チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

夜中の月

2018年10月31日 20時40分24秒 | 日記
偶然の発見だが
22時過ぎバルコニーから都庁を眺めたら
その横に黄色い月がぽっかり浮いていた
知らなかった

満月から6日目21日待ちの月となるのか
昔から
待つ月は愛しい人と横になりながら眺めていたらしい
今そういう酔狂な男女が居るのだろうか
居るとしたら羨ましい
そういう世界に浸る余裕はいい

月の愛で方は満月だけではなく
一番いいのは23夜待ちだという

箱根でその月を待ちながら
その旅館の女将と杯を重ねて楽しんだことがあるが
次の日さようならと言って旅館を出たあと
なにか変に胸騒ぎをして振り返ったら
女将がかけてきて一緒に湯本まで行くわなんだか別れがたい

じゃあ家まで来ますか?
と冗談を言って湯元の喫茶店でお茶して別れた

次の朝
女将の息子から
「母がなくなりました」
「嘘でしょう?じょう?」
と答えながらもなにか納得する私がいて
すぐ箱根に出向いた

よる珍しくは母は洗濯しておやすみなさいと言ってそのままでした
朝起きてこないので母の部屋に行ったらなくなっていた

月が連れて行ったのかしら

久しぶりにこの都会で待月を眺めながら女将を思い出した
いつも結城縮をサラリと粋に着こなしていた
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着物が繋ぐもの 40

2018年10月30日 11時16分00秒 | 日記
姑と着物の話を綴っておこうと思う

大正生まれの女はお針を持つのは当たり前に育った
家事一切をきちんとこなせるよう
またお稽古ごとにもも熱心で
それが戦後役立つことになった

姑の場合は裁縫だった
戦後は花嫁衣装や芸者の引き着まで縫ったという腕前

しばらく裁縫から遠のいていたが
有ろう事か嫁の着物を縫うことになった
しかもその嫁は着物には全く素人まず運針すらできない
(姉が二人いたので学校の宿題で雑巾を縫ったり浴衣を縫うということがあったが皆姉任せだった。母には先に行って必ず困ることがあるよと注意されても、時代がかわったのよ。と言い返していた私)

半襟は自分の手で付けたほうが着やすいよそして襟元がからだにおさまるわ
と姑に言われ半襟の付け方を教わる
そのとき
「半襟はすぐ外すので要所だけ丁寧にあとは大きな針目で大丈夫」
その要所は「衿肩あき」そこはカーブをきれいに出さないといけないと教えられた
しかも糸はすぐ抜けるように糸の先に玉を作らなくて良いーーと
(チャコちゃん先生向きだよ)

また半襟はしつけ糸で縫い外した糸はまた使うことを考えてくるくる巻いておこうーーと
「貧乏くさいなと思ったけどこれが旅行などで役立つことを知った、さすがだ昔の女)
しつけ糸はマールくなって糸がつながっているそれを思い切りよく一箇所切って使う
使うたびに一本引くとするりと糸が抜けるようになっている
(なんと頭がいい)
更に
その糸の長さがちょうど半襟の長さと同じで都合糸二本で長襦袢の襟に半襟が付き
あとは衿肩あきを絹糸で丁寧にくける
首の根っこにくっつく衿肩あきの糸は絹のほうが肌に柔らかいでしょう?
最近の木綿糸は漂白しているから肌がかぶれることもあるかもしれないねーーと
(ふーーん合理的で優しい配慮)
姑にまんまとのせられて覚えた半衿付け
しかし半襟付けができるようになり大満足 えらい1

着物が一歩近づいたように思えた

反物を渡すと
「おひさまがあるうちに見積もるね」
「見積もる?経済言葉ですね」
「そうかしらこちらが先かもね」

柄のことなど頓着なく縞の着物を渡すと
「ヒサ子さんこの縞どっちの色を顔に近づけたい?」
「へっそんなことまで考えるんですか?」
「そうよ紬の着物は裏も表も使えるのねだから見積もりがいろいろよ」
「では薄い方の色をーー」
「若いから子いい色のほうがいいかも」
「あらホントだ引き締まりますね」

この色が襟に来るということは
袖がこうで身頃がこうなる衽はこちらか
と言いながら布を動かしている姑
「数学ですね機可だわ頭がいいんですねお母さんは」
「お褒めいただき恐縮です」と二人で爆笑

(このこう次回も)


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マンハッタン

2018年10月29日 19時47分40秒 | 日記
コスモスサロンを開催して夜遅くまで会社で過ごす
こんなに夜のビルが見事だとは思はなかった
この地の面白さを夜満喫している

はるか昔ニューヨークに行き本物のマンハッタンに酔いしいれた
その時はまだ日本が貧しかったので
アメリカのきらびやかさに圧倒された

バブルの頃のニューヨークは日本資本に崩されていて往年の輝きがなかった
着物で歩くのが恥ずかしかった。何か成金のような気がして

アメリカで長く生活していた友人が日本に戻ってきて日本で生活する事になった
気がついたら日本のことをほとんど知らないと言ってよく遊びに来ている
その都度この新宿マンハッタンに感嘆している

着物を知ることが日本を知ることの早道だと彼はいう
着物を英語で説明するのにその説明にあう単語がなかなか見つからない
どうして日本語人が着物を着ているのか
着物にどんな意味を日本人は持っているのか
日本にだけしかない着物のあれこれを英語で説明することで
日本の文化や 日本人のものの考え方が分かってくる

彼はそう言っていろんな質問をしてくる
彼に説明する時
チャコちゃん先生は逆に日本んを深く知ることになり
彼の訪問が楽しい

そういう動画をチカジカあげようと思うーお楽しみに
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着物が繋ぐもの 39

2018年10月28日 15時51分35秒 | 日記
季刊「きもの」(繊研新聞)での連載が始まったのが1972年終わりが1983年
この間43人に取材をしている

初めは小売商の社長10人
そして着物の製作者28人
着物周りの職人5人

高度成長期の走りからこれからいよいよバブル期を迎えるという着物最盛期だ

着物ジャーナリストとしてデビューし3年目にこんないい仕事をさせていただいている
つくづく幸せ者だと感謝
当時は業界記者はいてもフリーの立場で着物のことを取材する人間は居なかった

まだアメリカに占領されていた沖縄に4度も足を運んでいる
写真も自分で撮っていたらしい

ある時
石垣島の八重山交布と竹富島のミンサー織りの取材に行くと友人に話したら「行きたいいきたい絶対に邪魔にならないようにただただ海に浸かっているから」と深々と頭を下げるので、孤島に一人で行くのがちょっと寂しかったので一緒に行くことにした

先ず竹富島に石垣島から渡った
ミンサー織りは女が心にきめた男に自分が織って渡すもので
模様の意味は「いつの世も足繁く通って下さい」と絣が四つと五つ
そして縁取りに縞模様
なるほどなるほとと感心してまだ通い婚の名残が残っているのかと一軒しかない 民宿で美味しい魚とお酒で民宿の夫妻と大騒ぎして休んだら

夜中頬に風が当たる目を開けるとかやの裾を上げて男が入ってくる
「えっ」声も出ないで身を固めて隣で寝ている友の 寝息を伺うと規則正しい
だんだんと男が近づいてくるーーーーー

友がいきなり男を蹴飛ばし大声をあげたため男は素早く逃げた
私は腰が抜けて起き上がれない
「チャコ大丈夫?凄いとこだね夜這いだよ」
「あなたと一緒でよかった!感謝よ」

夜があけて朝食の場で民宿の夫妻に訴えたら
「よかった な二人とも美しいという証拠カカカー」と笑って終わり

昼間自動車(一つしかない)をうんてんした男に違いないのだが、平気な顔をして
「イカつったよ」と朝食用にニコニコしながら持ってくる
南の国というのはこういう大らかさが有るのだと変に感心した

石垣島での取材中友は海で泳いでいたのだが、海水姿のまま取材先に飛びこっんできた
「どうした?」
「耳貸して」何と!タンパックスが取れなくなった!
一軒しかない病院に駆け込みえらい時間かかってやっとすっきり
「何で無理して泳ぐのよ」「だって海が綺麗なんだもん」
昨夜助けてもらっているのであまり強くは叱れない

その時「湯文字」を思い出した
湯文字だけが下着という時代があり、その時代の人たちに集まってもらい座談会を開いた
そのとき
湯文字を付けていると性理のコントロールができると聞いて驚いたことがある
友人に東京に帰ったら「湯文字生活を送りなさい」と言いつける

八重山の麻は大麻木綿も自家製藍は琉球藍だった
この取材は一生忘れられないものになった
(つづく)
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恋するもてシニア

2018年10月27日 18時23分48秒 | 日記
日本元気シニア総研という団体があり
本日そこでチャコちゃん先生はお話をする
渋谷区が若者ばかり集まる町ではなく
大人も集まるよという会のよう

シニアは歩くことが一番大切ということで
ウオーキングのプロの指導
また肌の酸化を防ぐ洗顔術
理学療法士による体の動かし方
発声法
そしてチャコちゃん先生は何を語ろうかと思案中

いつもブッツケ本番は悪い癖
しかし
観客の顔を見ると話すことが決まってくる

そんなことがいつもまかり通るという甘い考えもいい加減卒業をしないといけない
(ハンセイ)

次回は11月23日 祝日の金曜日

面白そうですわ
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着物が繋ぐもの 38

2018年10月26日 08時00分00秒 | 日記
高倉健さんの着物姿を美しいと思った
ヤクザ映画が大流行していた時代だ
着物姿の男たちが大勢画面で走ったり啖呵を切ったりする
その中で上半身はゆったり、下半身はきりりと細く着付けた健さんの姿
とくに早足で歩くとき足に沿った裾が足首のところでひらひらと翻る
ちなみに他の俳優さんたちは裾が割れるがふくらはぎまで見えてしまう

ちょうど着物を着て生活をするようになって5年目のときだった
一年は着続けようと思ったのに疑問が次から次にわき
母が作ってくれた湯文字の効果がやっと理解できたり
せっかく編んでくれた毛糸の腰紐も毎日使っていたら伸び切ってしまうこと
絹の半襟が黄みを帯びてくるので化学繊維のものにしたら首の皮膚が切れて血が滲み着物を汚した
また洗濯が楽なナイロンの足袋を履いたら滑って軽い捻挫をした
などなど毎日が学びの日々になっていた
(結局365日20年間着ることになった すごいよなあ)

そう高倉健さんの話
あまりにも美しいので早速取材を試みた
青山の「WEST」というシュークリーヌの美味しい喫茶店での取材、健さんご指定
その頃はまだヤクザ映画の男優さんという位置づけなのでシュークリームと結びつかなくて笑った

あなたの着物姿がかっこいいその秘訣を知りたくて今日インタビューをさせていただきますと
着方に工夫があるのか? ノー
素材が他の方と違うのかノー
「それだったら七五三」
「エッ?」
「後幅7寸、前幅6寸、衽3寸」
「ずいぶん細くしてあるんですね」

走ったり階段登ったり歩いたりいろいろと実験の結果足首しか見えない裾の翻り方をきわめたそうな
「こんな質問初めてですよ」
とえらく喜んでくれて逆にごちそうになりおみやげまで頂いた

そして早速姑にその話をして新しい着物を七五三で縫ってもらった
「ヒサ子さん歩けないと思うわよ」
「いいんです実験してみたいの」

姑は私の着物しか縫わないのだが毎回寸法を変えて縫ってもらうので
その都度「着心地どうだった?」ともう一緒に研究をしている感じになり
通常のよくある嫁と姑の確執など全く関係のない共同研究者という関係を保っていた

それで早速出来上がり着て表に出た
うわ~~~なんとなんと裾がはだけて膝まで見えてしまう
どんなに内股に歩いても歩幅を小さくしても裾は乱れる
逆に外股で裾を蹴って歩けばそれはそれで落ち着く

一日裾ばかりを気にして動いていたので帰ったらぐったり
姑はニヤニヤ笑って私の着物を畳んでいた
「やはり寸法というのは犯し難いですね」
「そうよね」
(つづく)



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着物が繋ぐもの 36

2018年10月24日 18時21分12秒 | 日記
倉庫や引き出しや押し入れなどの断捨離を決行中だが
思い切って捨てるものも多いが
これはとっておくほうがいいかもというのもある

1972年(昭和47年)から始まった
繊研新聞から出ていた「きもの」という季刊誌の中で
「わがきもの人生」というタイトルがあり
インタビュー記事を私が書いていた

たまたまその一部が資料の山の中から出てきて
それは加賀友禅作家の重臣初代由水十久さんのインタビュー記事だった

「うまいじゃあないの」と読み耽る
今の私の文章より遥かに上手
グイグイ読ませる力がある
全部を読みたくなり新聞社に交渉をし送っていただいた
なんと41冊つまり41人に取材していることになる

一回目はしまがめの女将さん
それには書いた人の名前がないので私ではないと思ったが
読んでいる内その時の状況が思い出され私だとわかった

二回目から終わりに名前が入っている
そして三回目からはついに目次に名前を入れてくれている
38歳の若造だったが当時のそうそうたるメンバーと名前を連ねている

八王子の荒井呉服店の今は亡き先々代の社長の経営方針は
これからの時代に合う
つまり近江商人の三方良し今風に言えばウインウイン
常に買う人の身になって物を仕入れ飾る
時間があれば近所の世話朝は町内の掃除までする

今若い人の間で早朝のゴミ拾いで徳をつもうと言うことが行われているらしいが
四十六年前いえ江戸時代のはじめから
商人はただ商いをするのではなく世の中のため人のために尽くすことになっていたようだ
社会貢献をいつも念願に置いている

作る人達から経営をする人たちへの取材が始まったのは
その頃を思い出すと
心をこめて作った着物がどんな形で着る人の手に渡っていくかを追求していたからだと思う

そして問屋とか小売商に興味を持ちそちらの取材が始まったのだ
ページを繰ると鈴乃屋の小泉元社長の話は
戦争未亡人として自分にデキる仕事は着物を縫ったり着せたりすることだった
戦後それが商売になったというところを結構鋭くついているのがすごいよと思う

また大阪から東京に出てきて成功したもと「ますいわや」の東京社長
兄と弟が一足の靴を片方ずつ履いて闇市で大儲けする話も結構面白い
その後兄は大阪弟は東京で店を広げていくが
その広げ方のコツのようなものを1週間にわたり朝から晩までくっついて取材をしている

こうして10年にわたって取材をした大人たちからその後もずっと可愛がっていただいていたことに気が付き。今はなき人たちに、本を手に手を合わせる
(つづく)
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英会話

2018年10月23日 20時59分26秒 | 日記
英会話には着物の次くらいにお金をつぎ込んだ
しかし
全くものにならない
何故か?
「この世に生まれてくる時日本の文化をしっかり勉強しそれを世に広める」と言って出て来たものだから、変に外国語が入ってはいけない
日本語で考えることが大切だから日本語以外は頭に入らない

まーーーたく都合の良い解釈で英語を遠ざけていた
アメリカ人に日本語を教える、その代わり彼が英語をチャコちゃん先生が先生に教えるという交換会話をしたところ
アメリカ人の方が美しい日本語を馳せるようになり、童謡を英語に翻訳して今や英語で童謡を歌う歌手として引っ張りだこ

この私はあいも変わらず英語ができない

ところが
アメリカで長く生活をしていた男とあるセミナーで出会った
東京が台風に荒らされていた時よほど暇な二人がセミナーで出会う
その日は私たち二人だけ

嵐の日でも着物を着ていたチャコちゃん先生
「日本の文化をあまりにも知らないので教えてほしい、外国の人が最近は僕より日本のことををよく知っていて恥ずかしい。特に着物に興味のある人が多い。この嵐の中でもこのセミナーにきたことに意味があった」
とすっかり仲良くなった

彼が電話をよこす時は必ず英語、ちゃんぽんで受けごたえするうちなんだ知ってる単語を使えばいいのだ。とわかる

着物の説明も英語でする。そうすると日本語の言い回しの美しさに二人で感動
英会話の練習には着物が最適
だって英語にない言葉が多いので、
それをどうわからせようかとすると、いろんな日本のことを説明しなければならない

なーーんだ
英会話って簡単じゃん
中学からの英語の勉強って何だったのだろう
と言ってもまだまだだ

これからも仲良くしてマスターしようと思う
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赤ちゃんとお話

2018年10月19日 21時01分18秒 | 日記
出雲の小田温泉にに行ってきた
ここの大女将裕子さんと35年のおつきあいとなる
出雲に「秋桜の会」を発足しチャコちゃん先生はその小田温泉を定宿とした
季刊コスモスが発売のたびに出雲に行き
着物の話をしながらみんなと楽しい時間を設けた
10年続いたので女将さんとはすっかり気心通じる中になった

その家族になんと71年ぶりのお男の子が生まれたという知らせ5ヶ月経ってお祝いに行く
まるで仏像のようなありがたいお顔
すっかり彼に気に入られてずっと抱っこ
どうも彼は光が好きらしく
必ず光の方に向く

「この宿の跡取りと思って地球に来たの?」
「うーーーんふ」
「ここの家族が好き?」
「ヒューうん」
言葉にはならないけど質問胃は律儀に答えてくれる

「日本は大丈夫かしら?」
「べろべろーーーーー」
と早口で舌を絡めながら足と手をバタバタする
「わからないないわ、仲良くすることが大事?」
首を振り早口で音を出す
何か教えてくれているのだろうがさっぱり理解できないもどかしさ

対等に話をしている態度がそばに一緒にいた友人がびっくりしている

その後はチャコちゃん先生と話をしたいらしく、目をしっかり合わせて覗き込み
何かを話しかけてくる

赤ちゃん言葉はきっと宇宙言葉なんだろうな
でもなんだかとてもたくさん会話をした充実感を味わった

超若いボーイフレンドができて嬉しい


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着物が繫ぐもの 35

2018年10月18日 09時00分00秒 | 日記
着物の着付けをどうしたか今では全く覚えていない
がしかし
自己流の自分の着付けをしていた
多分母や姉の着付けを横目で見ていてかってに覚えたのだと思う
誰かに教わったわけではなく
あら不思議着ていた!

着物を着付けることに不便はなかったが
着て表を歩くのに抵抗があったというより人の目がうるさかった
お化粧をしていないと
「病気なの?」
その言葉で口紅くらいはしないと顔が着物に負けるのだと知る

髪もきれいにしきちんとお化粧をして夜歩くと
「お店忙しい?」
と聞かれる、素人らしい着方があるのだと知る

歩いていると裾がはだけるスネまで見えてしまうことがある
下前をもっと上手に体に巻かなければいけない

駅の階段を登るとき上前を踏んづけてしまう
腰紐をもっと強くきちんと定位置にむすばねばーー定の位置ってどこだ

「これはもう毎日着物を来て身につけることしか無い」
と決心家でも着物を着て家事をするということに徹底した
それにはエプロンが必要母親の割烹着を思い出しデパートに買いに行くが
どこで売ってるかわからない
呉服売り場だと教えられていく

母の手作り紐の中に毛糸を編んで作ったものがあった
これはよく締まり腰紐に使ってみると調子がいい
着物生活の人はよく知っているものだと変に感心し
やっと母にお礼が言えた

思えば結婚衣装も洋服だったし母をどれくらいがっかりさせたことだろう
と今頃母のありがたさに感謝する始末
着物が自然に素直な娘心にしてくれたようだ

そして遠出のチャンスがやってきて着物を着て行くことにした
というのはあのおにぎりいただいた産地に行くからだ

「愛らしい」
「似合う」
「姿がいい」
と手拍子で褒めてくれる
しかしなぜかスート風が吹き通る感じがする
なんだろう?取材をしながらずっとその事を考える
喜んではくれた 褒めてもくれたでもそれ以上ではない何が足りないのか

彼女たちが織り上げた反物を撮影しているときはっと気がついた
この産地の着物を着ていないのだしかも全く産地の違う母が揃えてくれた大島を着ている

そうか
そして織り上がった反物が並んだところに行き
早速自分にあう反物選びを始めた
あれこれ顔に近づけていると年かさの女性が鏡を持ってきてくれて体に反物を巻いてくれる
それを始めたら
あちらこちらから聞きつけた女たちが集まって
「似合う」「いやこっちのほうがいい」「でもこっちだわ」
と着せ替え人形よろしくみんなのおもちゃになっていく

一反を決めて購入 みんなは大拍手本当に我がことのように嬉しそう
そうかこれだ!
私の着物素材研究が始まる  (つづく)

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