くに楽

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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく)(番外)

2012-10-05 16:29:49 | はらだおさむ氏コーナー

                 
四字熟語      


 深夜 NHKスペシャル「北京の五日間-こうして中国は日本と握手したー」(2時間)を見た。懐かしいシーンの数々、そして、あぁ、このひとも、このひともお元気であったかと日中間の交流で遭遇したひとたちの証言を聞いて、日本も中国も、この四十年前の日中国交正常化にいたる歴史から学ぶべきことが多々あると思った。

 そのひとつが「四字熟語」にからむおはなし。
 当時の中国はまだ文革のさなかで、「アメリカ帝国主義」「ソ連修正主義」「日本軍国主義」「インド拡張主義?」に囲まれた「四面楚歌」の状況下にあった。国内でも紅衛兵たちを巻き込んだ「純粋無垢」なものから、日々権力闘争に明け暮れる状況が続くようになり、経済活動は低迷、市民生活にも影響を及ぼす、まさに「内憂外患」の状況になってきていた。
 いかにして、この苦境から脱却できるか。
 毛沢東の諮問に答えて編み出されたのが、「遠交近攻」の外交方針。
ベトナムでは一戦を交えているがその停戦処理で苦境に陥っているアメリカと、その同盟国である日本と手を結ぶことはできないか。
キッシンジャーの電撃的な中国訪問にはどういう手引きがあったか知らないが、おそらく孫文のころからの人脈につながる海外華僑などのルートが活用されたのかもしれない。そして、「ニクソン訪中」で日本を揺さぶる。

わたしは岸内閣がひきおこした「長崎国旗事件」(1958年)で中断した日中友好貿易に、その前年から参画していた。事件のあったとき、「日本商品展覧会」武漢会場から急遽帰国された森井庄内展覧団副団長のおはなしをいまでも忘れることができない。まだ日本の敗戦から十数年しか経っていない当時、会場でへんぽんとひるがえる「日章旗」を見て、悔しさと憎しみにあふれる人たちによる不測の事故を避けるため、解放軍の兵士がこの「日章旗」を護り続けてくれていたという。それに比べて、わが岸内閣は・・・、このあと数年の中断はその後のわたしの人生の最大の教訓となって、今日に至る。
いま中国の“憤青”たちが大使の車から国旗を奪ったり、抗議行動でそれに火をかけ足蹴にするのはどうしたわけか。ひとりっ子の「愛国無罪」は、中国でも認められない行動である。

この「四面楚歌」、「内憂外患」は89年にも再来する。
「6.4」のあと、中国は西側諸国から「経済封鎖」され、江沢民政権は「内憂」に対して「愛国教育」、「外患」についてはその一番弱い環の日本を狙い撃ちにして「改革開放」を宣伝、わたしもその旗振りを務めて「浦東開発」に邁進した。
この番組で中国の証言者は、中国の改革開放と経済発展に日本が大いに貢献してくれたことを語り、感謝のことばを述べている。わたしは「天皇訪中」の実現で前向きの日中関係が実現するものと期待したが、それは甘かった。日本でも会津の人がいまだに長州に恨みの感情を隠そうとはせず、韓国は秀吉の「朝鮮征伐」を許さない。江戸幕府はその謝罪を含め朝鮮通信使の訪日を実現したが、「狷介固陋」な新井白石は財政難を口実にこの「友好交流」の道を閉ざしてしまう(中断)。加害者はすぐに己の非を忘れるが、被害者のこころの奥底にひそむ「怨」の炎はなかなか消えつきない。この道理を、どのように結わえあわすのか。

ふたつめは外交交渉のこと。
田中角栄総理の「ご迷惑発言」で交渉が難航したあのとき。
中国側は、それは加害者が被害者に謝る言葉かと広辞苑までひっぱりだして日本側を責める。田中は誠心誠意その謝罪の意思を中国側に説明して、中国の求める謝罪表現では
「日本に帰れない」と率直にその苦衷を述べる。最後はことばではない、こころである。毛沢東が「もうけんかはすみましたか」と幕引きを演じる。周恩来の演じた“外交術”がきわだつ。交渉決裂か、妥結か。とことんまで話し合うトップ会談が必要である。
 ウラジオストックで開催されたAPECのとき、野田総理は胡錦涛主席の発言をどのように受け止めたのか。なぜ国有化の契約を急ぐ必要があったのか。方針は変えることはできないとしても、その波紋は中国の方がはるかに大きい。その辺の根回しを含め、7月以降現在に至るまでの、水面下の交渉での食い違い、思い違いに外交交渉のまずさを覚える。

 1978年の「日中平和友好条約」締結交渉のときのこと。
 その第2条の、「覇権を確立しようとする他のいかなる国または国の集団による試みにも反対することを表明する」という表現、それは具体的には「ソ連修正主義」に対して、共同で反対することを求めるものであった。日本は二国間の条約に、第三国を対象とする表現を挿入するのはなじまないと締結交渉が長引いた。そのとき、中国はいまと同じように尖閣諸島を漁船軍団で取り囲み、自己の主張を強要した。文革が終わったばかりの中国は「無理難題」を押しつけてきたのであるが、小平の「再びこのような事件を起こすことはない」とのことばを信じて次の世代に問題を先送りしたのであった。そして、日本は第4条に、これは「第三国との関係に関する各条約国の立場に影響を及ぼすものではない」の文言を入れ、この条約の調印に合意したのである。
 以後尖閣周辺の漁業は「日中漁業協定」にのっとって、二年前まで比較的平穏に実施されてきていたのであった。
 
日本のざれうたに“嫌い嫌いも好きなうち”というフレーズがある。
世論調査でみる日本人の大多数の対中感情は好ましいものとはいえないが、それでも「一衣帯水」の両国は引越しのできない、重要な二国関係にあると認識している。しかし職務上のせいでもあろうが、TVでみる報道官のような感情むき出しの、強圧的な発言にはなじまない。いま日中の水面下で、まじめな対話と交渉が続けられているが、扇動はよくない。自己の主張を押し通すために、78年にやったとおなじように、いやそれ以上に民間の友好交流や経済交流にまで波紋を広げようとする強圧的な姿勢は決して好ましいこととはいえまい。
「無理を通せば道理引っ込む」とは、どの国でも、社会でもありえないことである。

いま、わたしは自分のこころによぎる思いをどのように表現すればいいのか、苦渋している。
「沈思黙考」、「隠忍自重」なのか、「切歯扼腕」なのか、そして、わたしの半生をかけた「日中友好」と「経済交流」とは一体なんであったのか、苦衷に浸る日々が続く。

                                (2012年9月25日 記)