祖父は国鉄に勤め、関西圏内の転勤族だった。
祖母は、母が幼いうちに亡くなった。
母には3人の姉がいるが、最も親密だったのが一番上の姉で、多分彼女が母にとっては母親代わりだったのかもしれない。
そして、この写真の人達が、母の人生を決定づける。
前列左二人が三番目の姉夫婦で、中国に渡り洋品店を営むようになる。
前列右二人が一番目の姉夫婦で、夫は大阪の落語家だったが、のちに離婚し、一番目の姉も中国の青島でレストランを営むようになる。
後ろの海軍の軍服姿の男性は、二番目の姉の夫で、潜水艦に乗っていて戦死された。
母は、三番目の姉夫婦が営む洋品店を手伝うため中国に渡り、一番目の姉のレストランでよく食事をしていた。
そのレストランの常連客が父だった。
母が18歳。父が28歳だった。
父が撮った当時の母の写真。
父は憲兵で、中国内での諜報活動を任務としていた。
中国人と信頼関係を築いて人脈を作り、情報収集するのが仕事だった。
その人脈があったおかげで、敗戦後スムーズに帰国できている。
そのまま中国に残ることを勧めた中国人もいたという。
日本国内だったら、デートをするのも憚られたかもしれない。
もっと髭が長い馬賊の族長と一緒の写真を見た記憶があるが、今はそれがどこにあるかはわからない。
髭が立派だというので馬賊から「毛大人」と呼ばれていたと自慢そうに父が語っていた。
母が好んでいたと思われる父の写真。
この写真の裏には、母の字で、「チョット色は黒いが まー 我慢するさ 此の写真を見て友人?氏はアメリカのギャングみたいだとオッシャイマシタ」と書かれている。
終戦後復員した父と結婚。
父の故郷であり、母にとっては未知の土地、福岡に嫁ぐ。
父の親戚一同への母の披露。
この時点では、母は大阪弁しかしゃべれなかったに違いない。
しかし、僕が知っている母は完全に博多弁だった。
本家は博多織工場を経営しており、父と母は工場の一角に住むことになって、新婚生活をスタートした。
僕が物心ついた時は、まわりは博多織の反物や帯だらけだった。
父は憲兵だったので就職が難しかったらしく、博多織が我が家の生業となっていた。
対外的には人への気配りを忘れることのない優しい母だった。
内面的には勝ち気でへこたれないのが母のキャラクターだった。
僕は親に叱られたことがなく、進学、進路について親に相談したことがない。
自由放任で育ったが、逆に、それを許してくれている親への責任感があった。
だからこそちゃんとしないといけないと。
東京の私立大学に合格したのでそこに行きたいと母に言った時、国立大学にも合格していたので家計的にはそちらを望んでいたのかもしれないが、何も言わず了解してくれた。
それで、その後の僕の人生が決まった。
年老いて歩行ができなくなり、食事、排泄、着替え、入浴などすべて人の介護を受けなければならない状態になってもなお、布が手に触れると必ず始める母の動作があった。
博多帯や佐賀錦の帯締めを仕立てる動作だ。
長年やってきたので脳裏と指に染みついているらしい。
母は、仕事をやめてからは、多分10回は海外旅行に行っている。
ブッダの足跡を辿るとか言って、インドの田舎に旅行に出かけた時は、年寄りがそんなところに行ったら水でお腹をこわすと友人に言われて心配したが、ケロリとした様子で帰ってきた。
東京で仕事する僕のところにも孫の顔を見に時々やってきて、一緒にディーズニーランドなどに行ったりもした。
そんな母が98歳の人生を終えた。
老いた母は、たくさんのアルバムのなかから自分の好きな写真を剥ぎ取って紙袋にしまっていた。
その紙袋の、長いこと見ることもなかった父と母の古い写真を見ていると、僕が知らない遠い昔の両親のことが想起され、感慨深い思いが湧いてくる。
モノクロ写真ならではの、心に訴えるものがある。
36年前に他界した父の写真が多かったのが意外だった。
夫婦仲はあまり良くないと思っていたが、違ったようだ。
約一か月半ぶりに写真を撮りに出かけた。
でも、いまいち意欲が湧いてこない。
いつも大量の汗をかくので、タオルを持っていこうと思っていたのに忘れた。
いつも蚊に刺されるので、携帯の虫除けを持っていこうと思っていたのに忘れた。
やっぱり、汗でハンカチがびしょびしょになり、四ヶ所蚊に刺された。
近所の居酒屋さんの前を通るたびにつくづく大変だなあと思う。
もう一年以上、張り紙を貼ったりはがしたり書き換えたりを繰り返している。
これは緊急事態宣言を受けての張り紙。
5月11日まで休業の張り紙をしていたが、緊急事態宣言により5月31日まで休業を延長。
張り付けたガムテープの四隅がきれいに整えられているのは店主のきちんとした性格を思わせる。
緊急事態宣言の延長で、張り紙が書き換えられた。
今回はガムテープの四隅がはみだしたままで、「もうやってられねえ。うんざり」の気持ちがにじみでている。
4月26日に皿山公園につつじを撮りに行って以来、1ヶ月以上も写真を撮りに行っていない。
いつのまにか紫陽花が見頃になっている。
蛍の時期でもあるが、中の島公園も牛頸ダムも去年同様、駐車場閉鎖等で蛍鑑賞不可となっている。
そろそろカワセミの雛が巣立っている頃だが、那珂川のX、Y、Z各地点のどこかに来てほしい。
歩行者や自転車はほとんどの人がマスクをしているが、ランナーのほとんどはマスクをしていない。
冬場はランナーもほとんどの人がマスクをしていたが、気温の上昇とともに、限りなく100%近くランナーはマスクをしていない。
発熱もなく健康に異常がないから走っているとは思うが、至近距離ですれ違ったり、後ろから追い越されたりするのは気味が悪い。
走っている時は通常時以上に多くの息を吐いているはずだ。
7月に予約しているワクチン接種が終われば、少しは閉塞感から解放されるのだろうか。
削除した記事の写真から
2008年2月 ハッセルブラッドを売って、初めてのデジタル一眼レフ EOS 5D (初代)を購入
裏磐梯 (2008年8月撮影)
この時泊まったペンションにハーレーで一人旅する若い女性がいた。
すごくカッコよかった。
浄土平付近で予期せぬ再会、こっちは車、向こうはハーレー、挨拶を交わしながらすれ違った。
五色沼
小野川湖朝焼け
文京シビックセンター展望ラウンジからの夜景(2008年12月撮影)
雲がなければ新宿新都心ビル群の向こうに富士山が見える。
三脚が使えないので夜景撮影はつらい。
福岡県の新型コロナ感染者は二桁台になり、ピークアウトしたようだ。