<あのとき・あのころ 第二部>
第二部のはじめに
昨年11月14日に第一部を書き終えてから5ヶ月がたった。
あのときは退院してからまだ4日目。下垂体卒中で緊急入院、切除された腫瘍が視神経を圧迫して、左眼まぶたは自力で開かず瞳孔も左右動転不全のため、右の目をたよりに、いまは死語になっている“ブラインドタッチ”で書いた。
機関誌「上海経済交流」1月号の原稿「ユメは『中国』をかけめぐる~シュールなヴィジョンのドキュメント」を書き上げたのは12月1日であったが、状況は退院時と変わらなかった。
第一部のあとがきで第二部は3月ごろからと予告していたが、そのときの心境は芭蕉のように“枯野”をかけめぐっていた。
あれから5ヶ月が経った。
外観上は入院前より健康そうで、血液検査でも“いうことなし”(主治医談)と回復しているが、なにしろ2年で二度の大病を患い、4ヶ月の入院生活を過ごした体力は従前とは比べるべくもなく、これからは「語り部」に専念したい思いである。
といっても、20年間の<経済交流>のうごきをどのように語るのか、まだ構想もなにもないが、毎月二篇のエピソードを二年くらいの予定で書けたら、と考えている。
第一部同様の身辺雑記、ご笑覧いただければ幸いである。 (2004年3月)
第二部のはじめに
昨年11月14日に第一部を書き終えてから5ヶ月がたった。
あのときは退院してからまだ4日目。下垂体卒中で緊急入院、切除された腫瘍が視神経を圧迫して、左眼まぶたは自力で開かず瞳孔も左右動転不全のため、右の目をたよりに、いまは死語になっている“ブラインドタッチ”で書いた。
機関誌「上海経済交流」1月号の原稿「ユメは『中国』をかけめぐる~シュールなヴィジョンのドキュメント」を書き上げたのは12月1日であったが、状況は退院時と変わらなかった。
第一部のあとがきで第二部は3月ごろからと予告していたが、そのときの心境は芭蕉のように“枯野”をかけめぐっていた。
あれから5ヶ月が経った。
外観上は入院前より健康そうで、血液検査でも“いうことなし”(主治医談)と回復しているが、なにしろ2年で二度の大病を患い、4ヶ月の入院生活を過ごした体力は従前とは比べるべくもなく、これからは「語り部」に専念したい思いである。
といっても、20年間の<経済交流>のうごきをどのように語るのか、まだ構想もなにもないが、毎月二篇のエピソードを二年くらいの予定で書けたら、と考えている。
第一部同様の身辺雑記、ご笑覧いただければ幸いである。 (2004年3月)