チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 297

2020年02月27日 17時45分24秒 | 日記
着物は資産価値がある
着物をモノとしてみると資産価値は現在はないかもしれない
しかし着物を通して着物に教えてもらったことは「資産」になる。「宝」として自分だけのものにするのではなく、資産として運用することが大切。今やっとそのことに気が付いた

着物にかかわってこちら、多分チャ子ちゃん先生はお金にするとかなりの金額をつぎ込んでいる。持っている着物は古着となり資産価値はない

しかしその一枚一枚の着物から、色を教えられ、柄の意味が分かり、作り手の人生を垣間見、売り手の苦労を知り、買い手の心の動きを見て、着る人の喜びや疑問を見続けてきた

その結果着物から哲学や思想、経済学や美学、芸術、文学、歴史、医学、農学などなど衣食住においても底知れない学びをさせてもらった
例えば「色」について、扉を開けると、むつかしいところではゲーテの色彩論が出てきたり、ほうーと感心して次なる扉を開けると、色と心理学、さらに扉を開けると色と五行、扉は明けても明けても次の扉があり、いまだにあけきっていない。

柄についてもそうだ、柄の生い立ちを知ろうとすれば古事記にまで行ってしまう、自然素材のもろもろを知ろうともうと農業に行く、作り手の技を知りたいと思うと、先人たちの知恵にたどり着き縄文まで行ってしまう

そして知ることによって自分辞意sンの心が磨かれてくることを知る。その間生きているうえでいろんな事件に出くわす、しかしそのすべてを着物に教えてもらった知恵で潜り抜けることが出来解決する

これは着物が私に与えてくれた「資産」
この「資産活用」をすることでこれからもお健やかに生きていけることが出来る。そのように思える事柄にあい、自分に与えられた資産を有効活用しようと思った。

コロナ事件でイベントが中止になっている、私も大きなイベントが二つ吹っ飛んだ。しかし着物資産のおかげで、空いた時間を優雅に過ごすことが出来たのには感謝。
これからもこの「資産」を活発に運用して、世に役立てたいと思う

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日本人は大丈夫

2020年02月25日 13時34分22秒 | 日記

日本人は賢い

コロナに関しての自己防衛

いろんな情報を集めて最終判断は「免疫力を上げる」という日常生活に戻ろうと努力する。どんな病でも免疫力が高まっていれば、病気は逃げていく

こんかいのコロナウィルスに罹った方の中でも、亡くなる方と快方に向かう方がいらっしゃる。これはなんの差かと言えば免疫力の差なのだと思う。

 

これを機会に免疫を高める生活にしようと考える人が多く出て来たことは嬉しい

 

免疫を高める生活って

*早寝早起き

*朝食と夕食は控えめ 動物性タンパク質はできるだけ少なく、よく噛んで、作り置きは食べない、白湯を飲む(この白湯の作り方も大切)

*きちんと食べる場所で座って食べる(猫だって犬だってパンダだって座って食べる)

*着るものは自然素材

*体を温める(温泉ていいわね)

*よく笑う、楽しい、嬉しい、おかしいの生活、自分を愛する

*お部屋の整理整頓

こういうこと子供の時に親に躾られて居たのだけど、いつの間にか夜更かし、暴飲暴食って生活になり、病気の菌に好まれる体になってしまった

 

このコロナ事件で本来の日常生活を送ろうという人が増えれば、農薬問題、薬害問題もなくなりそう。

 

このように、逃げるのではなく、なぜ今ウイルスが元気なのかを分析し、自分の生活を整えようと思う人が多い日本人が素敵。

 

こういう人もいた

ウイルスが闇ならそのウイルスを光にしてあげましょう。そういう気持ちでいればウイルスは悪さをやめるでしょう?

 

日本人って捨てたものでは無い

おきたことを受け止め分析し次のステージに進む器量、こういう考えがいい時代の日本人の作法なのだろう。

さあ免疫力あっぷを目指して温泉に入って暖まろう!

 

 

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着物が繋ぐもの 296

2020年02月23日 17時15分18秒 | 日記

着物でどこにでも行く

もちろん12時間の飛行にも着物だ

そのためにいろいろと工夫をした。兎に角絹を着ていることがいちばん、体を疲れさせない

帯板が辛いことがわかり、帯板締めというのを考案し、伊達締めと帯板が一緒になったのを作った。なんと楽。その次は帯枕。芯に赤松の粉末を入れて、絹の布で巻いた。クッションの代わりもして居て、エコノミー症候群にならないで済む。

 

他には半襟付け

長襦袢の襟を広襟にし、その中に帯芯を入れた。程よく固くそれでいてふんわりとして居て首が疲れない

 

足袋は中布を絹にしておくと足のむくみが取れる

 

後はパッケージ方法、着物帯小物の類を2セット太巻きのようにしてくるくるまとめ、使い古した絹のスカーフで包む。自然にシワも延びて快適。これ以上の着物を持っていく場合は、着物太巻き、帯小物太巻き、長襦袢太巻きが三つになる。スーツケースに入れても空きが出る

 

旅の朝には洋服も必要だが、冬はジャージーのワンピース、夏は絹のワンピース、くつはバレーシューズ。全部丸めてスカーフ包み込む。このスカーフいざという時買い物袋にもなるので便利。

 

今日はこれから京都、コロコロ一つで3泊4日

新幹線の中はみんなマスク、絹のマスクをしている人はチャコちゃん先生だけ、オッホン。

コロナは熱がお嫌い、あったかもの食べて、野菜を取り、絹を着て免疫あげよう。鼻水が出て咳が出ている人は単なる風邪気味というやつらしい。コロナは空咳、高熱。余り神経質にならないようにと心がけている

 

でも環境が変わるので、注意は必要

行ってきます

 

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その後の悪ガキ

2020年02月22日 10時09分48秒 | 日記
チャ子ちゃん先生を死の淵に追い込んだっ悪ガキは
その前にも二つ私にダメージを与えている

いつものように悪がき大将は子供たちを寺の鐘撞堂にあげてそこから飛び降りる競争をさせた、みんな必死に飛び降りる、その時飛び降りた子の足元から石が私の目を直撃した。驚いた悪ガキは急いで自分の母親のところに私を連れて行った。その母親は丁度授乳中ですぐに自分の乳を搾り私の目に当て包帯を巻いてくれた。その日は何回も何回も乳を当ててくれていた

母もその母親を信頼して私をそのままその家で寝かしていた
隣同士の信頼感というものに大人になってその時を思い出し感心したものだ

のちに母乳には殺菌力と止血の力があり、傷には一番の特効薬と聞いて、当時の母親たちの知識と知恵の深さに驚いた。そのお陰で、傷跡も残らず目もいたまず感謝している

もう一つは
やはり鐘撞堂でのこと、子供たちに鐘を衝かせるといういたずらを悪ガキは思い付き、鐘を衝くように命令、しかしなかなか重くてよく衝けない、お寺の鐘は時刻や火急の時を告げるものだと母親に聞いていたので、私は仲間に入らず鐘の外側にいた、そこへ和尚さんが駆けつけて叱り飛ばされたのだが、最後に衝いた子の棒を止めようと手を入れた瞬間、私の左手の親指がその下敷きになり骨が砕けた

これも黙ってやったことなので誰にも言えず痛いのを我慢して一夜明けたら親指がイチジクの様な太さになっていてそれを見た母は医者に駆け込んだ
ほったらかしたので筋肉が骨の周りについて指を支えたらしく、このままにしておきましょうとなった。そのため今でも私の左親指の関節はまっすぐのまま

こういうこともあって悪ガキはあの疫痢騒動以来、まるで王女様の僕のごとく私に尽くすようになった。しかし体の弱さは回復せず寝たままの状態が続いていた。絵本を読んでくれたり、おもちゃを持ってきたり、自分のおやつを分けてくれたりと至れり尽くせり

そのうちあの戦争でバラバラになって音信も途絶え、久しぶりに入った情報は
「修二は疎開先で川におぼれかけている子供を助けて自分が力尽きて死んでしまった」という彼の母親からの託

さらに時代が進み私が徹子の部屋の番組に初めて出演したとき、終わった後知らない女性が私のオフイスを訪ねてきた。聞くと
「修二兄さんの妹です」
「ああ あの時の赤ちゃん?あなたのおっぱいを横取りしたんでしたよね」
母親が番組を見て涙を流し喜んで修二さんの写真もテレヴィの前に置いて見ていたのだという

東京に住むその妹さんに母親から電話があり尋ねるように言われたのだという
その後はまたその妹さんとのご縁がつながり旧交を温めることが出来た
「あの病弱なひさこちゃんがあんなに元気になってーー」とよろこんでくださった
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あの世の話

2020年02月21日 10時25分18秒 | 日記
フッ出したと思いだしたことがある
中野裕弓さんがお母さまとの会話の中であの世に行く時のお話をなさっていた
そのとき鮮明に思い出したのがチャ子ちゃん先生があの世に行きそびれたときのこと

まだ小学校に上がる前だったと思う
隣が大きな乾物屋の問屋で広い倉庫がありその裏庭に梅の木があった
そこの次男が私より一つ下の悪ガキで、元気いっぱいで同じくらいの子供たちの先頭に立って遊びの大将だった

その子が
集まった子どもたちに無理やり青梅を食べさせようとしていた
青い梅は決して食べてはいけないと母に言われていたので私は「それ食べたら病気になる」と大声で制したら、それが気に入らないといって私にだけ食べさせた。案の定私は「疫痢」にかかった

だけど何を食べたかも誰といたかも黙秘。親より医者よりその子が怖かったのだろか。高熱を出し、医者も手の施しようもなく、家の裏がお寺だったので住職まで呼んで「その時」に備えていたらしい(これは大きくなって姉たちに聞いた)

当の私はすり鉢のような暗いトンネルに入り、もう苦しくて苦しくて大声を出しても誰も助けに来てくれない、と思ったら明るい光が差しすとんと降りたところがお花畑であった。今思うとポピーの花なのだが赤オレンジ黄色と美しくその花を駆け回って摘んでいたら、背中の方で「ひさちゃーーん」「ヒサコーー」母や姉の声が聞こえ「ああ夕食に此の花持って帰ろう」と思って振り返ったら、布団の上にいてみんなの顔が私を覗いていた。その中に件の悪ガキがわんわん泣いていてびっくりした。

そこまでは鮮明に思い出したがあとのことは全く覚えていない
前に同じような体験をした方とこの話をしたことがあるが私はずっと忘れていた。というより封印していたのかもしれない

「死」というものが今の私の年齢に近くなったけど、今このことを思い出したおかげで「死」を恐れることはない。「死」は新しい出発になるのだと確信する

生きていることに感謝し、そして楽しく幸せに毎日を過ごすことが一番大事なことかもしれないと思う。与えられた命を使い切るために努力しようと思った


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着物が繋ぐもの 295

2020年02月20日 10時46分08秒 | 日記
あなたはご自分のうちの家紋をご存じかな?
お墓にお参りして初めて自分の家の紋を知るという人も多い昨今
チャ子ちゃん先生の年代の人はおそらく家紋を知らない人はいないと思う
というのは冠婚葬祭に使う什器には必ず家紋が入っていたし
母親たちの卒業入学式に着る羽織は家紋付きの物だった

現役編集者の初めのころは
毎年春号は「卒園入学の黒羽織」という特集を組んでいたものだ
いまでも家のどこかには黒羽織のあるおうちが多いのではないかと思う

男の礼装には必ず家紋はつきもの
家紋も日向紋、陰紋、比翼紋、抱き紋さらに染紋、縫い紋、張紋、描き紋、染め抜き紋
などなど格によって家紋の表現にもいいろいろあるが、そういう決まり事を守る人も少なくなった

家紋から自分のルーツを探すこともできて、これはなかなか面白い作業でもある

さて
家紋を大事にしていた時代というのは、財産分与にも関係があった
戦前の法律では長男以外には財産分与はなかった、次男三男はその家によっては分配もあったが、女の子はなかった。そのため「花嫁道具」という名目で、親たちが衣装はもとより什器に至るまでコツコツとため置きしたのである

その時家紋をつけてその子の財産として嫁ぎ先に送り出した。もしも離縁ということでもあれば、その家紋のついたものを一式実家に持ち帰るという合理性も備えていたのだ、婚家先で作ったものは婚家の家紋がつく

本来の日本人の考え方はシビアでありながら合理的、そしてそこに美と深い愛があることを知ってくべきだと思う

家紋は正式に使う場合と遊びで使う場合があり、家紋の美しさをもっと日常に取り入れてもいいように思う。一時家紋柄の帯がはやった。その時私は家紋チラシの留めそでを作り母を呆れさせた

風呂敷やお懐紙に家紋を使うのが好


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一人一人の内観

2020年02月19日 13時39分34秒 | 日記
コロナウイルスの影響で大きな集まりの行事が自粛され始めた
東京マラソン、天皇誕生日、コンサートなどなど。その中で毎年日本語学校の卒業式で着物の着付けの仕事があるのだが、これは吹っ飛んだ。中国人留学生が多いことと、船をチャーターするので今はちょっとネーー

そうこうしているうち100人単位で集まるチャ子ちゃん先生の講演会も中止。学校の卒業式も危ない雰囲気。経済的に打撃を受けるが、この空いた時間をどう過ごすかで、次に飛躍できる気もする

人は生きている限りいつも危険にさらされている。危険の中でいろんな知恵が生まれた。その究極は自然を見ることであった。月や星の動き太陽の位置などで人はいろんな道を見つけたのだ。

何かが起きると人工的であると思うが、それは宇宙を動かしている大きな力を持った方の意思が働いている。だから何も考えないでその意思に従いうのが賢明なのだ。何も考えないというのには語弊がうまれる。宇宙の意思が何かを探ることが必要で、ぼんやり依存をしていればいいというものではない

今この時期にコロナウイルスが世の中誕生、なぜ?と考えたとき、コロナウイルスの性質をよく理解すれば、免疫力を持った人間には寄り付かないとある。免疫を上げるために私たちは何をしたらいいか?

衣食住を改めて見直すと、私たちは宇宙から与えられたものに自ら加工してややこしい化学物質を加え利用していることを知る

日本各地の休眠田をみんなで使えるようにすれば自給自足は夢ではない。世界で一番農薬を使っている日本の農業の在り方も考え直さなければならない。土に戻らない衣服を着たり、そういう家に住むこともやめる。宇宙が与えたものはすべて循環ができて次の命を育てる要素を持っている

コロナウイルスは
人に本来の宇宙意思を伝えるために沸き上がったものではないかと思っている
そういう生活をしていた兵器なしの縄文時代は2万年近くも続いている、最近の遺跡発掘では3万年も続いたという歴史証拠も出ている。私たちは何か踏み外している。その何かをこの騒ぎの中で見つけ改めて、美しく生きていきたいと思う
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着物が繋ぐもの 294

2020年02月18日 10時18分15秒 | 日記
染帯はいろんな構図で自由な柄が描けていて面白い
特に紬の好きな人には楽しみの多い染帯である
バブルのころは「染帯」を売る人はいなかった
織帯のほうが豪華だしお金が取れる、特に袋帯全盛であった
着物初心者にいきなり袋帯をあてがうのっだから無謀である
あの長い帯を一人で結ぶなんて至難の業、誰かに結んでもらうか、必死になって結び方を覚えるしかない

昭和40年以前はちょっとした家庭には必ず「女中」(今はお手伝いさんと呼ぶ)がいて、彼女たちは、行儀見習いも兼ねているので、着物の着付けは奥様やお嬢様の着付けを手伝いながら覚えていく、そのため帯結びなどすぐ出来るようになっていた

しかし高度成長でみんなが裕福な生活ができるようになったら、着物の着付けは人から人ということではなく、同じ人でも学校や教室などに通って月謝を払い教えを乞うという感じなった
ここから着物の衰退がはじまったとチャ子ちゃん先生は思う。着る人は確実に増えていったが、いついかなる時どこにい何を着ていくのかと、自分が住む階級の指導者がいなくなったのだ、そのため、通り一遍の教科書的な着付けや、組み合わせが主流になりちっとも面白くなく、おやっと微笑みたくなる着物姿、気品あふれる着物の立ち姿の麗人にお目にかかりにくくなってしまった

染帯は味のある着姿を演出してくれる
染帯にも手描き、型染、素描とあり染と刺繍を合わせた帯も味わい深い。刺繍だけでも豪華だ
染帯は旬の季節を表現できる、合わせる着物は小絣の紬や、江戸小紋、地越しの無地、縞、格子などの趣味的な装いなので、その柄の由来などにたけていないと面白くない。そうすると日本の文化に親しむことになる。着物の導きは半端ではない

ここのところの染帯は前がらも後ろの太鼓がらもどうもさみしい。着物が単純なだけに胴回りもお太鼓にも柄をたっぷりつけてほしい、それが染帯の醍醐味

熊谷好博子さんの帯は前も後ろもたっぷりで嬉しい




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真山美保さん

2020年02月17日 10時54分17秒 | 日記

真山美保さんは新制作座の創始者

昨年の今頃縁あって新制作座に保管されている着物を見る機会を持った

初めて伺った時も由緒あるひな壇が飾られて居て、その見事さに圧倒された

真山美保さんの私物で、劇団員のものはまた別にあるという解説

一つ一つの道具の細工があまりにも細やかで美しく、そちらに心奪われ、こういうお道具を集められた真山美保さんの伝統の美に対する感性に強い興味が湧いた

 

保管されている着物の数は想像を遥かに超えて居て、劇団員の皆様にも正確な数字はまだ出せていない。ざっと見積もっても万の数字であろうと思う。舞台衣装は別にある

 

何回か通ううち、どうしてこうも良いものを集めて居たのか、また何のために、という疑問が湧いてくる。

 

真山美保さんは劇団を作った時

劇団員にはアルバイトをさせない、演劇に専念してもらう

そのため三食を劇団で賄う

生活の場も無料で提供 

給料を出す

社会保険も全て劇団が支払う

冠婚葬祭の衣装は劇団で揃える

 

八王子の高尾に近い一山に劇場、練習場、食堂、マンションを建て全員がその場所で生活して芝居に精魂を傾けている。そこで作られた「泥かぶら」は全国の学校に赴き開演して文部大臣賞や公の賞をいくつも取って、今尚全国を回っている超ロングランの演劇でもある

 

その他にもヒットを飛ばし、其処で売り上げたお金が保管されている衣装に向けられたようである

 

真山美保さんの父親は真山青果という超有名な劇作家、今でも歌舞伎や前進座新派などで演じられている戯曲が多い。その戯曲を演じた役者に「真山青果賞」を新制作座は出して居て、その時に舞台に上がって賞を手渡す若き女優たちが着る大振り袖が毎年作られたという。この大振り袖の技術の見事さ、色の美しさ、着物って本当にきれいだとため息が出る

 

そのほかにも海外公演でのパーテー用の衣装、手抜きのものはなく、すべて当時の職人たちが渾身の力を込めて作ったものばかり、若い女優さんたちをより美しく見えるように、一人一人着物を着せて、帯小物のコデイネートを熱心になさったのだという

 

着る人を引き立てる着物の選び方が半端ではなく、心の底から着物を愛して居たのだと感じる

 

演劇を愛し、着物を尊び、人々の成長を喜びとした人生を送った方なのだと、着物を見ながら感じ取る。ここに静かに眠って居てくれた事に感謝、そして今本当の着物に出会う機会が少なくなっている時、職人さんたちの勇躍する喜びの中で作られた着物に出会う嬉しさ。幸せ

 

皆さんにも鑑賞していただきたく、「タンスツアー」を随時行って居ます  HP  http//kosmos.ciao.jp

 

#真山美保 #真山青果 #中谷比佐子 #新制作座 #泥かぶら #大振り袖

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着物が繋ぐもの 293

2020年02月15日 11時13分12秒 | 日記
コートの襟の形がいろいろあって面白い
道行襟、被布襟、道中着襟、立て襟、羽織り襟、へちま襟、水干襟
この羽織り襟が面白いと超ブランドの企業が、自社の夏のコートをこの襟で作った
しかも素材も紗、飛びつきましたね、今でも愛用をしている
カーデイガンも元は日本の襟合わせから来ているのではないかと思う
確かに洋服では襟の形はかなり固定される、そこへ来るとわが着物の襟は上にあげた以上に様々な形がある
これは重ね着をすることから生まれたデザインだ

さて
統計的な考察だが
コートを作るとき道行襟を選ぶのは伝統を重んじる良家のご婦人に多い。決して道中着襟は選ばない。お被布の襟はクラシック好みの人に多い、良家の方々は変形の襟を嫌う。最も車移動なのだからコートはあまり着る機会はない

道行襟は元もと蘭学者や医者、学者という知識人が着ていたし、そういう意味では「知的、品の良さ」という遺伝子を持っているのだろう

お被布は将軍の未亡人や大名の奥方、尼僧また小さなおこちゃまが着たので、なにか抹香臭い遺伝子があるやもしれない

この二つの襟がコートの襟としての王道であったが今はもういろいろ。襟元の寒さを防ぐためには立て襟や、マフラー形式が好まれるのは当たり前の世の中であろう

羽織に肩掛け(ショール)というスタイルに郷愁を感じる。着物にかかわり始めたときこういうスタイルのご婦人が街を闊歩していた。そのうちの一人が明かしてくれた
「羽織と肩掛けはおなかを隠してくれるので、子供が生まれたときみんな驚くの、えっ!妊娠してらしたの?ふふふ」

ついでに言えばチャ子ちゃん先生が学生の時総武線の中で着物を着たお母さんが赤ちゃんに授乳をしていた。はじめは気が付かなかったけど、羽織の中に子供を入れて、着物の身八つ口からおっぱいを出していた!仰天して食い入るように見つめてしまった。

若いお母さんと目が合ったとき、にっこり笑った母親に思わずお辞儀をしていたわたくし。神々しかったなあの姿
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