◎裁判所が道徳を壊すと指摘していますね 元裁判官 井上 薫さん(52)
東京大学理学部化学科卒、同大学院化学専門 修士課程修了の異色の裁判官だった。司法試 験には2年間の独学で合格したという。 東京都八王子市在住
「代金は支払う」「借金は返す」。これは法律というより、社会の常識だ ろう。だが、今の世の中、学校の給食費や保育料を払わない親が大 勢いる。文部科学省の調査では、全国の給食費未納額は二十二億 円以上。払えるのに払わないケ-スが6割もあった。井上さんは、こう した「道徳心の欠如」の原因の一端が裁判にあるという。「債務の支 払い能力があるのに、支払わなくてもいい制度がある。破産法による 破産免責制度です」司法統計では、自己破産などによる免責の申し 立て件数は、1975年まで年間60件未満だった。それが80年代以降、 急激に増え続け、2002年には20万件を超えた。05年には、その99 %が免責を許可された。一軒当たりの債務は500万円、総額一兆円 を超すという。破産免責というと、「サラ金地獄」が社会問題になったこ ろ、貧しい債務者を救う「弱者救済」のイメ-ジが出来上がったが、「実 際は違う」という。「借金を帳消しにした上で、その後の収入は手に入 るので、高所得者に有利な制度なのです」。女性関係で散在した医師 が破産免責後、二千万円の年収を得ていた事例もあったそう。 破産法には「浪費や賭博」など、免責を不許可にできる事由が挙げら れているが、ほとんど顧みられないという。「裁判官は前例尊重の意識 が強い。許可が慣例になると、自分も従う。考えないんです。その方が 楽だから」「正義の府」の裁判所のお墨付きを得て、借金の踏み倒しは 不道徳ではなくなった。「こんな風潮なら、正直に借金を返すのがばか ばかしくなるのでしょう」井上さんの指摘は、頻発する「親殺し」にも及 ぶ。1973年、最高裁は、厳罰を定めた刑法の「尊属殺人罪」は、「平 等原則に反した違憲」とする判決を出した。尊属とは父母や祖父母の こと。親への敬愛や報恩という道徳に基づく規定だった。「この事件で は、殺された父親が反倫理的だった。このケ-スに限って普通殺人罪 を適用すべきで、尊属殺人罪を否定する必要はなかった」。これ以降、 司法では尊属殺人罪は適用されず死文と化し、95年には条文が削除 された。「この違憲判決で、報恩の道徳は否定された。実務への影響 は大きく、少年事件で裁判官も言わなくなった。親殺しへの歯止めが 失われたと思います。」井上さんは、横浜地裁時代に「判決文が短すぎ る」との理由で再任を拒否され、昨年4月に退任した。短い判決文には 理由があった。「判決主文に影響を与えない判決理由は蛇足であり、 違法。書くべきではない」との主張だ。これを「蛇足理論」と名付け、実 践した。「審理が長引き、被害者の救済が遅れるのも蛇足判決の弊害」 という。退任後も司法批判を展開、9月に「裁判所が道徳を破壊する」を 出した。
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道徳破壊の最たるものとして井上さんは、昨年9月の東京地裁判決を挙 げる。「入学式や卒業式での日の丸・君が代の強制は違憲」とし、学校の 教職員に国旗掲揚の際の起立や国歌斉唱の義務はないとした判決だ。 この判決には、「思想・良心の自由」などの評価をめぐって賛否があった。 井上さんは「教職員の国旗国歌の拒否は、生徒らの拒否をあおる恐れが ある。判決は結論も理由付けも間違っている」と批判。「国旗国歌に礼儀 ある態度で接するのは社会常識なのに、尻を向けてもかまわないと言っ ているようなもの」と、判決の大きさを指摘した。
あとがき
井上さんは2005年に「司法のしゃべりすぎ」を出版、現役裁判官 の司法批判として話題ににった。退任後も著述に専念し、新書を中 心に既に六冊執筆。九月には東京弁護士会に登録し、徐徐に弁護 士活動も始めるという。強い意志の人でありながら、人柄は温厚そ のものに見えた。
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