滋賀にいた頃、毎年7月から8月にかけて、週末になると通っていた滝がある。
陶器で有名な信楽の山中にある鶏鳴の滝。
初めて行った時は、地元の人ぐらいしか知らないような、ひっそりとした佇まいだった。
2回目だったか3回目だったか、滝の写真を撮るのにベストのアングルを探しながら滝の周辺を回っているうち、光芒が見える場所を発見した。
急な斜面の道なき道を下って川の流れに出たところ、普通に滝を見に来た人は絶対に来ないような場所だ。
滝の上部はこんもりと木々に覆われていて、滝が作り出す微細な水滴が霧のように漂うところに木漏れ日が差して光芒を作り出し、逆光がそれを美しく浮かびあがらせる。
光芒は午前8時45分ぐらいから出現する。
木漏れ日が差す場所が、時間が経つにつれ、下流から上流に移っていき、滝のところに来た時から光芒が始まる。
そんな早朝に信楽の山中の滝にやってくる人もいないので、カラオケ大好き人間としては、好きな曲を大きな声で歌いながら光芒が出るまでの時間をつぶしていた。
定位置と決めた岩の上に座り、三脚を岩の上にセットする。
お尻の下にはマットを敷く。
滝の音を聞きながら、誰もいないなかで滝と光芒の写真を独占的に撮影できていたのは最初の数年だっただろうか。
どういうわけか、突然、続々とカメラマンがやってくるようになった。
がっしりした大型三脚と長靴で、われこそ本格派といういでたちの人達。
光芒が撮影できる場所は一般の人は来ないような限られた場所なのに、あたかも知っているかのようにこちらにやってくる。
どうしてこの場所を知ったのかと聞くと、人に教えてもらったというのが大方の返事で、そもそもの発端はよくわからない。
カメラマンがやってくるようになると、いろんな人がくる。
「あんた、三脚使ってんなら、手振れ防止機能をオフにしとかないとブレるよ」と、聞きもしないのにベテランが初心者に教えるように、上から目線で言ってくる人。
「こちとら、中学生の時から自宅の暗室で現像・焼付・引伸ばしをやってきてんだぜ」とは言わずに、「はあ」と受け流す。
それはまだいい方で、本格派のベテラン風を吹かせ横柄で自己中心的な態度で不愉快にさせられたこともあった。
長靴も履かず、三脚は小型(とはいっても GITZO なのだが)なので、カメラマンとしては格下に見られたのかもしれない。
帰りに車のナンバーを見てみると、岐阜、三河、奈良、京都、神戸、大阪など遠くからの人がけっこういた。
地元の利を生かし早めに到着するようにしていたので、定位置を人に取られることはほとんどなかったが、たまに取られているとその日は諦めて引き返した。
滝の駐車場に至る直近の道は、対向車とはすれ違えない狭い道で、いつも「対向車よ、来るな」と念じながら運転していた。
その道は、台風や大雨で崩落し通行禁止になることもしばしばだった。
倒木が道を塞いでいたため途中で引き返したこともあった。
後方視界が悪いフェアレディZで、カーブが連続する狭い道を半クラッチでバックして戻るのは、けっこう疲れた。
光芒は、その時々で、出る角度、方向、場所、本数が変わり、まったく同じ出方をすることがない。
たいした光芒が出なかった時は欲求不満を溜めながら帰路につき、満足できる光芒が出た時は充足感に満たされながら帰路についた。
たくさんの光芒が出現し、滝の周りが光のシャワーで満ち溢れたことが数度あった。
何故かいずれもほかには誰もおらず、光の祭典の独り占めに至福のひとときを過ごしたものだ。
福岡に来てから、鶏鳴の滝のように光芒が出る滝を探した。
多分十ヶ所以上行ったと思うが、見つからなかった。
鶏鳴の滝の光芒がなつかしい。
あじさいの花は、雨上がりにたくさんの雫をつけ、淡い光に照らされてしっとりとした色合いの時が美しい。
かつては自宅の近くにあじさいの名所があったので、雨が止むとすぐに飛んで行ったものだ。
上、横、下・・・いろいろな角度から覗いて、絵になりそうな雫を探す。
一番の狙いは、雫の中にあじさいの花が映っている写真を撮ること。
そんな雫はなかなか見つからない。
雫のついた花を探しながら、同時にカタツムリも探す。
カタツムリもそうそういるものではない。
あじさいの花に水滴をつけるため噴霧器を持参している人がいた。
それよりすごいのは、カタツムリを持参している人がいたことだ。
今はもう雨上がりとか雫とかカタツムリとかあまりこだわりがなくなって、晴れた日に漫然と写真を撮っている。
トシじゃ。
そういえば、梅雨ってどこにいったんだ。