くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

日本民家集落博物館ボランティア日記

2015-10-19 14:55:02 | 行 事
わくわくワークまつり

日 時  10月24日(土) 10時~16時30分

入館料  大人 半額   高校生以下 無料




例年のことながら、秋の1日 江戸時代の古民家集落の野外博物館を

楽しんでくださいね




検索してね

日本民家集落博物館 http://www.occh.or.jp/minka/?s=event





徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之九拾

2015-10-14 20:12:09 | はらだおさむ氏コーナー

変わるもの、変わらぬもの


 先月三年ぶりに中国へ行ってきた。
 20余年前にその設立のお手伝いをした現地企業の社員旅行へのご招待。
 話では上海から北京へ行くという。
 北京は70年代のはじめの友好商社時代には、駐在員事務所もあり当時同業メーカーを集めて行われた北京商談でその接待も兼ねてひんぱんに往き来した。
 80年代以降は、対中投資諮詢の仕事に変わり、そのフィールドの中心が上海など長江下流地域になったため、北京は団体の視察旅行の往来で年1~2度。90年後半からは、西域などへのツアーの通過点としての北京になっていた。
 同社の社員旅行は工会(労働組合)と会社の、同額積立金による費用で二年に一度実施されているようだが、なぜか北京はこれまではその対象になっていなかったらしい。
 案内を受けて、一瞬北京か、と思ったが、上海からは新幹線で北京に向かうという。これには、まだ乗車したことがない。初物食いもいいところ、よろこんでこのご招待をお受けした。

 上海へは一日早く着いて、友人の案内で「表紙の写真」(『徒然中国』84号ご参照)の現場を案内していただいた。空は青く晴れ渡っていた、友人は日本から青空を持ってきてくれた、とわたしを持ち上げてくれたが、そのとき、台風18号は日本の関東北部を襲って、河川は氾濫、周辺の集落に甚大な被害をもたらしていた。そんなこととは露知らず、上海の友人と万博跡地の再開発の現場を視察、来春の関係者を誘っての訪中・視察旅程を相談していた。

翌日はいよいよ北京へ。
虹橋は20数年ぶりか、エアターミナルと新幹線(高速鉄道)に地下鉄が加わって、関空をしのぐ盛況ぶり。100名近い社員も勢ぞろいして、9時発のチェックインを待ちわびている。顔なじみの古参社員や役員と握手を交わし、近情を語り合う。
定刻に発車した列車は、南京に停車したのみ、ときには300キロを超える速度で午後2時には北京南駅に到着した。
上海~南京と天津~北京間には工場や集落は垣間見られたが、そのほかの区間はただ原野を走るのみ、いくつか建設中の小さな駅舎もあったがこれは64年に開通した日本の新幹線と同一視することはできない。名古屋から大阪まで一直線の計画路線が、大物政治家の選挙地盤に駅舎をつくり路線はカーブした。中国の政治家には、選挙地盤はない。あるのは、中央への忠誠心のみ。ただひたすら、北京へと一直線に列車は原野を走り続けていた。

出発前北京在住の友人からのメールによると、パレード効果の“青空”は今回は二日しか持たなかった由であったが、北京南駅の雑踏をかきわけてバスで天壇公園へ向かう徒次、空は立派に!晴れ渡っているではないか。それからの三泊四日の北京は、まさに“日々これ好日”の晴天が続いていた。
第二日目は天安門広場、故宮、そして王府井。64年の初訪中以来の知り尽くしたところではあるが、天安門へは前門近くから地下道へおりてパスポート(中国の人は身分証明書)チェックのあと広場へ。いろんな事件のあったところだから警備の厳しいのもわかるが、老人には階段の上り下りがつらい。
故宮はのっけからグループと離れて、みやげ物店併設の喫茶店で休息することにした。“文革”のころ、そこここの壁という壁に書きなぐられていたスローガンを思い浮かべながら、「故宮」はこの数十年をどう感じているだろうかと、つまらぬことを思いながら時間をつぶしていた。
第三日。ホテルは西駅近くの自称“四星”、ここでも人件費の高騰によるせいか、フロントは二人体制。サービス業の人減らしはどうなんだろうと思いつつ、バスは朝食の弁当を積み込んで一直線にハイウェイを北上する。午前は龍慶峡、午後は八達嶺とか。北京在住二〇年近い日本の友人も、この龍慶峡は知らなかったという。もちろん、わたしははじめてである。上海から随行の旅行社の女副社長は、近来売り出し中のリゾート地で、彼女も会議で一度だけ来たことがある由。二時間近く飛ばして、ここも北京市、の延慶県。江沢民先生揮毫の、大きな岩-「龍慶峡」がわれわれを出迎える。ネットでは、北の“桂林”だとか、三峡の渓谷だとかかまびすしいが、その「ホンモノ」を知っているものにはダム湖のひとつにすぎない。ゴンドラや歩く歩道に誘導され、船着場からライフジャケットを身に着けて、湖面を十数分一周する。深山渓谷の緑はあざやかだが、はてどうだろう・・・水資源の乏しい北方の、保養地か夏の会議地としてなら適地といえるか、どうか。
 バスは折り返して、八達嶺へ。
 その北側になるのだろうか、ゴンドラがその奥深く登っていくのには驚いた。
 北京五輪の前にできたらしいが、わたしはこれもパスして、土産物店をひやかして過ごしていた。下山してきたひとにいくつめの望楼まで行きましたかと尋ねると、登りの一方通行でひとつめの望楼から険しい崖道へと降ろされたと、ほうほうのてい、いやぁ、参りました、とのことであった。
 わたしは四十代のはじめには東峰の第三望楼まで攀じ登り、西峰は第二望楼まで行ったこともあるが、下りがタイヘンであった。いまは一方通行で第一望楼から、帰りは脇の崖道を下るとは・・・想像を絶する難コースではないか。
ゴンドラに惑わされてはならない、と記しておく。
 最終日の午前は頤和園であった。
 ここは六四年の冬と六五年の夏、いずれも取引公司の案内で訪れただけ、半世紀ぶりということになる。西太后の石の軍艦と回廊が記憶の底にあるが、いまは、はるか離れた地点から船に乗って行くという。バス二台の社員全員プラスほかの乗客、合わせて百数十人が乗り合わせて出航。狭い運河から、日清(甲午)戦争の軍費をつぎ込んで西太后の避暑地にと作られた、この人工の池(湖)へと繰り出す。湖上には、観光客満載のおなじような船があふれ、夏の行宮をめざして突き進む。回廊に描かれた絵や物語は、わたしの知るべしも無かったが、一人の30代の父親が子供にいろいろと解説しているのに、安堵の思いがした。この喧騒と人ごみのなかで耳にした父の話を、この少年がいつの日か思い出してくれることであろうと思いつつ・・・。

 先日風呂上りにつけたテレビドラマは、四日市市の工場廃水問題にかかわる実話にもとづいていた。わたしはうかつにも四日市の公害は大気汚染とのみ記憶していたが、それ以前にこの工場廃水問題もあったとは!
 漁場を奪われた漁船が越境することから、この話がはじまっていた。
 海上保安庁の取り締まりに抗議する漁民、われわれを逮捕する前に漁場を奪った―海へ工場廃水を垂れ流している、あの工場をどうしてくれるのだ!
 漁民の指摘に、問題の根源を思い知った海上保安庁の出先機関の課長とその部下が、その摘発と立件に立ち上がる。
 わたしの知る公害反対闘争ではない、一地方の行政マンとその部下たちの提起した裁判は、最高裁までもつれこむ。この間の二〇年、工場は世論に押されて、汚水対策の決着に追込まれる。初期対策の不備が首を絞めることになった。

 このテレビを見ながら、中国の空と日本の青い空のことを考えていた。
 ヘドロの川にアユが戻り、スモッグの空がいまの、吸い込まれるような青空に回復したのは、世論の力であり、それに呼応した企業の技術力であった。
 上海の蘇州河も、二十数年経って甦った。
 中国からPM2・5の大気汚染を追放して、青い空を取り戻すのは、いつになるのか。日本で出来たことが、中国で出来ないことはないであう。          
ひとびとは、ただひたすらそれを待ち望んでいる。
(2015年10月14日記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾九

2015-09-30 22:04:11 | はらだおさむ氏コーナー

かおを あらう


ひとは ものごころつくころから、朝に夕に顔を洗ってきている。
 水道の蛇口をひねり、流れ落ちる水に両手をさし出して二度、三度と顔をゆすぐ。
 こどものころ、二年近く農村で生活をしたことがある(戦時下の疎開)。
 そのころの農村には水道は無く、井戸から汲み出した水を桶にあけ、柄杓で金盥に少し取り出して顔を洗っていた。
 若いころからよく入院したが、おしぼりで顔をぬぐわれるつど、早く起き上がって水道の水で顔を洗いたいと思っていた。
 両手で水を受けて、その手を上下に動かして洗顔する、この行為(動作)は、万国共通と考えることも無くそう思い込んでいたのだが・・・。

 八九年五月 帰国する上海の友人を誘って香港経由で広東省の経済特区を視察したことがある。
 深圳・珠海・汕頭の視察を終え、広州の白雲飛行場(当時)から上海へ行くべしであったが、北京へ行こうとする学生たちを阻止するためか全フライトはキャンセルになり、近くの機場賓館(エアポートホテル)の大広間でごろ寝をすることになった。
 翌早朝 北京行き以外のフライトはテイクオフすることになり、洗面場は大混雑で長い列が連なっていた。わたしも友人とタオルを持ってその最後尾についた。洗面を終わったひとがわたしの横を通り過ぎて行く。何気なく見ていると、その人たちのタオルが濡れている・・・洗面して顔を拭くだけであんなに濡れるわけでもないのにと、前の方の人の洗面を見ていると・・・水道の蛇口の下にタオルを広げて、ボトボトになったタオルに顔を近づけ、前後に顔を動かしている。手は濡れたタオルの下で停止、顔の動きで拭うことしばし、やおら顔を上げ、タオルをしぼって顔をぬぐい・・・洗顔完了。タオルをもう一度水にぬらして絞り、選手交代、となる。わたしの番になり、隣の蛇口には友人が・・・ちらっと横目でうかがうと、かれもおなじようなしぐさで洗顔している。蛇口の下に両手を広げて洗顔し、乾いた手ぬぐいで顔をぬぐっているのは、わたしのみであった???
 荷物を担いで搭乗手続きを終えたころ、わたしは友人にこの洗顔光景の?を尋ねた。
 かれはなぜそんなことを聞くの?といわんばかりに、あれは“老百姓(ラオ・パイシン=庶民)”の習慣、かれも数年の下放時代で身についた、大勢のひとがいるときには、同じ動作をするのが中国人の“生活の智慧”だよ、とのたもうた。わたしは、中国人ではありませんよとばかり、九ちゃんの♪・・・態度でしめそうよ・・・♪としていたことになるのか・・・。

 この体験があたまの隅に凍りついたまま、数年が経った。
 あるとき、十数歳年長の大先輩のご指名で、大学の同窓会(咲耶会)支部の席で中国事情のお話しすることになった。わたしは中国語出身ではないが、縁があって対中投資諮詢の仕事で中国の各地を廻っていた。
 この日は、冷戦時代の企業疎開(第三線)で上海のミシン工場が秦の始皇帝陵近くの山裾に移転、西安地区で唯一の“上海語圏”が形成されていた~そのようなおはなしをさせていただいたように思う。
 ディナータイムの話題も“方言”がらみのお話も多かったようだが、大先輩は卒業後赴任された天津での体験から、方言習得も若ければねぇ~とのことであった。それよりもねぇ~、言葉よりも習慣、しぐさだよ。満蒙あたりで行方不明になった同学や後輩たちも、それで苦労したんじゃないかなぁと、おっしゃったのである。

 「言葉よりも習慣、しぐさだよ」
 ピンときたのは、いうでもない。
 顔を洗う、その日常的な動作でさえ、異なっていたのである。

 山なみの迫る渓谷のせせらぎで、ひげ面の男が両手で水を掬って顔をごしごしと洗っていた。対岸の林の合間からこの光景を見つめているふたりの便衣姿の男がいた。あれは・・・あれは、日本人だ!日本の間諜に違いない。
ふたりは見え隠れつつ、ひげ面の男のあとを追って行った・・・。


 盆が過ぎてもなお厳しい残暑のなか、箕面市間谷の大阪大学外国語学部内にある咲耶会事務局をたずねた。
 咲耶会は第一次世界大戦後の1922年に設立された大阪外国語学校(戦後は国立大阪外国語大学、そしていまは大阪大学外国語学部)の同窓会。
 その校歌はつぎのように歌う。
 ♪世界をこめし戦雲ようやく晴れて 東の空に暁けの明星ひとつ・・・♪

 事務局にある戦前(~1945)の同窓会名簿8冊(昭和七年~昭和十八年)には、発行年度は不定期ながら1期生からの消息(氏名、勤務先、現住所など)が記されている。
戦前最後の発行となる昭和18年度版で、昭和16年(第18期)の「支那語」「蒙古語」卒業生の動向を調べてみた。
昭和16年12月の繰上げ卒業となっている(同月8日には真珠湾攻撃)。
「支那語」卒業生は69名、「蒙古語」は16名、この卒業二年後の名簿を繰ると、早くも「支那語」35名、「蒙古語」12名が既に応召中で、その比率は合計で55%となる。「非応召」者でも、外地(「満州」「蒙古」「中華民国」「朝鮮・台湾」)居住者は「支那語」で19名(54%)、「蒙古語」は4名全員が外地在住である。
戦後の咲耶会同窓会名簿は昭和26年(1951)からはじまる。
昭和29年(1954)版で、前述の18期生の動向を調べてみた。
「中国語」部で消息不明者は18名(「蒙古語」部はわたしの調査漏れ)。消息不明者は即「行方不明者」(または物故者)とはいえず、2年後の1956年版で4名の方の消息(住所)記入を見つけたときはホッとした。この年「蒙古語」部はなぜか名簿記載が3名減少の上、さらに3名の方が消息不明となっている。
  最新版の同窓会名簿は、2013年の発行である。
  当該「中国語」部第18期卒業生の「住所不明者」13名のうち、それ以前に判明している方を除く6名の方は「居所不明」のままである。
  昭和18年当時、この6名のうち2人は日本在住で、3名は「満州」、そのうち2名は在満日系企業勤務、1名は在満行政機関からの現地応召、他の一名は「入隊中」とのみ記載されている。この6名の方が戦後も「消息」不明のまま、いまに至っているのである。これはあくまでも同窓会名簿のみによる「私的調査」であるが、戦後七十年のいま振り返ってみても実に大変な時代であった。

 「いつまでも謝り続けさせることはできない」とおっしゃるひとが、きょうも赤絨毯を闊歩されているのであろうが、「かおをあらって」出直して欲しいものである。

                         (2015年8月23日 記)

日本民家集落博物館ボランティア日記

2015-09-30 21:21:57 | 行 事
10月の行事


◆ 第16回 落語で笑ろうて民家


 
 ☆ 日 時  10月4日(日) 13時~15時

 ☆ ところ  大和十津川の民家

 ☆ 出演者  百楽の会



◆ こけし~YOSHIOコレクション

 塔博物館に寄贈いただいたこけし(芳尾コレクション)を展示いたします。


 ☆ 期  間  10月 3日(土)~ 10月25日(日)

 ☆ ところ  堂島の米蔵



◆ 陳国棟スケッチ紀行 

旅先で出会った日本の原風景



 ☆ 期  間   10月 3日(土)~ 10月12日(月・祝)
 
☆ ところ   日向椎葉の民家


☆  関連講座 『日本の船小屋』

   日  時   10月 3日(土) 14時~15時30分
   ところ   セミナーハウス
   講  演   陳国棟


 
◆ 茶室公開と茶会

 ☆ 日 時  10月 3日(土) 13:00 ~ 15:00

 ☆ ところ   北河内の茶室

 ☆ 費 用  お菓子代  300円

 ☆ 定 員   30名




◆  こま遊び

 ☆ 日 時  10月 3日~ 12月 5日までの各土曜日(雨天中止)

13:30 ~ 15:30
 
☆ ところ : 日向椎葉の民家前広場


◆ 石臼体験 

石臼で大豆をひいて、きなこを作ろう!!


 ☆ 日  時   10月 4日~ 12月13日までの各日曜日(第4・5週を除く)
         13:30 ~ 15:30

 ☆ ところ    石臼体験コーナー

☆ 材料費 100円


   
  

 ◆ 奄美・沖縄の島唄と踊り
   

  ☆ 日 時  10月12日(月・祝)14時~15時30分(雨天決行)

  ☆ ところ  小豆島の農村歌舞伎舞台
         (雨天の場合:椎葉の民家)
  ☆ 出 演  奄美・沖縄島うたユイゆい
   

  

◆ 体験教室 親子芋ほり体験
 
  博物館内の畑で育てたさつまいもを収穫しよう

 ☆ 日  時  10月18日(日) 10時30時 ~ 12時

  ☆ ところ  飛騨白川の民家裏の畑

  ☆ 定  員 親子20組 小雨決行

先着順。当日 9時30分より窓口にて受付


◆ はたおり体験


 ☆ 期 間 10月23日(金) ~ 10月25日(日)

 ☆ 時  間  10時30分 ~ 15時30分
 
☆ と こ ろ  南部の曲家

 ☆ 材 料 費  800円

  
 協  力 :セントポプリ(社会福祉法人豊中太陽会)



 
◆ わくわくワークまつり

  ☆ 日 時  10月24日(土) 10時 ~ 16時30分
 
  ☆ 入館料 :大人半額 ・ 高校生以下無料







 
 



 


 












日本民家集落博物館ボランティア日記

2015-09-15 22:29:04 | 行 事
  



◆ 秋の敬老フェア

  期 間  9月20日(日)・21日(月)・22日(火・祝)
  
  入館料  500円 (通常500円)

  年 齢  65才以上の方


  期  間 : 9月20日(日)・21日(月・祝)・22日(火・祝)
 入館料 : 65歳以上の方 250円(通常 500円)


◆ 宮沢賢治の童話がたり  朗読とチェロの夕べ

  日 時  9月22日(火・祝) 17時30分~18時30分
  ところ  日向椎葉の民家
  朗 読  星野 祐美子(希望郷いわて文化大使)
  チェロ  三宅 かおり
  協 力  岩手県大阪事務所
   (当日は19時まで開館時間を延長)


◆ お茶会    

  日 時  9月19日 13時~15時
  ところ  北河内の茶室
  費 用  300円(茶・菓子代)
       (30人まで)


◆ こま遊び  

  日 時  9月26日までの各土曜日(雨天中止)
  ところ  日向椎葉の民家広場

 

◆ 石臼体験   

  日 時  9月19日(土) 13時30分~15時30分
  ところ  石臼体験コーナー
  材料費  100円





お問合せ  📞 06-6862-3137









 

日本民家集落博物館ボランティア日記

2015-08-14 12:43:33 | 今週の館内
 


  お盆飾り(日向椎葉の民家)            
    
 
(椎葉村ではお盆の時期に家の外庭に「精霊棚」を飾ります。お盆になると家の
ご先祖様が家に帰ってこられると言い伝えられています
帰ってこられたご先祖様はまず、精霊棚で一休みして、それから家屋の中に
ってこられると信じられていました
8月14日から16日まで、お仏壇には毎日、毎回違うお供えのご馳走が並べられます
16日には、送り火を焚き、精霊さまを送り出します)
 この展示は、8月12日から15日まで展示いたします



  先週に続いてカヤ体験 イタリアからの来館者 

     Buona sensibilita(気持ちいい)
   

  イギリスから幼稚園の英語の先生として2年間来日中の来館者
  折り紙に夢中
   


  沖縄朝顔
   

  ゴマの花と実がなり始めた
   

  桔梗の花
      

  棉の花
   

  キバナコスモス
   


  久しぶりに涼しさを体感しながら囲炉裏に火を入れた

日本民家集落博物館

2015-08-06 16:20:33 | 今週の館内



暑い  あつい  あつい

蝉の鳴き声に、元気をもらい久しぶりのボランティア

バーべキュ-組の方やスケッチ組の方、フランスからのファミリィー

椎葉の民家では蚊帳がはられていて、なつかしい


 

蚊帳の中から外を見る
 


はいりま~す  いい気持                                         
 
(モデルはボランティアさん)



フランス・リヨンからの親子さん


館内では

ゴマの花が咲いていた


ギボウシもコリウス元気
  

ヤマユリ(谷間の百合って、これかな?)



梅干しの土用干し




仲代達也氏・桜庭ななみ氏のサイン
(なんでも、こんどここで撮影があるそうで、打ち合わせに来られたそうです)
  


ボランティア終了時の13時ごろには、ヒグラシの声も聞こえた

オランダ・デンマークに行ってきました

2015-08-03 21:48:51 | オランダ 


7月23日から29日まで
オランダ・ベルギーに旅した

一昨年ポルトガルに行った折、次はオランダへ行こうと決めていたが・・・・・
オランダやベルギーの旅行者に季節はいつかいいかと聞くと
ほとんどの旅人が7月から9月ごろがいいとのこと

昨年は9月がクロアチア・スロベニアだったので、今年になった


◇ 関西国際空港から12時間トラブルなく快適に到着


関西国際空港 KLM航空にて出発


アムステルダムのスチポール空港


◇ 気温は21度くらい 快晴のオランダだったが、天候は変わりやすい

空港から91キロバスで移動
世界遺産のキンデルダイクの風車群へ

◇ こころよい風の中を、のんびりと歩いて風車を見て歩く
  当日は、風車は回っていなかった
  オランダは山はなく平地と運河の国
  









◇ 咸臨丸を制作した造船会社「IHC」
  勝 海舟や海援隊の話を思い出しながらオランダのこの会社で咸臨丸は
作られたのだとはじめて知った!!




そして94キロほどの移動でアントワープ(ベルギー)へ   泊

台風が過ぎ、暑い日が到来

2015-07-20 15:08:49 | 四季おりおり
7月の後半から旅に出かけるので、日々の行事予定を振り分けて消化している
台風がわが地域ではこともなく過ぎ去ったので、やれやれと思う間もなくこの猛暑
主人が旅を目前にして、体調がすぐれない様子(要注意)

といいながら、私は私のモットーである「目前のことに最善を尽くす」を実践
なんのことはない 計画的に動けず、言い訳したくなく、泥縄状態
さて 蝉が鳴き始めたと思っていたらもう7月の後半

思い出の絵日記


日本民家集落博物館の椎葉民家

 
囲炉裏端でボランティアさんたちが竹すのこ作成中

 
スウェーデンからの来館者 親子さん
スカンセン野外博物館の話を楽しんだ




北河内の茶会



桂篭に秋海棠の花


サンフランシスコから母娘さんと彼


仲良し3兄弟

 
ウクライナとリトアニアから仕事と観光を兼ねて大阪・京都を1か月滞在中のモデルさん


 
鬼百合の花とゴマ畑


我が家では



頂き物の 白ゴーヤとズッキーニ(おいしく食べました)


立ち寄った阪急デパートで文楽イベント


地蔵さんに日陰のアジサイをお供え

元気に夏を楽しもう!!

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾八

2015-07-08 18:59:34 | はらだおさむ氏コーナー
孟母三遷


 もうネクタイをしなくなって久しいが、夏になるとときおりループタイをつけるときがある。いずれも中国の旅で気まぐれに手にしたものである。
 80年代にはじめて杭州へ旅したとき、土産店で手にしたループタイは、陶器の破片がモチーフになっていた。手にとって眺めていると店主が、紅衛兵が壊さなかったらいい文化財であったのにとつぶやいた。由緒はわからないが、それを身に着けて天津に行くと、友諠商店の店員がわたしのループタイを譲ってくれという。買値よりかなりよい値を口にしたが、それはもうダメ、なんだか首に巻くのも恐れ入って、これは仕舞い込んだまま。
 それからは、シルクロードや各地の山村でいくつかの工芸品のようなものを手にしたが、それは旅の気まぐれ、ほとぼりが冷めると使うことも忘れる。そのなかでこのところ愛用しているのが、艶のある木切れに紐を通しただけのシンプルなこれ・・・。そう、あの旅先で手にしたものである。

 2007年9月、山東省の青洲・泰山・曲阜のたびに出た。
 70年代後半は輸入商談で青島へはよく出かけていたが、いずれも列車のたび。北京から夜行列車でススまみれになって到着した青島の夜明け、青島から済南経由の夜行列車で南京に向かう軟座での中国人老学者との出会いなど、この沿線の車中の思い出はつきないが、車窓から眺める泰山や曲阜にはとうとう訪れる機会がなかった。
 今回の旅は古美術に詳しいSさんのアイデアに便乗した企画であったが、5月に施術した左大腿部患部の病理検査の結果が悪性腫瘍であったことから、その催行に戸惑いを覚えた。すでに参加メンバーは確定しており、旅の手配も進められていた。旅行社とSさんの了解をとり、不参加もありと8月はじめにその摘出手術をうけた。梅原猛先生の『三度目のガンよ 来るならごゆるりと』(光文社)の心境であった。当然とはいえ、局部麻酔では手術室の音声が耳に入る。これまでの経験から、ヘッドホーンで加古隆のCDを聴くことにした。枕元の麻酔医にお願いして2クール目までCDをかけなおしてもらったが、術後病室を訪れた担当医のはなしでは、患部を深く切除したのでその縫合に時間がかかったとか・・・。
 退院後一月たらずの今回の旅は、杖を突いての参加とあいなった。

 秦の始皇帝のひそみにならって、そののち即位した各皇帝はこの泰山に登攀、東海から昇るご来光に五穀豊穣と国家安泰を祈願したと伝えられているが、江沢民もその絶頂期には二日間観光客をシャットアウトして登頂、そのご利益がいまも残っているのであろうか。
 中国の善男善女は海外組も含め、七千余の階段をよじ登ってごりやく(利益)にあずかろうとするが、一般の観光客は高い料金を払ってロープウエイで展望台の下まで上る。
 わたしもそこまで。
 メンバーが展望台から降りてくるまでの小一時間、絵葉書売りの少女(地元の女子大生であったが)のお手伝いをして過ごした。“重きこと 泰山の如し”にあらず、“軽きこと 胡蝶のごとし”であった。

 その翌日からの、「曲阜三孔」観光は、杖を突きつきのわたしには苦行難行のコースであった。
 シンガポール建国の父、故リー・クワンユーは「中国の汚職や腐敗の根源は、文革時代に起きた正常な道徳的基準の破壊である」と指摘しているが、このところの「道徳教育」の復活で、それは是正されるのであろうか。
 孔子の復活は、中国国内にとどまらず、世界の各地にも孔子学院の設立・普及で拍車がかかっているようだが、その“本山”ともいうべきこの孔廟、孔府、孔林の建物の階段や敷居などにはギブアップした。わたしにとっては、世界遺産よ~さようなら。最後は入り口に座り込んで、巷の光景に目をやっていた。

 ことのついでにと、孟子廟へ行こうということにあいなった。
 クルマで40分ほど、地図でみると南下したことになるが、鄙びた街なかの左手に砂塵でけぶった太陽がぼんやりと浮かんでいたような気がする。
 孟子廟には、人っ子ひとり見かけなかった。
 うっそうと茂った木立には、スズメや野鳥が喉を競い合い、リス?のような小動物が駆けていた。
 夜来の雨で水はけも悪く、わたしは奥の廟まで足を運ぶのをパスして、道に面した小屋で休むことにした。少女がわたしに椅子をすすめてくれた。薄よごれたショウケースには黄ばんだ冊子がならび、その横にいくつかの商品があった。いま愛用しているループタイはここで手にしたもの。三つの小さな穴は、目と口であろうか、じっと眺めていると孟子の慈母のような気がしてきた。

 孟子の母は、その育児中に三度も引越しをしている。
 はじめは墓地の近くであったが、葬式のまねばかりするので市場の近くへ
引っ越した。すると今度は商売のまねばかりして遊ぶので今度は学校の近くへ。すると孟子は生徒のまねをして本を読んだり、文を書いたりして勉強するようになったという。孟母三遷の由来である。
 これは現在でも幼児心理学的に立証されているという。
子供の人格形成は、数歳までの環境に負うことが多い、とか。

 わが一生を省みて、どうだろうか・・・。
 わたしは尼崎の寺町筋で生をうけ、小学校一年(この学年から国民学校となるが)の二学期までここで過ごした。この町筋で小商売をしていた家の五人兄弟姉妹(末弟はその三年後に誕生)のちょうど真ん中。五歳上の兄の入賞作「父上出征中」の墨書が部屋にあったから、父は不在であったのだろう。
お寺の墓地で遊んでいて住職に叱られた記憶がある。小学生になってお小遣いを毎月五十銭もらい、自分で『少年倶楽部』などを買い、映画館へひとりで出かけていた(母は妹たちの子育てや店の商いで“てんてこ舞い”であったのだろう)。
 小一の三学期に店をたたみ、国道の北の長屋に引越ししている。
父は除隊して、勤めていた。
 小四の七月、いまは神戸市北区になっている農村にひとりで縁故疎開。
十月ごろ、母は姉・妹ふたりと生後半年ほどの弟を引き連れて来て、農家の納屋を借りての生活が始まった。父はまた戦地へ、兄は関東の兵学校へ行き・・・わたしは“ほしがりません 勝つまでは”と、田舎の子のいじめに耐え、読む本もないので兄の中学の教科書を手にして、小泉八雲の怪談に慄いたりしていた。

 いま わが国の偉い人は、崇敬するおじいちゃんの話ばかり聞いて、少年時代をすごされていたのであろうかと、ふと思う昨今である。
                 (2015年7月6日 記)