チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

健康法

2012年04月18日 09時19分57秒 | 日記
世の中先行きが暗いと思うようになると
「とにかく元気でいよう」
と思う人が多いらしく
本屋に行ってもテレヴィを見ても
それぞれの健康法が花盛り

それでは逆に何を信じたらいいのかわからなくなってしまう

チャコちゃん先生は全く薬を飲まない
小学5年まで病弱でいろんな治療を母は一所懸命やった
そのおかげで健康になったのだが

「この薬飲んだらおはぎをあげますよ」
おはぎとか金つばなど小豆ものが大好きな私を
そうやって誘う

しかし薬がどうも苦手昔の薬は粉が多く飲みにくい
薬を嫌がっている私を見て兄が
「俺飲んでやるからおやつよこせ」
「いいよ」
と言って薬は兄がいつも飲んでくれた

母が作るトウモロコシのひげを煎じたものとか
干し柿やヨモギの葉を煎じたものなどは
母の目の前で飲まなければいけないのでそれは欠かさず胃に入れた

料理も特別に考えて作ってくれていた
時々兄がつまむが
「なんだこれ全く味がねえよ」

その結果重度の腎臓病がきれいに治り
今では腎臓病を患った影もない
これも母の知恵のおかげ

しかし我が兄は中学校までは神童と呼ばれていたが
長じて見る影もないほど普通のおっさんになってしまった
チャコちゃん先生ひそかに思うのは
「あれは薬のせい」

そして1年近く養生している間に身長が13センチも伸びた
ちょうど身長が伸びる時期だったのだろう
病が完治し登校したら朝礼の時一番後ろに並んでも
まだ人より背が高かった

このころの同級生に会うと
「おまえこわかったなあ」
などという
背が高く人を見下すような姿勢だったのだろう

母がチャコちゃん先生に仕向けた健康法は
早寝早起き太陽のあるうちは外で遊ぶ
勉強は教室で集中して聴きくこと
宿題以外はやらなくてよい
本を読むときは姿勢よく

植物性のたんぱく質を取り脂肪を少なくする
よく噛むゆっくり食事をする
好き嫌いをしない
感謝して食べる

こういうことが健康になるコッとは当時思わなかったが
あれだけ体の弱い私が健康になっているのは
こういう母の決めた日常に従っていたからだろう

健康法なんてない
本来人は健康にできている
それを信じることだと思う

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ウエストのしゅーくりーむ

2012年04月17日 08時23分31秒 | 日記
洋菓子はあまり得意ではないが
ウエストのシュークリームには目がない
もちろんカスタードクリームでないとだめ

一番初めの出会いは
学生時代青山斎場に告別式で行った時だった
女子学生の生態を知りたいという通俗小説家がいて
数人の女学生たちは一週間に一度はその小説家に
おおご馳走になっていた

その方が亡くなり告別式の帰り
その小説家を紹介してくれた挿絵画家に連れられて
青山斎場の真ん前にあるウエストにいった
「ご苦労さんここのシュークリームは美味しいからね」

野球選手の握り拳くらいのシュークリームが出てきた
「ウッおいしい」
私たちは無我夢中で胃に収めそれでも足りない顔をしていたら
「エクレアも美味しいよ」

学生の分際では年中いくことも出来ず
何かと理由を付け大人に連れて行ってもらっていた

あるとき銀座に出たら銀座店もあることが分かり
車でないと不便な青山店より足は銀座に向く
しかしどういうわけか同じなのに青山の方が美味しいと思ってしまう

社会人になって
「取材のインタビュー」というと
わざわざ青山店を指定して待ち合わせしたり
チャコちゃん先生やることが汚い

この店で高倉健さんが静かにコーヒーを飲んでいる姿を見たときは
「ウウンやはりね」
と嬉しかった

チャコちゃん先生はシュークリームの食べ方が上手い
コレは自慢できる
だって年季が入っているもの
上の皮を手で少しずつ取りクリームを掬って口に運ぶ
どっしりと真ん中にあるクリームをスプーンで掬う
最後の生地をフオークでくるりと巻いて口に入れる

昨日は舞台の打ち上げパーテイまで時間があって
日本橋三越の中にあるウエストに行き
シュークリームを注文

一ミリのクリームを残していないお皿を下げに来たウエイトレス
「きれいに召し上がっていただいて」
当然でしょう!

得意顔のチャ子ちゃん先生
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ソーシャル メデイア?

2012年04月16日 08時57分42秒 | 日記
ブログをはじめて18年になる
このチャコちゃん先生の日記は昨年まではほとんど毎日書いていた
平成20年まではきもののことを中心に
そして最近は何か思いつくことを書くことにした

きものを通して書きたいことがこんなにあった
というよりまだ続く
きものという底知れぬ文化の深さに驚嘆する

きものに関しては「毎日更新きもの365日」に場所を移し
ここでは日々感じることを勝手に書き連ねている
読みにいらして下さっているあなたにただただ感謝

チャコちゃん先生は「書く」ことがすき
きものを通して感じたことを書いていくのが楽しい

きものに関する著書も20冊近くあるのだが
それでもきものは語りきれない
学ぶことがたくさんある

最近の出版社はきものの本を出したがらない
一言で言えば売れないから
きものの着付けやコウデイネーとの本はそこそこ売れている
しかしチャコちゃん先生のように
きものから学んだことを書いてもなかなか売れない

そのためこうしてチャコちゃん先生の日記として書くことにした
きものの言葉や思いを語る内其れが日本の文化の根底を担っている
ということも分かってきた

昨日松宮義仁(ソーシャルメデイアプロジュサー)の
世界一受けたい「ソーシャルメデイアの授業」の著書を読んだ
それにはマスコミの反対あるソーシャルメデイアは
これから伝達の主流になっていくとあった

確かに一瞬にして多くの人に思いを伝えることが出来る
其れもごく普通の人が
それだけに使い方に作法があるということであった

フエイスブック、Twitter、ブログ、まぐまぐ、HP
とソーシャルメデイアをチャコちゃん先生は駆使しているにもかかわらず
何も奇跡は起こっていない
其れはただ勝手に楽しんでいるからだと
松宮さんの本を読んで分かった

なんとなくという生き方は時代に取り残されるらしい
自分が勝手に楽しむだけでは今の時代のニーズに合わないのだと

基本的にチャコちゃん先生は
ニーズに合わない仕事をしているなあ




中谷比佐子の『きものイズム』を伝えるホームページ



着たい着物を作っています
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客層

2012年04月15日 08時09分17秒 | 日記
日本橋三越にここのところ詰めているが
客層が高いとつくづく思う
小耳にはさむ会話
「おじいちゃまがーーおばあちゃまがーー」
はたまた
「叔母様此方を召し上がれ」

ああこういうきれいな日本語が日常に聞くことのできる場所なのだ
と改めて伝統と品格を維持していることを知る
商品の素晴らしいものが多く
なんといってもこの不景気といっている今
客の多いこと!

一時期高級ブランドの洋服やバックにうつつを抜かしていたことがある
それは恐ろしいほどその気にさせる販売員との出会いがあったからだが
その販売員と出会ったのは新宿の伊勢丹

たまたま目についた紗のコートが
「これは日本の羽織からのヒントでデザインされたものですよ」
と着物姿で入った私の心を一気につかんでしまった
着てみなくても大丈夫と思ったのですぐ購入

自慢げに着て歩いていたら友人たちがほしがって
その販売員を名指しで訪ねて行ったが
「あれは東京では一点だけでナカタニ様だけのものになりました」

このひとこと
それからチャコちゃん先生の追っかけが始まり
西武、新宿高島屋、そして日本橋高島屋とついていった
ずいぶん投資もしたことになるが
それ以上に高級品を売る時の品格も教わった

日本橋高島屋に落ち着いたとき
「ここのお客様裕福そうねえ」
「ええみなさんもう昔からのお金持ちという感じですね」
お客様のことをあれこれ言う方ではないのだが

建物も落ち着いているし
日本橋の百貨店というのはやはりある種の権威がある

三越は伊勢丹に吸収されているのだが
若さの伊勢丹伝統の三越を経営陣はきちんと使い分けているようだ

それにしても身のこなしの美しい金持ちが
ここ日本橋三越には集まるのだと改めて知る
自分が粗野になった時
ここへきて修正するのもいいものだと思った
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衣の言葉

2012年04月13日 10時45分52秒 | 日記
いまチャコちゃん先生はフエイスブックで
きものから創造された言葉を毎日伝えている
きものって本当に凄い
いかに日本人の生活の中に溶け込んでいたかが分かる

しかしいま
きものが家庭の中になく
着姿の人を見ることも少なくなったので
きもののにまつわる言葉を日常に使うことがなくなった

誰かが法律を作り
きものにまつわる言葉を一切使ってはいけない
と言語統制したら
深い微妙な日本語の言い回しは途切れるに違いない

チャコちゃん先生のフエイスブックを読んでくれる若い方から
「かなをふってほしい」
という連絡をいただいた
そうきものの用語を読める人は少なくなった

わが加奈子さんと10年くらい前国立博物館に行ったとき
彼女は英語の解説を見ていたので
「英語の方が理解できるわけ?」
「ええ日本は漢字が多すぎて難しいです」
「あなた日本人でしょう、これくらいの漢字覚えなさい」
と思わず凄んだが

彼女は最高学歴なのに今の教育は日本語より英語なのだと思い知らされた
彼女の名誉のために言えば今は日本語を大切にしている

その後も姪の娘と絵画を見に行った時も同じように
英語の解説を読んでいた

そういう世代にこそ「きものから生まれた言葉」
を知ってほしい
探せば探すほど日々多くなっていくので
いつまで続けるかと悩んでいる

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銀座線

2012年04月12日 18時32分33秒 | 日記
三越前のホームで
「あら綺麗黄色の電車」
となにげに乗ったら
「3時46分にこのホームに来るというのでそれにあわせて」
乗ってきたと中年少年

「あらそうですか・?」
知らないとは強い
今朝は新聞やテレヴィなど観ないで三越劇場に赴いたので
この電車のニュースは知らなかった

「奥さんたちは運がいいですよ」
と盛んにうらやましがってくれる
周りのおじさんたちがみんなそうだとうなずく
この電車に乗っては降りて写真を撮っているのだという

昔銀座線は黄色の車体であった
外国人に浅草行きを説明するとき
必ず「イエロートレイン」に乗るように説明したものだ
「レッド」が丸ノ内線だった

JRでは総武線が黄色中央線がオレンジ
山手線が緑であった
いつからだろうかメタル色の車両に変わり
スピードは上がったかもしれないが
乗ってる人たちも無表情になった

今日は社内はみんなお友達
浮き浮きした顔で
この新1000系のの黄色の銀座線に乗って嬉しそう

「今日は3往復だそうですよ」
「まだ6両しか動いていないんですよ」
あちこちから自分の知り得たニュースを流してくれる

この電車目当てに止まる駅でわんさと人がふえ
ギューギュウ詰めになるのにみんなにこにこ笑っている

幸せを運ぶ黄色い銀座線
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席順

2012年04月09日 10時58分53秒 | 日記
政治家ー官僚ー財団役員ー企業役員ーマスコミーフリー
というわけでチャコちゃん先生は末席
別にかまわないのこういうこと
でもオモロイ

政治家は挨拶が終わると姿を消す
その次は財団役員、そして企業役員
官僚とマスコミは最後まで席に居る

政治家は挨拶がなれている
だけど全く内容が残らない何だ?声は立派
最後は自分のピーアールと
「これからちょっと京都に行くので失礼します」
と来る

後の政治家も似たり寄ったり

でもこう言う立派な肩書きがその会には必要なのであろう
声の出し方目線ゼスチャー4政治家の其れは参考になる

こう言う挨拶の時に現れる政治家は比例区が多い
昔で言えば全国区だね
つまりは票とりかな

話は飛ぶが昔新聞記者に聞いたことがあるが
「田中角栄の偉いところは知人の告別式通夜には必ず顔を出すことだね」
「そんなことがどうしてエライの」
「政治家はめでたいところに顔を出して宣伝する方が得策だからださ」
「お葬式では挨拶はないから?」
「そうだよ、焼香あげるだけも多いよね」

「結婚披露宴に出席するときは最後まで座っているそうだ」
「そんなの当たり前でしょうに」
「いや政治家にはなかなか居ないよ」

そういえば大女優にお会いしたとき
「どんな会でも最後まで居られないときは初めから出席を断る」
その代わり一旦出席したら最後まで居る
とおっしゃっていたな

というような会話を思い出しながら
肩書きの重い男たちを観ているチャコちゃん先生

こう言う男たちから肩書が外れたらどんな人生を送るのかな
長々しい挨拶を聞きながら想像する
上から目線の男はきっと家族からも疎んじられるね

昭和の初期までご用済みの男たちは町内会の世話係になって
少年たちの思想指導をしていたし
また「若衆宿」を作って男を教育していた歴史もある

肩書を外した後こそその男の真価が問われる
いまのうちから覚悟して生きた方がいい
と余分なことも考えながら末席に居るチャコちゃん先生
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依存症

2012年04月07日 09時56分53秒 | 日記
久しぶりに会ったその店主の顔がすっかり別人だった
この世の中で自分が一番エライという顏
とても傲慢でへんな自信に満ちあふれていた

「おお」
とチャコちゃん先生逃げ腰

ある団体に属していて
そのトップの考え方に傾倒し
其れを率先して実践しているのだと言うことが分かった

お金ほしくありませんか?
若くなりたくないですか?
有名になりたいと思いませんか?
死ぬまで健康でいたいと思いませんか?
大きな家に住みたくありませんか?
会社を大きくしたいと思いませんか?

チャコちゃん先生の悪い癖で
そう言う思想はどこから出てくるのか探求したがるのだ
其れでその店主の言い分をしっかりと聞いた

名前も聞いたことがある御方がその団体の長
「宗教ではないのよ」
十分宗教だねと思いながら聞いている

これと此を飲めば病知らず
此を顔に付けると光り輝きいい気が寄ってくる
どんな場所に居ても顔が光っているのでいい話が来る
この水晶で除霊しましょうか
「いや其れは結構」
そう言う拒否の考え方が不幸になっていく原因だ

詳しく聞いていると
つじつまが合わないのだが
でも何か納得することもおっしゃる
こわいなあ

ある大手の呉服屋の娘
今は自分で店を経営していて繁盛もしている
一歩間違うと霊感商法にもなりかねない

昔はチャコちゃん先生も彼女に注意をしていたが
今は全く「聞く耳は団体の長」のほうだ
今はもう何も申すまい
と這々の体で退散する

あの高度成長期の頃
祈りの館をご自分の屋敷内に作っていた呉服屋さんもあった
山に行って一本一本木を見てそれで館を作ったという剛の者

それはそれは立派な御殿のようなものだった
そこで祈りをあげながら
訪れる人の人生相談をしながらきものを売っていた

その館は田んぼの中に建っていたし
周囲に今のようなフアミリーレストランもなく
その付近の人の憩いの場でもあったようだった

「きものを買っていただいた人の幸せを祈ってーー」
というコンセプトであったけど
こういう商法にもチャ子ちゃん先生は違和感を感じた

信じる者は強かなあ




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どこまでも村八分

2012年04月06日 12時43分22秒 | 日記
詳しくはかけないが地方の権力者が
何処までも邪魔をするお話

昔々あるところに家代代の長者が居ました
全部自分に忠実なもの「へいへえ」という人にしか
仕事を与えませんでした
長者に少しでもたてついたらお金を与えないという
権力だけを着ているような長者でした

ある日都から戻ってきた若者が
長者の仕事の分配は公平ではなくおかしい
だから袖の下などで仕事は取りたくない
もっと公平にしようと
声を上げました

しかし賛同者は居ません
しかも長者にたてついたということで
みんなから仲間外れにされてしまい
収入の道も閉ざされました

長者が管轄している仕事は出来ないので
荒らされている桑畑の手入れをして蚕を飼い繭を出荷しようと
つてを頼って話を進め
繭を購入してくれる業者との約束も出来ました

雪が溶けいよいよ手を入れるのはこれから!
と思った矢先
長者が手を回しその桑畑の所有者を懐柔して
その若者に桑畑を貸さないよう圧力を加えました

若者は隣町に桑畑を見つけてその持ち主と契約を交わそうとしましたが
何しろその長者は「県」の有力者
お金をばらまいて議長になり県全体に権勢を敷く勢いです

しかし隣町の桑畑の持ち主には他県に住む息子が居て
その話を聞きつけ
「これからはそう言う時代ではない」
とばかり親子で村八分にあった若者に協力することになりました

その息子は
方々に声をかけ長者の悪政と戦うのではなく
あちらはあちらこちらはこちらできちんと仕事をしていこう
と呼びかけ
賛同者が集まって仲間同士の楽しい仕事が始まりました
「いづれはみんなが養蚕に力を注ぐことになるかもね」
と楽観的

他県から賛同者が集まってきつつあります
「よそ者を入れるな」
という運動もこっていますが
そういうことを怖がらずかえって未来を見つめて
みんなで協力しあって明日のために進もうーーと

若者の両親や兄弟も心を一つにして
蚕に出会う日を心待ちしています
きっとイイ繭が生まれるでしょう


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沖縄を思い出す

2012年04月04日 06時37分55秒 | 日記
ニュースで戦争体制のような沖縄が映っていた
あの海にイージス艦が浮かんでいる
朝鮮戦争の時のような緊迫感が漂っているのだろうか

始めて沖縄の地を訪れたのは
まだ沖縄が本土復帰をしていなかった時
一ヶ月間沖縄の本島や石垣島、竹富島、宮古島を取材して歩いた

島全体がアメリカのにおいに満ちていた
美しい海岸は日本人の立ち入りが禁止されていた
しゃれたレストランも入れなかった
何処に行ってもアメリカ軍の若い男が我が物顔に歩いていた

1ドル365円パスポートを持って
まさしく外国への旅だった

宮古島に渡りたったひとつのホテルで荷をほどく
窓にヤモリの訪問を受け
「ぎゃー」と大声を上げたが
「なにもわるさはしません」と放って置かれた

宮古上布を生産している下地さんが島を案内してくれた
当時は薩摩上布とまだ呼んでいた
江戸時代薩摩藩を通して上布が内地に出ていたので
「薩摩上布」となっていたのだ
当時きものの本にも「薩摩上布」と解説されていた

「宮古で作っているのですから宮古上布と呼んだらいい」
「そうですよねそう努力しましょう」
「私も本での解説には宮古上布と必ず書きます」
と海を観ながら話し合っていた
海はまさしく地球が丸いと思わせるように曲線を描いていた

とそのとき下地さんは
「あの夏の日いきなりあの海の上に真っ黒の岩がだんだん近づいてくる
とおもったら全部軍艦であの海が真っ黒に埋め尽くされたんです」
と静かに話を始めた

そこから先は聞いている私の涙が止まらなかった
さらに
「人頭税」という石も案内された
その石は大人の肩くらいの高さで薩摩藩が男の背丈がその石をこすと
税金を調達したという
税金を払えない人は足を切ったのだそうだ
確かにチャコちゃん先生が島に居たとき足の無い老人が多いと思った

薩摩にアメリカにそして今また日本政府に沖縄は翻弄され続けている
テレヴィのニュースを見ながら悲しみがわき出でる
せめて薩摩上布が宮古上布になったことに気持ちを落ち着かせるが

それにしても
同じ名字の亀井さんちの下地クン
あなたは沖縄を命をかけて守らにゃならんのに何やってる
宮古上布の下地さんは沖縄の産業をこつこつ守って
沖縄の名を高めているよ

宮古上布は「苧麻」が原料だが
私たちの国の夏は麻は手放せない

沖縄は染織の宝庫だ
戦争の場にしては絶対にいけない

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