郎」の名が見える。

蒲生氏の支流小谷氏の居城で、「蒲生旧趾考」には「蒲生氏は、初め小谷山城にいた」と記している。
 南北朝時代、蒲生氏が南朝に味方したとき、高師泰に攻められて落城している。

駐車場5台小谷城 遠景

 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生郡・神崎郡の城)、遺跡ウォーカー
本日の訪問ありがとうございす!!

甲賀:近江の国にはどれ位のお城があったのか?(全国に4万以上あったらしい?)

2016年09月10日 | INDEX

甲賀郡 石部町 4

甲賀郡 甲西町 14

   三雲館「三雲城」と「謎の出丸」宮嶋城・宮崎城・谷城上城谷城下城青木館菩提寺城西正福寺城東正福寺城(宇山城)東丸岡城丸岡城(養林寺城)針氏城夏見城

甲賀郡 水口町 65

大徳寺(家康宿所)今郷城(おばん城) おんば城(今郷城)新城氏城嶬峨城嶬峨(ぎが)西城・堀田陣屋・備後城・水口古御殿水口城-水口岡山城と城下町 水口岡山城(水口古城山城) 水口岡山城8~9メートル石垣 水口岡山城 三の丸 水口岡山城伝三の丸 水口岡山城(水口古城山城)栄子姫塚杣中城高山城 高山城高山館小山城平子城奥谷城一学殿屋敷・三木城・平子城源太屋敷城城屋敷御姫屋敷城内貴城内貴殿屋敷内貴尾山城内貴川田殿屋敷虫生野(むしょうの)堂の前城北虫生野(きたむしょうの)城北内貴城内貴川田山城・・水口城(碧水城・水口御茶屋御殿) 水口城(碧水城・水口御殿)伴中山城西出館(にしでやかた)・・植城・宇田城・下山城・下山北城下山城畑村城山村田引城上村城・山村城・山村支城(2)・伴屋敷城西出城百姓村城三大寺竹中城牛飼城山上館山上城山上城Ⅱ広徳寺砦(庚申城)富川屋敷東迎山城(迎山城東丸)西迎山城(迎山城西の丸)津山城飯道山城美濃部古屋敷岩坂屋敷平野城伊佐野城里北脇城北脇城柏木神社遺構

甲賀郡 土山町 24

音羽野城 音羽野城頓宮城頓宮舘頓宮池ノ谷城・頓宮支城・大野山本城大野城山本神社遺構土山城山中城大河原氏城黒川砦大宮神社遺構黒川氏城 黒川氏城鮎河館 鮎河館鮎河山城(仮称)中ノ尾城鷹尾山城平子館今宿堀田陣屋今宿城

甲賀郡 甲賀町 91

滝川城滝川西城滝川支城瀧川城(五反田城)西ノ口城櫟野大原城奥殿城(奥殿屋敷)大原上田城大宝寺遺跡南殿屋敷(南城)・大窪城・垂井城(甲斐屋敷)・大宝寺城・大鳥神社遺構篠山城(殿藪)鳥居城大原忠道屋敷・笹山陣屋・竹林(たけばやし)城市場陣山城(じんやまじょう)補陀楽寺(ほだらくじ)城木内城・別府城・堀田陣屋・油日館 油日館油日(あぶらひ)城前山城(油日支城・山ノ鼻城)中山城岡崎城油日冨田(あぶらひとみだ)城上野城冨田城五反田口城北上野城A北上野城B冨田山城観音堂城(勘四郎山城)北上野城・大原城・梅垣城青木城東城館青木城西城館多喜城(元・多喜北城)・多喜支城・多喜北城多喜城南・獅子ケ谷城・山岡城 山岡道阿弥・毛牧北城・殿山城公方屋敷公方屋敷城・公方屋敷支城・和田館和田城群和田支城Ⅰ和田支城Ⅱ和田支城Ⅲ公方屋敷支城・・棚田山城高嶺北城(高峯氏本城)高嶺中城繋ぎ城高嶺南城高嶺東谷城伊賀見城栢ノ木(かやのき)城佐治城佐治城二の丸佐治城三の丸・佐治屋敷・神保(じんぼう)城打越城隠岐城隠岐支城Ⅰ隠岐支城Ⅱ隠岐支城Ⅲ砂坂城岩室城龍泉寺城市原Ⅱ城仮称)梅垣奥ノ城高野城高野東城

甲賀郡 甲南町 52

望月村嶋城(村島城・望月城)望月村嶋出城(櫻神社遺構)・柑子村城・柑子村支城(2)・馬杉本城馬杉城馬杉支城馬杉中城馬杉北城岡之下城染谷砦野川城野尻城野尻支城寺庄城葛木(かつらぎ)館葛木城(葛城城)深川城(片山城)・野田城・饗庭(あいば)城(合羽城)望月屋敷倉治城新宮城・村雨城・池田東城池田西城村嶋支城・市原城・磯尾城上磯尾城井口氏城谷出城小池城竜法師城坊谷城中屋敷青木城小谷城小出城中野城(池田城)中野城詰め城 Ⅰ中野城詰め城ー2塩野城と詰め城塩野陣屋竹中城(竹永城)佐々木神社遺構(杉谷館)服部城杉谷城(杉谷屋敷)杉谷砦杉谷屋敷カ

甲賀郡 信楽町 17

宮町城(鵜飼城)・蒲生城・岩倉城・長野城・牧城・小川城(小川鶴見城)小川西ノ城小川中ノ城・朝宮城・朝宮城山城(赤松城)多羅尾古城多羅尾城山城多羅尾砦多羅尾代官陣屋跡(設楽(しがらき)陣屋)近衛政家邸(大興寺)山口陣屋(山口館)神山(こうやま)城谷氏館
=家康最大のピンチ救った功労者=

 

 

 

西阿閉城  近江国(高月)

2016年09月10日 | 平城

遺跡ウォーカーの比定地(竹蓮寺の北の個人宅)

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)高月町西阿閉 map:http://yahoo.jp/pLmSVC

区 分:平城

現 状:宅地

築城期:室町期

築城者:阿閉新兵衛

目標地:竹蓮寺

駐車場:竹蓮寺前に路上駐車

訪城日:2016.9.9

 

お城の概要

西阿閉集落の竹連寺の北側に、門構えの個人宅が、遺跡ウォーカーの比定地となっている。

 西阿閉城は山本山城の東麓に築かれていたという。現在の西阿閉集落で「新兵衛屋敷」「蟻屋敷頭」などの地名が残されているものの遺構はない。

西阿閉集落の西 山本山城の山腹(210m)に阿閉城http://www.isekiwalker.com/iseki/102149/(高月町西阿閉阿閉山)に遺構あるようだ

お城の歴史

山本山城主阿閉貞征(長之)の家臣阿閉新兵衛の居城

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「伊香郡 西阿閉城主 佐々木末隋兵 阿閉五郎・同 阿閉三河守・佐々木浅井旗頭 阿閉淡路守」の名を記す。


\\\信長公記 巻六 元亀四年 11、決壊  阿閉謀叛の事\\\

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城(現滋賀県虎姫町月ヶ瀬)へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山(現浅井町・湖北町間)に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山(現余呉町~木之本町)方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

\\\信長公記 巻六 元亀四年 12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事\\\\

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山(現滋賀県木之本町内)でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。

参考資料:遺跡ウォーカー、信長公記、滋賀県中世城郭分布調査1、『日本城郭大系』11

本日の訪問ありがとうございす!!

 


西物部城 近江国(高月)

2016年09月10日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)高月町西物部  map:http://yahoo.jp/1wSBFp
区 分:平城

現 状:個人宅
築城期;― 
築城者:―

遺 構:郭・土塁・堀
目標地:雙林寺(そうりんじ)

駐車場:雙林寺前に駐車

訪城日:2016.9.9

お城の概要

西物部集落の北側に雑木林が見える、ここが西物部城で、雙林寺の東側の宅地(現・布施家屋敷)一帯が居館跡。

現・布施家(個人宅)の裏手の雑木林に二重の土塁が巡っていまるが、草木が多くてわかりにくい、個人宅の表門側にも低い土塁と堀跡なのか水路がある。個人宅なので、城館の回りから覗くことしか出来ない。

お城の歴史

詳細不明。


雙林寺 西物部城館の門=現・個人宅

門前の堀と駐車スペース 現・屋形(門から覗く)

土塁


南東部に、屋敷への通用道(低土塁も残るのようだが)


北側・東側から覗くと「二重土塁」=写真では、わかりにくいが!

叟林寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(伊香郡・東浅井郡の城)、

本日の訪問ありがとうございす!!


長泉寺館  近江国(浅井)

2016年09月08日 | 城郭寺院

長泉寺

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)内保町長楽寺 map :http://yahoo.jp/3BxqhS
区 分:城郭寺院
現 状:雑木林・宅地
築城期:
築城者: 
遺 構:土塁・曲廓・堀痕
目標地:内保農政会館
駐車場:内保農政会館
訪城日:2016.6.3
お城の概要
  内保農政会館の東側の道を北へ、(小字長泉寺)突き当り、幅4~5m×108mの藪地。雑木林の土塁・曲廓・堀が残存する。
明治期の地籍図には、川堀は八幡神社の北面から、現浅井西小学校付近まで続いていた。
また、小字長泉寺には、孫字堂ノ内・長泉寺・旧屋敷を伝える。同西に接する小字八幡にも孫字長泉寺・旧屋敷・城戸の名が残る。
長泉寺自体は不詳だが・屋敷名から長泉寺有縁の者が居を構えたか、長泉寺自体が寺坊の様相をしていた可能性ある。
お城の歴史
詳細不明。

内保農政会館

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』7(伊香郡・東浅井郡の城)

本日の訪問ありがとうございす!!


木津森西城/森安城 近江国(日野)

2016年09月08日 | 平城

木津森西城

お城のデータ

在地:蒲生郡日野町木津  map:http://yahoo.jp/yoML5V
区 分:平城
現 状:水田
築城期:室町期
築城者:岡氏?
遺 構:圃場整備で消失
標 高:175m   比高差:―m
目標地:国道307号木津大橋・・下、野洲川右岸沿い150m西
駐車場:農道に路上駐車
訪城日:2016.5.24
お城の概要

 木津森安城は、日野川左岸の「御代参街道添い」に位置する。御代参街道の警護・守備を担ってきたか?

圃場整備で遺構は消失したが、圃場の「御代参街道」は残る?

お城の歴史 

木津岡山城主岡宗左衛門の一族か?

 

 

森西城

所在地:蒲生郡日野町木津  map:http://yahoo.jp/OALQ7I

区 分:平城

現 状:水田

築城期:室町期

築城者:岡氏?

遺 構:圃場整備で消失

 お城の概要

 木津森安城は、日野川左岸の「御代参街道添い」に位置する。御代参街道の警護・守備を担ってきたか?

圃場整備で遺構は消失したが、圃場の「御代参街道」は残る?

お城の歴史 

木津岡山城主岡宗左衛門の一族か?

岡定俊 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

岡 定俊(さだとし)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。左内(さない)の通称で知られ、蒲生氏、上杉氏それぞれに重臣として仕えた。

生涯

父は若狭太良庄城(福井県小浜市)の城主、岡和泉守盛俊という。岡越後守と称し、諱は定俊。岡野左内、岡野定政、岡野定俊と書かれることもある。後に編纂された『上杉将士書上』など、上杉氏の関連文書では岡野左内となっていることから、岡野の表記も多く定まっていない。ただし現存する史料では、慶長2年(1597年)に蒲生氏が村の境界争いに出した裁定書に、奉行人の一人として岡左内の名で署名がある。

元亀4年(1573)に織田信長が若狭を制圧した後、領主となった丹羽長秀に仕えずに若狭を離れ、蒲生氏に仕官したものと考えられる。『武則編年集成』によれば天正12年(1584)秋から半年の間、蒲生氏郷は木造具政の篭城する戸木城を包囲した。この戦いで18歳の岡源八なる者が、敵将の畑作兵衛重正を討ち取ったという。この源八が左内であるとされる。

合戦で多くの功績を挙げ、氏郷が会津92万石を領してからは1万石の知行を与えられた。氏郷没後の慶長3年(1598)、蒲生騒動で宇都宮18万石に減封となったが、ここで蒲生氏に替わり会津を領地とした上杉氏に仕え直した。上杉氏宰相の直江兼次から4200石を与えられている。上杉氏と伊達氏が争った慶長6年(1601)の松川合戦では、伊達政宗を散々に打ち破る戦功を挙げたという。『武辺咄聞書』によれば、南蛮の伴天連より贈られた「角栄螺の甲」と「鳩胸鴟口の具足」を身につけていたとされ、これは西洋甲冑(南蛮胴)ではないかといわれている。上杉氏が120万石から米沢30万石に転封されると、再び会津60万石の領主となった蒲生秀行に仕え、1万石の猪苗代城城代に任ぜられた。熱心なキリシタンでもあり、私財で教会や神学校を建て、神父を招いて布教に励んだという。

子孫は後に蒲生氏が改易されてからは、黒田氏や津軽氏に仕官した。

いくつかの逸話が知られているが、利殖に巧みであり、部屋中に金銭を敷き詰めて、その上で裸になって昼寝するのを楽しみとしたという。この話はよく知られ、『雨月物語』中の一片「貧福論」にも採用されている。

単なる守銭奴ではなく、慶長5年(1600)の会津征伐では上杉家諸将が急な戦費調達に苦しむ中、こういう時にこそ惜しみなく使わねばならないと、財貨を主君の景勝に献上し、同僚に貸し与えた。上杉氏の転封に当たっては、借財の証文を全て焼き払って退散し、直江兼続からもその人物を惜しまれたという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4、遺跡ウォーカー、Wikipedia、蒲生家 家臣団

本日の訪問ありがとうございす!!


川辺城  近江国(栗東)

2016年09月07日 | 平城

川辺城 

 

お城のデータ

所在地:栗東市川辺町450  map: http://yahoo.jp/W5kgup
区 分:平城
現 状:寺地・宅地
築城期:江戸期
築城者:芝原右京進重兼
遺 構:現地説明板
目標地:善性寺
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.5.19
お城の概要
室町期は、青木氏の所領であったが、旧東海道の沿いの善性寺が川辺城と伝わる。江戸期は膳所藩領で街道の監視・警護を担ってきたか?

目川の歴史
 江戸幕府の道中奉行が管轄した五街道の一つで、江戸と京都を結ぶ大動脈であった。栗東市の区間は、草津宿と石部宿の間にあった。東海道は草津側から小柿(新屋敷)、岡、目川、坊袋、上鈎、手原、小野、六地蔵、林、伊勢落の11カ村を通過した。草津・石部の宿駅間距離は二里三五町(約11.7km)余。駅間には二つの立場が置かれていた。岡地先に置かれた目川立場と六地蔵地先に置かれた梅の木立場で、旅人へ旅行の利便を提供する施設として、幕府の道中奉行所が指定した施設である。目川立場は食事の菜飯田楽を、梅の木立場は道中薬の和中散を商った。目川と六地蔵に一里塚があり、共に椋が植えられていた。
 東海道は古代から存在したが、幾度かの変遷を経て江戸時代から現道に整備された。

『伊勢参宮名所図会』の目川の様子
寛政九年刊

地区の概要
 東は下戸山、南は岡、西は小柿、北は 坊袋、川辺にあり、地名は目川(めがわ)と読む。
中心部に金勝川が流れ、これに添って東海道が通る。東海道の街村で「宿村大概帳」によれば往環の長さは五町一二間(約五六九メートル)、家居三町二二間(約三六七メートル)残り片側一町五〇間(約一九九メートル)堤添いとある。江戸時代の天保郷帳によると、東目川村と西目川村という別々の村になっている。明治四年(一八七一)に二村が合併して目川村となった。
 「目川」は田上庄 芝原村の武士芝原右京進重兼が、恩賞により目川、坊袋、川辺の三村を与えられて城を目川に移した貞治元年(一三六二)九月が初見である。(郡志)
小槻大社の氏子村。県選択無形民俗文化財小杖祭り保存会五カ村の一つ。
 村高 六七六石余
  東目川村 四三三石余
  西目川村 一六五石余
  寛永(一六二四~)    慶安(一六四八~)  天明(一七八一~)
  大坂定番稲垣領一六五 越後三条藩領一六三 三上藩領五九八  以後幕末に至る。
  旗本沼野領   五一一 同左
目川村
 川辺村の西、金勝川(草津川支流)流域平地に立地。東海道に沿う街村で、草津宿と石部宿(現湖南市)の中継の立場茶屋が設置され、一里塚もあった。下戸山の小槻大社蔵の永徳二年(一三八二)の板札には、土豪青地氏の侍衆によって構成された同社の祭礼にかかわる「榊本之衆中」として当村に居住していた芝原左馬尉昌維の名がみえる。近世初期には豊臣秀吉の直轄領(前田文書)。慶長検地では高六七六石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。寛永石高帳では大坂定番稲垣重綱領一六五石余・旗本沼野領五一一石余。慶安高辻帳では越後三条藩領田一五〇石余・畑五石余・永荒八石余、沼野領田二四九石余・畑一三石余・永荒二四八石余。その後東・西の目川村に分村、元禄郷帳・天保郷帳では東目川村高四三三石余、西目川村高一六五石余。しかし天明村高帳では目川村として高五九八石余で三上藩(のちに和泉吉見藩)領。幕末まで同藩領。ケンペル「江戸参府旅行日記」に「村を流れている川からその名をとった目川村は400戸ばかりで、草津から四分の一里離れた次の村である」とみえる。元禄七年(一六九四)草津宿に目川村として助郷高五九八石余で出没(深尾文書)。亨保一〇年(一七二五)の改編でも同高で継承。慶応三年(一八六七)助郷高二三九石に減じられた(黒羽文書)。なお立場茶屋では目川田楽(菜飯田楽)が名物として売られてた(東海道名所図会)。
 用水は金勝川と同川から導水する目川池を利用。天保八年(一八三七)二保川、野洲川・草津川筋の新田開発に対し、用水の問題を理由に他村とともに反対している(川辺文書)。天保四年の調べでは仁兵衛・仁兵次が酒屋株をもっていたが、同七年には二軒ともこの株を譲渡している(小森文書)。浄土宗地蔵院には天文一三年(一五四四)教貞の開基と伝える。真宗大谷派専光寺は応仁元年(一四六七)光念が当地に道場を開いたのに始まるという。
東海道
 東海道は、草津宿で中山道と分岐し、栗東市域を約八キロメートルにわたって通り、石部宿にいたる。草津川を越えてはじめての集落は新屋敷で、新屋敷を出て南進し、草津川・金勝川合流地点の手前で大きく東にまがって、岡の集落に入る。岡は名物「目川田楽」をもって知られた。「目川田楽」は豆腐の味噌田楽と菜飯を食べさせる名物茶屋の称で、東海道目川立場を中心に諸国に展開した。『東海道名所図会』(寛政九年刊)に記される。江戸浅草や葦屋町をはじめ、「目川」を称する田楽茶屋が諸国に存在したのである。そのはじまりが近江国栗太郡岡村の三軒(目川村には目川田楽茶屋はなかった)、すなわち「京伊勢屋」、「小島屋」、「元伊勢屋」であり、いずれも東海道に南面して所在した。享保十九(一七三四)年成立の『近江興地志略』など、多くの他誌、道中記、名所図会類に紹介されて名高い。
 最も東に位置し、京に近いことから『京伊勢屋』の号で呼ばれたのが、西岡家である。『東海道名所図会』に挿図入りで紹介するのはこの店であり、画中の暖簾には「京いせや」と染め付けられている。同図を引いた歌川広重の保永堂版「東海道五十三次之内石部」に描かれたのも、京伊勢屋だということになる。西岡家は大正期まで「目川田楽」屋を続け、最後の店であった。戦前までは豆腐をあぶるひばちなど道具類も多く伝えていたという。現在も講招牌(文政七年から明治十六年のもの)が存在する。

『東海道名所図会』の目川田楽
上記図中文(目川とは村の名なれど、
今は名物の菜飯に田楽の豆腐
の名に襲ひて、何国にも目川の店多し)
お城の歴史

シーボルトと善性寺
 善性寺第五世僧恵教のとき、文政九年四月二十五日オランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの帰途善性寺を訪ねている。そのときの見聞が「シーボルト江戸参府紀行」に次のように記されてある。
 「かねてより植物学者として知っていた善性寺第五世僧恵教のとき、文政九年四月二十五日オランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの川辺村善性寺の僧恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍らしい植物を見物せり」云々とある。』

真宗 大谷派 養煙山善性寺 慶安二年(1362) 玄竜開基

100m進むとT字路の突き当たりで、街道はここを右折。道標があり、正面には「東海道 やせうま坂」、右側に「中仙道でみせ」、左側に「金勝(こんぜ)寺 こんぜ」と書いる。

善性寺から80mほど所に、堤防(土塁)が出現、旧東海道は金勝(こんぜ)川の堤防に つきあたり、右(西)に曲がる。 堤防の向こうに目川池がある。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、目川の歴史

本日の訪問ありがとうございす!!


西野城  近江国(高月)

2016年09月06日 | 居城

西野城 

所在地:長浜市(旧伊香郡:高月町西野  map:http://yahoo.jp/jYOBdZ
区 分:平城
現 状:宅地
築城期:南北朝期
築城者:西野丹波守
遺 構:
標高:100m  比高差:0m
目標地:西野集会所
駐車場:西野集会所に駐車
訪城日:2016.9.5
お城の概要
お城の歴史
『滋賀県中世城郭分布調査』の西野城の解説には、「西野丹波守の居館。佐々木氏・浅井氏に仕える。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、伊香郡 西野 住 佐佐木浅井隋兵 西野丹波守」の名を記す。

浅井三代記 第一

佐和山へ押よする事

かくて上坂治部大輔泰貞は同十日に屋形へ参扣して軍評議を申上けるに、高清入道打えみ給ひて首途の御祝儀として御秘蔵の御馬御重代の御腰の物を給はる。同十一日には治部大輔横山へ取のぼり味方の勢を揃見んとて同姓信濃守、同伊賀守、同掃部頭をめしぐして其日の辰の刻ばかりに打出給ふに内々江南勢にあなどられし事をいきどをりければ我も/\と馳あつまる。先一番に磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、井の口宮内少輔(後弾正にあらたむ)、大野木土佐守秀国、三田村左衛門大夫定元、西野丹波守家澄、同與八郎氏常、安養寺河内守勝光、浅見対馬守俊孝、阿閉三河守貞義、堀能登守頼貞、野村伯耆守直定、同肥後守定元、今井肥前守頼弘、新庄駿河守信家、横山掃部頭家盛、同肥後守、千田伯耆守有義、子息帯刀、東野左馬助行成、熊谷弥次郎、同新次郎、伊部清兵衛尉為利、大橋善次郎秀元、浅井新次郎教政、野一色、片桐富田、尾山彦右衛門、田部助七、木村海北助左衛門、同善右衛門、雨森主計、同弥兵衛、赤尾與四郎、同筑後守、同孫三郎、宗徒の侍として四千余騎雑兵共に二万余とぞ申ける。かくて治部大輔御名代を仕るしるしとやおもひけん。物頭の方へ酒肴を出しければ上下さゝめき喜びける。斯て泰貞物頭共に向て申けるは、某屋形の御名代を申上ると云ども江北の諸侍などが下知にしたがひ給はんと思ひしに、如レ此残らず出馬せらるゝ事満足なりと悦びて、さあらば打立べしとて永正七年三月十六日に横山を立て、米原口へ押出す諸勢三手にわくる。堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守浦手へ向ふ。大野木、三田村、阿閉、西野は醒ケ井口へまはる。治部大輔は残る勢を召具し米原山に陣取る。斯て佐和山の城へ江北の軍勢残らず馳向ふよし、かねてより風聞すれば観音城へ注進す。観音城には定頼、義実打より物頭共よび集め軍評議をとげ給ふ。末座の若者共あなどり申けるは何そ評議し給ふ。物頭一人被2仰付1なば、我々罷越即時に敵を追払ふべしとて、手に取るやうにそひしめ、きける中にも進藤山城守(父山城守なり)、後藤但馬守進み出て申けるは、今度は御大事の戦ひなるべし。数年鳥井本口にをいて相戦へと佐和山へは敵に足をためさせざるに、今かくもよほして来たる事は無二の一戦とげんとの儀たるべし。屋形の御出馬尤たるべしと申ける。かくて寄手の勢は三方より押まはし、鬨を憧とあげ先遠取巻にぞしたりける。城中にはしつまつて防き、矢も射さりけれは、治部大輔此由を見て、使番を以て味方の軍勢率爾に責よすべからず。江南より多勢もよほし後巻有べきとおもふなり。様子を見て明日未明より責べきとて、其夜は軍をやめ陣取て太尾の要害こしらえける。

遺跡ウォーカーの比定地
日吉神社
湖東山正妙寺 千手観音
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』、『江州佐々木南北諸氏帳』『浅井三代記』
本日の訪問ありがとうございす!!