昨日の「チャコちゅうぶ」は中野裕弓さんとの対談
年に何回かは一日中二人で過ごす日を作っている。社会問題から日々の暮らしの話まで、様々な話題に集中しながら散歩したり食事したりの時間は、とても楽しい
昨日もお会いしようということは前から決まっていたのだが、裕弓さんに急にズームの仕事が入り、空いた午前中を元町にでも行ってみようと思っていたら、チャ子ちゃん先生の方にも横浜の方が会いたいという連絡があり、ちょうどいいわ横浜でということになり、二人して「天のお導き」と喜び合った
ホテルニューグランドのナポリタンを久しぶりに味わい、中野家に向かう
途中中華街を通っていこうと歩み始めたたのだが、道に迷い、人に酔い30分も費やする始末。あーらお待たせしちゃったとスマホを見ると「30分ほど長引きそう」というメールの後、「今終わりました」というメール目にしたときドアの前についていた、何というタイミング。道に迷ったのも意味有りなのだと納得
さて8時に始まる本番までまた中華街に
出て「翡翠チャーハン」なる珍しいものをいただく、本番での打ち合わせでもなく、いつものように様々な話に花が咲く時間
そしていよいよ本番
それはいつも感動し尊敬する裕弓さんの病との付き合い方、脳卒中で右半身不随、今でも車いすの生活ですべてを完成させている。一緒にいてあえて筒だわないのだが、包丁も持てるしお茶もおいしいのを入れてくれる。一人暮らしだが府お風呂に入るのも食事の支度も家を整えることも、時間をかけ一人で行う。
お会いするたびに右腕が動くようになったね、杖を持たないで、部屋の中をゆっくり歩けるようになったね、と少しずつの回復をともに喜ぶ、
「介護2から看護になった」とつまり回復度が高い患者だ、普通は介護3とか4になっていく病気なのに、なんと介護でなくなった!一般の健康体になるのもそう遠くないという希望も持てる。しかし介護の時より公的な補助はなくなっていく
そんな話をしながらも今までの人生の中で「今の私が一番好き」と言い切る
その通りで今の裕弓さんは最も美しくたおやかでそれでいて強い、軸が通ているのでつい病人であることを忘れて接してしまう
話していて神々しく居心地がいい
きっと見てくださった方にも通じたと思う
浅草神社には格別の思いがある
いろんな職種の着物姿を取材し、その着装なども写真を撮って雑誌に載せていた
鳶職の人たちのカッコよさももちろん取材、どこの鳶?其れは新門辰五郎の浅草でしょう。そして四谷の荒木町だね
取材の時が「三社祭」準備期間、「チョイトごめんよ」と取材中のチャ子ちゃん先生に声をかけて頭は舎弟に指示を与える
そうしている時間に、祭りのお役衆が祭り着物を着て現れた。浅葱鼠の地色に蘆の柄や水辺に千鳥、更に魚網が三つ手描きされている。その美しさに見とれていたら、年配の方が模様の説明をしてくれた
「昔この辺りは海で漁業していた兄弟がその海から網で釣り上げた彫り物があり、それを識者が鑑別し観音様と判り、奉納をした、そのいわれの柄なのだ」というその三人が「三社様」社紋も「三網紋」その名は士師真中知命・檜前浜成命・檜前浜成命
その後江戸友禅作家の熊谷好博子さんに、その時の写真を見せたら
「自分たちはこの模様を江戸解友禅と師匠に教えられ、糸糊の技術を駆使して、細やかに書くことを鍛えられた」
必ず三つの魚網を入れ、蘆の浜辺と海岸松、そこに千鳥が騒ぎ、波模様を入れる、江戸五彩といわれる、藍、紫、小豆、緑、黄を使う、と教えてもらった
特に藍の色は江戸藍といわれるほど種類も多く、美しい、その藍色の配分を成功させて一人前だったという
江戸時代友禅が生まれた時、この模様は大奥の女人たちに好まれたという。そして城下がりした女たちが、この着物を解いて売ったことから「江戸解き」という名が付いたといわれるけれど、真偽は不明。とにかく引着用につくられた意匠であることは確かだし、三社のお役の方々が着ていたこともこの目で見ている(今は着ていない)
その浅草神社に四年前の本殿大麻しめ縄の奉納に続き、鳥居の大麻しめ縄奉納に参加できた喜びはたとえようもない
浅草神社の宮司さんは士師家真中知命ゆかりの方が勤められている
都内の方ぜひ大麻のしめ縄に輝く浅草神社に初もうでを
人と目が合うと条件反射のように笑顔が出る
道を歩いていて困って居そうな人を見ると駆け寄って手助けする
乳幼児を見るとすぐ笑顔になりあやす
子供が来ると懐紙に飴包んでわたす
来客を送ってきた車の運転手さんにすぐ、世間話を仕掛けてお茶とお菓子をお盆にのせて渡す
怒り狂って喧嘩をしているときも、誰かが訪ねてくるとその人に笑顔を向ける
悪口言っていたのにその人の前に出るとねぎらっている
見ず知らずの人にも笑顔で挨拶して語りかける
乗り物に乗ると隣の席の人に笑顔で挨拶してもう話し込んでいる
御用聞きにもお茶出して少し休んだら?と話しかけている
そういう母が大嫌いだった
と、あるとき
所所事情があって外国船にご招待を受け、アラスカ航路に行った
その時船上で出会った日本人の乗客に
「あなたそんなに笑っていると誘惑されるわよ」
「あなた誰にでも笑顔見せてると舐められるよ」
「君ね笑顔を向ける相手を選ばないといけないよ」
自分では故意に笑顔を作っていたわけではなく、視線が合えばにっこりしていただけだったのに、日本の皆さんには不評だった
しかし英語の得意でないチャ子ちゃん先生が、その笑顔のおかげでとても楽しく外国の方々とお付き合いができたし、親切に注意をしてくださった紳士淑女たちも、結局は笑顔をを作り社交がスムースに行って楽しい船旅だったと、いまだにお付き合いができている
笑顔は万人の心を溶かすものだとそのとき分かった。母の笑顔を軽蔑していた自分が、いつの間にか母と同じような行動をしているのかと思うと笑える。そういえばわが姉兄の顔を思い浮かべるとき笑顔の顔しか浮かんでこない
母親という師匠の薬はじわじわと満身に効いてくるものだとつくづく思う
あの頃うざったい母親だと思っていたが、今はマリア様だ
東京の繊維問屋がずらりと並んでいた堀留、新富町
最新発表の展示会が行われているので、久しぶりにゆっくり散策した
「かうひいや」は健在で、そこでゆっくり休む。いつもは数人と徘徊しているので、一人で喫茶店に入るということはまずないから、店主もびっくり。そう、チャ子ちゃん先生一人で喫茶店やレストランに入れない。間が持てない、変な性格だ
さて堀留、あそこの茶まんじゅうを購入して帰ろう。と思いきや閉店、そういえばあの横町においしいウナギ屋さんがあった、晩のおかずに、これまた店ごとなし、アパホテルができているのにびっくり、マンションばかり、総合ビルはIT関係か、茅場町も近いので投資家を集めた研修会場もあり、繊維問屋は貸会場をやったりと小さく商いをやるか、撤退
荷物運びのトラックがぎっしり詰まっていた通りは、人々がゆっくり歩いている。あらー蕎麦屋もなくなっている、ロイヤルミルクていがおいしかった喫茶店も消えていた。
マンションが増えたので、廃校寸前だった小学校や、子供児童公園は子供たちが駆け回っていて明るい
盗賊の親分が切り開いた富沢町も軒並み繊維問屋の看板は下ろされている
問屋トンビをしていた時の様子とはもうがらりと変わっている。時代なのだなあ
そんなこと「かうひいや」の店主と話しながら、チーズケーキごちそうになりご機嫌
今渋谷も新宿も様変わりの最中、東京は変わっていくから魅力があるのだという人もいる。変わらないものと変わっていくものそういうことが一緒くたになって流されていくのが都会なんだと
そういう中で日本橋小学校の子供たちが飼育した蚕の様子や、製糸された糸を眺めてかわらない生糸の美しさは、どの時代の人間にも感動を与えるのだと知る。幾世紀にもわたって人に感動を与えられるものは、やはり大切にしていかなければいけないなあと思う
繊維問屋は少なくなったけど、この地が栄えた骨幹が生糸だということ、この土地はちゃんとそれを覚えているんだな、と感慨j深い
ごく当たり前で誰もが口にする言葉「ありがとう」
この「ありがとう」を自分の歳の1万倍いうことで運が開けてくるとか、毎日100回は唱えようとか言うことが大流行した時代がある
またそれを実行して大いに繁栄した方もいらっしゃる
しかしーーだ
このありがとうという言葉は戦前の修身という教科書に必ず載っていた言葉だ
だから誰もが「ありがとう」と言っていた「ありがとう」と「ごめんなさい」はセットでもあった
この教科書が墨でつぶされたり、禁書になったり、焚書になったのは、日本人から「ありがとう」の気持ちを滅する必要があったのであろうか
最近焚書になった本の復刊がはじまり、チャ子ちゃん先生も少しずつ手に入れて読んでいるが、その焚書の意味が解らないと思うほど「日常のこと」「あたりまえのこと」が禁じられている
その中でこの「ありがとう」の言葉が禁止されるのは、日本人のごく当たり前の心構えをなきものにしようと思ったのだとわかる
「ありがとう」を言えば運気が上がる、願望が叶うと、まるで犬にお手をすれば餌をあげるといった形で「ありがとう」を復活させているが、日本人そのものが、対価がないとやらないという民族に教育しなおされたのだろか
復刊された修身の教科書を読んでいると、男の役目、女の役目それぞれに違いがあるけど、人間性において平等であるとははっきりりかかれていて、そう教育されていた。だから家庭が整っていたのだろう。そこにお互いの信頼が生まれる教育だったのだ。それがいけないと禁書にされている。なぜ?
たいしたことないと思っていることが、他の国では大変重みのある事でもあるらしい。ということは当たり前に感謝し、愛を持つという日本の教育は、世界で最も文化的だったということだろう
そうすると自分の命はもちろん、人の命も大事にする、その延長戦で衣食住にかかわるすべての命を大事にする、そういう志向が許されないということだ。常に争いをけしかける民族からしてみれば、平和主義の日本人はこの地球に生きていてほしくないのであろう
その罠にまんまとはまってはいけない。
というわけでいま「比佐子塾」を開いている。明日が今年最後の講義
壁にぶち当たったら、その壁を壊そうとするのではなく、上に登ってみると自分の状態がよくわかる
自分自身を俯瞰するということを訓練する必要があるとつくづく思う
自分の行動を誰かが必ず見ている、その誰かは自分自身そして見えない方、それを私たち先人は「おてんとうさま」と呼んでいた
そのおてんとうさまは私たちの潜在意識とつながっている
しかし私たちは頭と心がいつも違うことを考えている
心で思うことを頭が否定する
頭は外からの刷り込みを受けてそちらに従おうとしている
心は宇宙の指示につまりそこに神の存在があるのだが、そちらを否定する頭が優先する
人の意見、テレビ、新聞、権威者の言葉これらを頭は信頼する
しかし「なんか違う」と思う心を封じ込めてしまう
私たちはこの作業を長年やってきたというよりやらされてきた
きものの着方を見ているとそれがはっきりする
襟元をきれいにするのはこのゴムのベルト、そしてのの中にプラスチックを入れると胸モノとはすっきりする。と思いこまされている。だからほとんどの人がそれを使う
きものは寸胴がいい、だからウエストにバスタオルを巻くと思いこまされている
きものも下着も洋服と同じその人に合わせる寸法がある、それをしっかり把握して仕立てれば余分なものは全くいらない
頭で理解しようとするから、自分の体の在り方がわからなくなる
きものに限らず
すべての動作の中で頭で考えたことを行動に移す、心が思ったかとを頭が否定するということが行われていると思う
何か変
何か受け入れられない
この話どこか変
そんな思いがわいてきたら、今自分はどういう立場に立っているのかを俯瞰してみるとまず間違わない道が見えてくる
今日は「チャコちゅうぶ」20時から
12月9日は岡谷市で「日本絹文化フオーラム」の基調講演を仰せつかった
「きものという農業」が演題で、そのあと若手養蚕農家の三社とのトークショーの司会もすることに
ところが予定していたお一人が急遽インフルエンザのために欠席、二人の養蚕農家とのトークショーになった
お一人は150年続いた養蚕農家の後継者の「アシザワ養蚕」の芦澤洋平【36歳)さん、もうお一人は養蚕をゼロから始めた「トヨ衣の里プロジェクト代表」の大林優子さん【43歳)
チャ子ちゃん先生は産地取材から、個人取材を続けていくうち、きものは美しい、きものの着方は、きものの種類は、きもののコーデイネートはーーというきものの表面の問題から気持ちが離れてしまい、きものの本当の生まれ育った場所に根を下ろしてみた
そうしたらきものの素材つくり、きものの地色つくり、着物の柄の誕生などすべてが「農業」つまり「大地」に行きついたのだ
大地を愛する私たちの先人たちが、最も美しい着物という衣類を表現の場にしたのだとわかった。その担い手が蚕の吐く糸であり、苧麻や大麻の繊維であり、木綿や樹皮や蔓の繊維である
それは自然からいただくもので、自然に感謝しながらモノづくりを進めたのは私たちの先人たちが遺してくれた智慧の塊
ただただ自然にいただいたものを、大切に無理なく別の形に生き返らせるということから、それがだんだんビジネスというどうしたら儲かるかという経済原理にはまってきたとき、本来のきものは死んで、蚕やその他の植物の存在も消され、大量生産のできる「石油繊維」のものがもてはやされ、大量で機械化されれば物は安くなり、着捨てでいつもあたらしいものに飛びつく「流行」も華やかになり、人は次から次へとものを増やしていった。「断捨離」という言葉行為がつい最近まで流行っていた
そういう中で「消えゆくモノづくり」に警鐘を鳴らし始めた人たちが、本来の日本のモノづくりの基本を学び始めた
今回のトークショーでは、一人で養蚕をはじめ、自分で糸を取ってその土地の織りの技術を絶やさないように生き始めた方もいらした。また自分もこれから養蚕をやろうと思っている、また農業を始めた。という30代の方々も観衆で会場に座っていて、熱い質問で会場は熱気に満ちた