クサい おはなし(1)
~ 尼崎町の「下屎訴状」事件(元文五年)をめぐって~
(一)
母方の大叔父に“尼崎の芭蕉さん”と呼ばれた人がいた。
蓬川(ヨモガワ)公園の橋の袂に句碑がある。
序の舞の まこと静けし 足袋きしむ 地朗
晩年請われて俳画も教え、白寿の祝いの席では妙齢?の着飾ったお弟子さんたちに囲まれてご満悦であった。
『尼崎市史』第三巻(P239)に「小学校の憶い出」と題した本人のスケッチが掲載されているが、そこには「琴城尋常小学校 明治二十九年卒業生」と記されている。
菩提寺の本興寺一乗院(寺町)にある先祖の墓には「売手屋 金兵衛」の銘があり、本人は句集「米寿」で「売金十三代目の御曹司」であったと、記している。
係累は不明であるが、この「売手屋」の屋号が『尼崎市史第二巻』(P572)に出てくる。
元文五年(1740)のこと、『尼崎地域史事典』の年表によるとつぎのような事件があった。
五月 摂津国村々には、干鰯値段高騰に際して大坂市中干鰯問屋・仲買の、新組・古組による干鰯買取の競り合い停止を大坂町奉行に出訴。
十一月 尼崎藩領三十二ヶ村は、城下下屎を藩領村々以外には汲みとらせないこと、城下屎問屋二人の新規企て停止を藩に出願。
この屎問屋のひとりが売手屋三郎右衛門であった。
『尼崎市史』にはそのいきさつの史料が収録されている(第六巻P38~40 西宮岡本俊二文書)。
尼崎藩領の、南野組・上之島組・神崎組・瓦林組三十二ヶ村の庄屋連印のこの訴状によると、「御城下東西町の下屎之儀」はこれまで毎年末に百姓が「請米相究町人衆と相対を以」「掃除仕来候」とこれまでの経緯を述べたあと、売手屋三郎右衛門と長兵衛の二人が他領の村々と馴れ合い「屎之とい屋と唱え」「御城下町々掃除我儘に仕候」と指摘、「新規之屎問屋弐人共」「急速御指留メ被為成下候」と訴えたのであった(元文五申年十一月)。
藩としては、領下三十二ヶ村(いまの灘から神崎川に至る地域)の全庄屋連印によるこの訴状をうけ早速事情聴取に及んだのであろう、十二月はじめには当事者二名から弁明書が提出されている。
初島由兵衛事長兵衛の申し開きはこのようになっている。
まず、肥商売を始めたのはきのう・きょうのことではない「八年以前丑年より肥商売仕候」と述べ、「新規之屎問屋」という訴状の言掛りにまずジャブを入れている。仲間は東町の売手屋三郎右衛門、「其節ハ他領在々へも売渡申候」とあっさり指摘された事実を認めている。しかし、それは昔のことである。四年前からは売手屋とは離れて年五石分ほどの肥は取り集めているが、そのほとんどは自分作の田畑に使い「残り少々初島作人之内ヘ売渡申候」と開き直り、いらぬお節介といわんばかりである。
別所町売手屋三郎右衛門の回答はもっと明快である。
まず五年前の冬から「東町七軒ニて屎を取」「此代米三石ニて御座候」と述べ、この七軒のリストを「別紙にて差上申候」(現存しない)としている。逃げ隠れもしない、正々堂々たる商売である事を強調、「右之屎取溜メ」「御当地下作人又ハ杭瀬・今福辺へ小売ニ仕候」(太字・下線はいずれも筆者)と、肥とい屋であることを自認するが「他領へ一切売不申候」と明言している。
この両者の言い分は、その後のいきさつを明らかにする史料がないので結末は不明である。問題はこの時期、なぜふたりが尼崎藩領の百姓たちの訴状(俎上ともいえるか)の対象になったのか、ということになる(つづく)。