ラ・メール(海)
とある早春の昼下がり、三宮の古書店で「アラゴン評論集」なる本が目に入った。ルイ・アラゴン、ピカソと同世代でシュールレアリストからコミュニストの道を歩んだフランスの詩人・小説家、わたしの本棚のどこかにも、学生時代手にしたかれの小説や詩集がしまいこまれているはずだ。
ドゴールのフランスが西側ではイギリスについで二番目に早く中国を承認した、その直後の64年2月、わたしは香港経由で、はじめて中国に向かっていた。広州で一泊のあと北京に向かうプロペラ機にはフランスの友好訪中団の男女二十数名と日本人のわたしひとりが乗り込んでいた。テイクオフしてしばらくすると、機内で「ラ ヤンズ」「ラ ヤンズ」の声が舞い上がった。下を覗き見ると、はてしなき水の流れ、これが揚子江(長江)かと思うが対岸が見えない。洪水のあとだろうか、「ラ・メール」「ラ・メール(海だ)」の声が高まる。そうだ、これはまさしく泥の海だ。なぜか、あたまのなかをシャンソンの「ラ・メール」のメロディがながれる、学友たちがよく口ずさんでいたあの歌だがフランス語の歌詞が浮かばない。対岸が見えてきたのは、いかほどたったころであったろうか。プロペラ機は山野を乗り越え、やがて給油と昼食のため長沙機場(エアポート)に降り立った。
中国で海に面している省・自治区は、北から遼寧省、河北省、山東省、江蘇省、浙江省、福建省、広東省、海南省の8省に広西チワン自治区である。
省に昇格した直後の海南島に、香港から広州経由で省都海口市に飛んだのは90年代のはじめであった。島内の交通網もいまだ整備されてはおらず、 “地の果て”三亜市へはチャーターバスで一泊二日(往復5日)の旅であった。いまでは、中国のハワイ―三亜へは中国の各地から直行便が飛んでいる。
数年前であったろうか、上海の某日系企業の社員旅行でこの中国のハワイに足を延ばした上海っ子たちは、海がこんなに青く、白波が押し寄せてくるとは知らなかったという。上海の波止場から高速艇で小一時間はかかった崇明島は、海に浮かぶ島とばかり思い込んでいたようだが、さにあらず、(台湾を入れると)海南島に次ぐ中国三番目のこの崇明島は、長江の河口にデンと横たわり、土砂の堆積で大型船の航行を阻んでいる「ラ ヤンズ」の島である(いまは橋とトンネルで上海市につながっているのだが・・・)。
NHK「中国語講座」のテーマソングであったか、「海よ わがふるさと(大海阿 我的故郷)」はいまもわたしのこころに流れるメロディである。(日本語では)♪小さいころ お母さんが私に話してくれた 海は私のふるさと 海辺に生まれ 海の中で育った・・・、あのリフレイン、♪タ~アハーイア タ~アハーイ・・・は、いまでもわたしの耳朶にこだまする。四界海に囲まれて育った日本人の私ですら、この歌は海への郷愁を蘇らせるものであった。
92年にはじめて吉林省朝鮮族自治区の琿春を訪れたときのこと。北朝鮮と国境を接して流れる図們江は、あと何キロかの地点でロシアと北朝鮮のフェンスをくぐって日本海に流入することになる。望遠鏡で目を凝らせば、日本海を往来する船舶が蟻の歩みのように見えたが、フェンスの先は中国領ではない。この現場に立ってみると、中国の東北地区、特に黒龍江省、吉林省の人たちの海への憧憬を身にしみて感じることになる。それはそうとしても、ウラジオストクは、むかしは中国の土地であったという話になると、はてさて、ということにもなる。
訪米中の「石原発言」から、一年が経った。
日中関係は「あの小さな島」問題をめぐって対立が激化し、「国交正常化四十周年」の記念行事は吹っ飛んでしまった。昨今では中国包囲網を強化しようとする動きもあり、それを煽りたてるメディアもあるが、角突き合わせて、“ホットライン”も無いままに不測の事態が発生すれば、喜ぶのは「死の商人」たちだけであろう。
台湾はこの数十年、海峡両岸をはさんで、ときには戦火を交えた時代からいまの交流を迎えるまで、中国とはさまざまなやりとりがあった。中国の唱える「一国二制度」にはそのままでは乗らないが、実質的には経済から人的交流までその実を挙げており、その成果には嘱目したいものがある。中台関係と日中関係はまったく次元の異なるものではあるが、問題の対処には「華僑」世界の“商談”の詰め方に学ぶ必要もあるのではないかと思う。前にも述べたが(『徒然中国』其之五拾四)、「ケンカは大いにすべし、しかし憎しみあってはならない」ということであり、日中関係もこの四十年、両国政府の間で締結された四つの共同声明にもとづき、「戦略的互恵関係」をいかに構築するかということにつきる。
あの島の問題をめぐっては、台湾も問題提起している(昨年の8月6日)。
この「馬総統・東シナ海平和イニシアチブ」による提言の骨子はつぎの5点である。
「一、対立行動をエスカレートしないよう自制する。 二、争議を棚上げにし、対話を絶やさない。 三、国際法を遵守し、平和的手段で争議を処理する。 四、コンセンサスを求め、「東シナ海行動基準」を定める。 五、東シナ海の資源を共同開発するためのメカニズムを構築する」
日中両国政府とも建前としては「中華民国」を認めていないので、その総統の提言には公式見解は述べていない。わたしは、これは傾聴に値する提言ではないだろうかと思うが、「産経」(2月21日)によると、台湾の外交部は「中国大陸と合作(連携)しない立場」を表明したという。これも、つぎを睨んだジャブのひとつであろうか。
もうひとつの話題も見逃せない。
野田政権の末期、すでに総選挙の日程も公表されていた11月の末、カンボジアのブノンペンで開催されていた東アジア首脳会議で、日中韓のFTA(自由貿易協定)の協議開始が三国の担当大臣間で合意されていたこと。2月20日には早くもその準備会が東京で開催され、3月には韓国でと事務方では着々と作業が進められているとのことである。
未だにきな臭い、勇ましい論調がメディアで目立つ昨今ではあるが、実務レベルでは改善に向けた動きが蠢動し始めている。
アラゴンが亡くなってもう二十年ほどになるが、若いころ読んだかれの『断腸詩集』(一九四一年)に「春」と題するつぎの詩があった。
・・・・
ことし おれたちはずっと待ちこがれていた
みんなの眼が 菫のようにひらく美しい月を
へとへとに疲れた血管のなかに 酒が流れ
林檎の花かげで 陽をよける 美しい月を
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おれたち にせの亡者も も一度よみがえろう
なぜなら いつかきっと 地獄の扉もひらくだろう
いつかきっと 春がやってきて 春の香りは
愛撫のように 風をゆすり起こしてくれよう
・・・・
(大島博光訳『アラゴン選集 Ⅰ』飯塚書店)
日・中に春が訪れるのが待ちどうしい、きょうこのごろである。
(2013年2月25日 記)