“上に政策があれば、下に対策がある”、これは中国を語る有名なことばであるが、昨年の“島”問題で「国交正常化四十周年」記念行事がすべて吹っ飛んだとき、中国側の窓口は“異口同音”に「上からの指示による」と語った。それは単なる記念行事に留まらず、“民間交流”のなかで生み、育ててきていた、たとえば「上海国際マラソン」のような定着していたイベントでさえ、“警備上、不測の事態を避けるため”と中止になった。そこにはこの行事を開催してきた“歴史”を守ろうとする姿勢、“対策”はまったく垣間見られなかった。このことは、豊中市で開催準備中であった「魯迅と友人展」に対しても同様であった。上からの“命令”にただひたすら従う“役人”の姿勢しか感じられなかった。個々の当事者を責めるのではない。この四十年で中国が変わってしまったのである。
日中友好協会設立五十周年記念行事が北京で開催されたとき、わたしは盧溝橋の「抗日戦争記念館」で見たくない光景に遭遇した。大勢の小学生が「愛国教育」のため訪れていたが、まるでピクニックに来ているかのよう、「731部隊」の「生体実験」のパノラマ展示の前でおどけ、騒ぎまくっていた。わたしは随行の関係者に苦言を呈したが、数年後の全面改装時にはこれが撤去されて、A級戦犯の紹介に変わっていたという。むかしの中国では「軍国主義者は日中両国人民の共同の敵であり、99%の日本人民は戦争の犠牲者」ということがよくいわれていた。「敵」と「味方」を峻別して、物事に対処してきていた。いまはどうであろうか、“坊主憎けりゃ・・・”になってはいまいか。
“島”が「核心」なのか、08年の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」が基本なのか、よく考えてみたいものである。
『大阪 与 中国』230号(2013年9月1日掲載)
日中友好協会設立五十周年記念行事が北京で開催されたとき、わたしは盧溝橋の「抗日戦争記念館」で見たくない光景に遭遇した。大勢の小学生が「愛国教育」のため訪れていたが、まるでピクニックに来ているかのよう、「731部隊」の「生体実験」のパノラマ展示の前でおどけ、騒ぎまくっていた。わたしは随行の関係者に苦言を呈したが、数年後の全面改装時にはこれが撤去されて、A級戦犯の紹介に変わっていたという。むかしの中国では「軍国主義者は日中両国人民の共同の敵であり、99%の日本人民は戦争の犠牲者」ということがよくいわれていた。「敵」と「味方」を峻別して、物事に対処してきていた。いまはどうであろうか、“坊主憎けりゃ・・・”になってはいまいか。
“島”が「核心」なのか、08年の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」が基本なのか、よく考えてみたいものである。
『大阪 与 中国』230号(2013年9月1日掲載)